補瀉って何だろう

虚証 (正気の虚が中心となる証) に対する治療法を「補法」といいます。正気とは味方です。味方を補うのですね。
実証 (邪気の実が中心となる証) に対する治療法を「瀉法」といいます。邪気とは敵です。敵を追い出したり味方に変えたりするのですね。

中医学は弁証論治を行う医学です。

弁証の基本にして蘊奥は、虚実です。
論治の基本にして蘊奥は、補瀉です。

また、

・補は「員」を用いると説かれます。
・瀉は「方」を用いると説かれます。
補瀉とは何か、それを知るには「員・方」の意味を考える必要もありそうですね。

員・方は陰陽です。円と四角のことです。

規矩方員之至也。《孟子・離婁上》
【訳】定規とコンパスは正方形と円を描く至高の道具である。

補・瀉・員・方について、字源字義から考えます。

▶補法とは

▶補とは…「甫」の字源字義

補は「衣+甫」です。

補という字のコアは「甫」です。甫の意味がイメージできれば、「補」のイメージができます。

甫は、「屮+田」です。田で稲を栽培する様子です。

甫の古字

「甫」の異体字は「圃」です。
まずは広々とした田園、視界一面に広がる田圃 (たんぼ) を想像してください。田植えを終えたばかりの、鏡面のように平らな水面です。

田圃
  • 広々と広がる田圃は、「薄 (甫+艹+氵+寸) 」っぺらいです。
  • 広々と広がる田圃は、「敷 (甫+方+寸+攵) 」…平らに敷き、「博 (甫+十+寸) 」…ひろい。水田のように波のない平らな海は「浦」です。
  • 広々と広がる田圃は、地面に張り付くようにビッタリ張り付いています。手がピッタリ張り付くと「捕」、糸がビッタリ張り付くと「縛」、口がビッタリ張り付くと「哺」 (哺乳瓶など) 、太陽が西の地平線にピッタリ張り付くと「晡」 (日晡潮熱など) 、人にピッタリ張り付くと「傅」 (相傅など) となります。

「補」とは、衣に空いた穴に、薄っぺらい布を、しわが寄らないように平らに敷き、張り付けることです。

ですが、もう少し深読みしてみましょう。田に水を張って代掻きする。広大で波一つ立たない鏡面のような水田。ここに一本の苗を、土が凸凹にならないように気をつけながら、穴をあけて差し込む。そういうイメージが「甫の古字」にはあります。二本の苗ならば「苗 (艸+田 )  」です。甫は一本です。今までかかった田起こしや水路整備等の膨大な仕事、気の遠くなるような時間と労力をかけた準備 (望聞問切と弁証) は、この一本の苗 (鍼) のためにある。一本の苗に集約されるのです。

とくに、「博」と「圃」のデザインは参考になります。
博は「十+甫+寸」です。寸は手の動作。「十」と「甫」が重要になります。田圃という広大なテリトリー (圃・囗) を持ち、それを一箇所にまとめるイメージが「十」です。つまり、広く網羅した知識を集め、頭で一つにまとめるのが「博」です。

臨床と照らし合わせます。

穴が空いたように気が虚ろになった穴処に、鍼をビッタリと張り付くようにくっつけ、広大な体 (広大な大地) にまとう気を、一つの穴処に集中させます。それがまとまったところで鍼を取り去りますが、その後もそこに気はくっついたまま、集中したままです。それはまるで波すらたたない静かな水田のようです。このイメージどおりに手技ができれば補法です。鍼を刺すか刺さない (かざす) かは、どちらでも良いことです。

このような気の動きを体得するには、鍼を使わないと難しいと思われます。

注意事項があります。術者の心が波打たず一定でなければ、補法は難しいと思われます。また一心に集中できなければ補法は難しいと思われます。些細なことで怒ったり、過ぎ越し苦労や取り越し苦労をしたりすることは良くないことだ…と言う気持ちこそ肝要です。

また、広大な田圃を耕すような根気が必要です。膨大な作業を苦にもせず、淡々と従事する。誰かにやらされているのではなく、一本の苗を泥の中に差し込むという唯それだけの理由で、目的だけは微動だにせぬ不動心をもって、この延々続く作業に集中する。万事を一事に集約する姿勢こそ肝要です。

▶員とは

補必用員.《素問・八正神明論26》

補とは「員」です。

員とは「○」つまり円のことです。「鼎」(かなえ) の丸い形状から生まれたデザインです。

員の古字

「圓」(えん) が「円」の異体字であることからも、それが伺えます。

しかしなぜ「員」が「全員」「社員」など、メンバーを表す意味があるのでしょうか。

一つの組織がまとまっている様子は○で表されます。○は円陣を組むかのように、全員が組織全体 (地球全体) のことを考え、中心方向を向いている様子です。このイメージによって、「員」は「〇」から「メンバー」に意義展開したと考えられます。

まるくまとまる

臨床と照らし合わせます。
気 (組織を作るメンバー) が四方に散り、たがいに連携しあわず反目しあった状態があります。組織の中心部分は求心力を失って虚ろになっています。その「虚ろな求心力」を代表する穴処に、鍼をあてがって引き集めます。たがいに反目しあっていた気 (メンバー) は、一気に組織の中心に向き直り、力を合わせます。このイメージどおりに手技ができれば補法です。鍼を刺すか刺さない (かざす) かは、どちらでも良いことです。

このような気の動きを体得するには、鍼を使わないと難しいと思われます。

注意事項があります。術者の心が円満にして平和でなければ、補法は難しいと思われます。「円」の最小は家族円満、究極は世界平和です。それを願う気持ちこそ肝要です。

▶瀉法とは

▶瀉とは

瀉は「氵+寫」です。

瀉という字のコアは「寫」です。寫の意味がイメージできれば、「瀉」のイメージができます。

寫は、「写」の旧字体です。「宀+舄」です。

「舄」には、あちこちに移動するという意味があります。

  • 「舄」は、鵲 (かささぎ) という鳥のことです。鵲はあちこち移動します。“舄,䧿也”《説文解字》
  • 「舄」は、靴のことです。靴はあちこち移動します。 “舄,履也” 《広雅》

「宀」は、家屋です。家屋には屋根があることから、蓋 (ふた) という意味もあります。「靴」で考えると、家のなかに靴というのはあるのですが、家から出ていく時に使われますね。「鳥」で考えると、逃げないようにカゴかなにかで蓋をして閉じ込めていても、蓋を取れば逃げて外に飛んでいきます。このように「寫 (写) 」には「移動する」という意味があります。たとえば「写本」「写経」は書き写す (文字を移動する) という意味で使われます。

寫の古字

臨床と照らし合わせます。
フタをして閉じ込めた鳥がいます。そのフタをパッと取るような軽微なアクションで、待ってましたかのように鳥が飛び立ち、外に逃げてゆく。邪気で充実した穴処に鍼をあてがい、その瞬間に邪気が散ってゆく感覚です。このイメージどおりに手技ができれば瀉法です。鍼を刺すか刺さない (かざす) かは、どちらでも良いことです。

邪気は固まりたがっているのではなくて、散りたがっています。そうできなくしているのは、フタ (身欲) で閉じ込めてしまっているからかもしれません。

注意事項があります。このフタは、決して頑丈で重いものではありません。鳥を捕まえ閉じ込めるのに、そんな重いものでは追いかけられませんね。きっと何かで編んだような軽いものです。ただし鳥は、そんな軽いフタでも、覆われてしまうと逃げられません。フタを取り去るには、術者のこだわりのない、軽快で伸び伸びとした心こそ肝要です。これが患者の堅く閉ざしたフタを、軽微に、音無く取り去ってしまうことでしょう。

▶方とは

寫必用方.《素問・八正神明論26》

方とは方形のことです。正方形や長方形は、方形の一種です。つまり四角ですね。

方の字源は諸説ありますが、ここでは2つを紹介します。

▶枷 (かせ)

1つ目は、罪人にかませる枷 (かせ) です。「足かせ」の枷です。中国では首に四角い板をはめ込み、身動きできなくしたようです。その象形であるという説です。一般的な説です。

方の字源1

罪人は流罪となって辺境の地にに放逐されます。よって方には「中央から四方 (四辺) に放つ」という意味が生じます。

▶耒 (すき)

2つ目は、農機具の「耒 (すき) 」の象形という説です。徐中舒《耒耜考》の説です。こちらの方が説得力があり、しかも臨床に合致します。

“方之象耜,…古者秉耒而耕,刺土曰推,起土曰方…” 《耒耜考》
【訳】方は耜 (すき) を象ったものである。古人は耒 (すき) を手にして耕した。 (耒を) 土に刺すことを「推」といい、土を起こすことを「方」という。

方の字源2

「耒」 (すき) の字源を調べてみます。

耒の字源1

耒はこのように、「手」+「方」であることが分かります。つまり「方」は耒 (すき) であるということが想像できます。ここが《耒耜考》の説得力のある部分です。

耒の字源2

耒 (すき) は、「耕」の字源にもなっています。
耕は「耒+井 (丼) 」です。

耕の字源

「井」 (丼) は、井戸の中に水のある形です。水とは、古代中国では「生命の根源」を非常に意識します。その「水」が、耒 (すき) を用いることによって湧き出る。つまり「農作物」という生命を生み出し、その生命によって我々の生命をも生み出してゆく。まさに根源は「井 (丼) 」が象徴するのです。「丼」の中の「・」は、 “天ははじめに水を生じた” とする「初めの一滴」を示すものかもしれません。

つまり、「方 (すき) 」に「手」をたすと「生命の泉 (井) 」が湧いてきた。「方」という字をコアにして「耕」という字が成り立っているのが分かります。

瀉は「耕」である。簡単に言うとそうなります。

耕した土に息づく命

耒 (すき) を使う目的は、堅い土を柔らかくすることです。土に突き刺し、土を起こして、その結果として土は四方にバラバラになって散ります。突き刺したところの土が柔らかくなるので、そこに農作物 (新たな命) が育つことになります。

よって方には「中央から四方に散る」という意味があります。

▶四方に拡大する

方には、中央から四方に放散するというイメージがあります。

つまり方は、外に向かって拡大する… ということです。
員 (円) が、内に向かって集合する… というのとは対照的です。

ではなぜ、拡大は「四角」なのでしょうか。円でもいいのでは?

農業で作物を作る場合、必ずまっすぐ縦列に苗を並べて育てます。田植えも真っ直ぐに植えていきますね。すると必然的に、四角い区画の田や畑となります。丸い田畑は植えにくく、隣接する田畑との間にも隙間ができて効率が悪いのです。その田畑の周囲を開拓して拡大していく際は、これも必ず縦に伸ばしたり横に伸ばしたりして、できるだけ四角形を維持します。よって古代中国人にとっての四角は「広がる」というイメージを持ったと考えられます。

四角は広がる
  • 四角いタイルを並べたように区切られ、区画の整った田畑は整然としていて美しいですね。ここから「品行方正」のように、きちんとして正しい…という意味が生まれます。ここから模範的・マニュアル的な意味に意義展開し、「読み方・考え方」などの使い方が生まれます。「四角い」という言葉は、きっちりして融通が効かないイメージがありますが、意味が通じますね。

臨床と照らし合わせます。

凝集して塊をなした邪気の存在する穴処を見つけます。そこに鍼をあてがい、硬さがフワッと緩むと同時に散ってゆく。その後その穴処には、邪気と入れ替わるかのように、生き生きとした正気が息づく。このイメージどおりに手技ができれば瀉法です。鍼を刺すか刺さない (かざす) かは、どちらでも良いことです。

耒 (すき) を土に突き刺すイメージは、刺鍼や雀啄・旋捻の手技とも重なりますね。

苗がすでに育ちつつあるのに土を耕すと、苗が弱ったり枯れたりします。瀉法はむやみに行うものではないというのはこういうことです。ただし、どの部分をどういう時に瀉法するか (中耕・土寄せするか) をわきまえるならば、作物は郁郁青青と成長していくでしょう。

注意事項があります。術者の心が破壊的では本当の瀉法になりません。土を破壊する (耕す) のは、芽を建設 (育てる) するためである。建設のための破壊。命を生み出すための瀉法。ハンディーキャップをアドバンテージに変える前向きさですね。そもそも方は「広がり」です。広がり進展して止まない。戸を押し開く。開放する。伸びる。成長する。開拓者の気持ちこそ肝要です。

▶補瀉は天地

▶天地を駆け抜ける

ここまで、
・補と員
・瀉と方
について、詳しく分析しました。

実は、《素問》の文章には続きがあり、同じキーワードが用いられています。

寫必用方.其氣而行焉.《素問・八正神明論26》
補必用員.員者行也.《素問・八正神明論26》

それは「行」です。

行とは「通り抜ける」です。上下・前後・左右に駆け抜ける。これが「行」のデザインの元になっています。

https://sinsindoo.com/archives/shomyaku2.html#行

瀉法は、穴処の滞りを取り去っていますから、「通り抜ける」は当然です。

注目は、補法も「通り抜ける」がないといけない、ということです。穴処に鍼を持っていく、気が集まる、凝縮する、タメをつくる、そしてめぐる。スッとした感じが術者にも患者にも感じられることが大切だと思います。

生命というものは、めぐりめぐってやまない性 (さが) ですので「行」は当然のことです。「行」を意識していれば、虚実錯雑にも対応しやすくなります。

▶天地を我がものとする

戴圓履方.《淮南子・本經訓》
 高誘注:圓.天也.方.地也.

【訳】円 (天) を頭上に戴き、方 (地) を足下に履 (ふ) む。

円 (サークル) は天 (宇宙) を表し、方 (スクエア) は地を表す。そのように古代中国人は思索したのでしょう。その天地の間に人が立つ。天地人です。

天地人

サークルは求心性で「満」「和」でした。
スクエアは遠心性で「開」「展」でした。

天地人…すなわち全大宇宙とは、この図のようなイメージです。

  • サークルは、ビーチポールをイメージしてください。中に空間がありビニールのような果 (はて) があります。求心性に球形を保ちます。“従革” という表現から、古代中国人は「天」にそういうイメージを持っていたと思われます。
  • スクエアは、限りなく広がる様を示し、遠心性に尖端 (角) を拡大させます。
  • その中心に人がいます。

物質的ではなく、陰陽 (機能) 的にみた全大宇宙です。

全大宇宙における「球形の求心力」を借りて補法を行うと良いでしょう。
全大宇宙における「方形の遠心力」を借りて瀉法を行うと良いでしょう。

大空はドーム状ですね。この丸いテリトリーにある気をこの一本の鍼に集約させるのです。
大地は平らですね。この四角いテリトリーに一本の鍼から気を無限に拡大させるのです。

ツボで虚実を診る際、「球形の求心力」の力を借りると絶対的な虚が見え、「方形の遠心力」の力を借りると絶対的な実が見えます。気をどの方向に運ぶかは診察治療において最重要事項であると思います。

自力でやろうとすると、術者に疲労感が出ることがあります。それを避けるためにも、こういうイメージは大切だと思います。

ぼくはイメージしようとしなくても、なぜだか自然とそれができます。だから治療していて力が奪われるような疲労感を感じたことがありません。天地を相手とする「農」に親しんできたことが大きいのかもしれない… 補瀉を字源にさかのぼって見て、そんなふうに思いました。

▶天地を耕し種をまく

古代中国人が「農」をいかに重視していたか。

字源を調べていると、「農」にまつわるものが多いことに驚かされます。また農か、これも農か。古代中国文明は農を中心に展開してきたものであるという知識は、折に触れての字源の勉強のなかで自然と育ちつつあります。そして、東洋医学もまた「農」抜きにして語れないであろうことが、確信として根付きつつあります。

そして、かの「補瀉」までもが「農」に深く関わる。ここに驚きを新たにするのです。

苗を刺す (植える) のが補法。
耒を刺す (耕す) のが瀉法

面白い対比だと思いませんか?

「ほめる」は補法。
「しかる」は瀉法。
子育ても同じです。ほめてばかりでは育たないし、しかるばかりでも育たない。しかも「しかる」は細心の注意を払う必要のある方法です。

勉強と違って、農は机上でやるものではなく現場でやるものです。誰もが手軽にプランターでも可能です。目先の利を求めずに農を実践してきましたが、いろんなところで東洋医学の理解に役立っていると実感します。農の実践よるイメージがないと本当の理解は難しいかもしれない… そう思うくらいです。

農耕文化は、そだてる。
狩猟文化は、しとめる。

東洋医学の根幹にあるのは農耕文化の「育てる」です。

耕すことは種をまくための布石です。
種をまくのは収穫のための布石です。

悠久の天地にあって、悠久の時空のなかで、悠久の布石を打つ。

補法も瀉法も
「そだてる」「いかす」ための手法です。
「しとめる」「ころす」ためではありません。

長期的視野・持続的展望こそ、東洋医学の真髄です。

▶まとめ

補法は「員」を用いなさい。員という漢字の意味を知り、そのイメージを用いて鍼を行いなさい。
瀉法は「方」を用いなさい。方という漢字の意味を知り、そのイメージを用いて鍼を行いなさい。

《素問・八正神明論26》では、そのように提言しているのではないでしょうか。

東洋医学を勉強する際、かならず漢字が使われます。それら一つ一つの文字が、古代どんなイメージで使われたかを知ることが不可欠です。よって僕は字源字義を非常に重視しています。

漢字はイメージ画像です。

そのイメージを知るには、まずは記憶することです。しかし僕は何度覚えてもすぐに忘れます。忘れてはイメージが伴いません。手間のかかる作業をもいとわず、それを見て何度も復習する。もう思い出そうとしなくても、そうとしか思えなくなるイメージが身につくまでやりたいと思います。

中国伝統医学を受け継ぐ鍼灸家として、補瀉は臨床そのものといっても過言ではありません。鍼を持ち、患者さんのお体に近づけるまさにその時、術者の魂にまで染み込んだ「イメージ」が力を発揮するのです。いかに強いイメージを持っているか。臨床からそれを得るだけでは正しい道に進めません。先人が培って残してくれた「学問」を利用しない手はないでしょう。

さらに深いイメージを求めるならば、「農」をも利用しない手はありません。

明確なイメージを持つ。

意念は像を為す。

イメージ (気) は現実化するのです。

テキストのコピーはできません。
タイトルとURLをコピーしました