東洋医学でいう「肝臓」がどういうものか、特に「条達」とはどんなものか、「東洋医学の肝臓って何だろう」で詳しく説明しました。その続編として補足を展開したいと思います。
前編では「条達」という言葉を用いましたが、この続編では「疏泄」という言葉に置き換えます。条達と疏泄、いずれも同義です。なぜ置き換える必要があるかというと「疏泄太過」「疏泄不及」という2つの中医学用語を用いるからです。
司疏泄者.肝也,<格致余論・陽有余陰不足論>
疏泄太過と疏泄不及、この2つの用語は、いずれも「疏泄異常」です。「誤った疏泄」とでも言いかえると分かりやすいでしょうか。
誤った疏泄、これがキーワードです。
肝臓とは、非常に難解な概念です。これを理解できれば、「人間」というものが理解できたと考えてもいいくらいです。中医学での説明も、まだまだ発展途上にあると思います。よってここでは、疏泄のありようについて、かなり私見を交えていることを断っておきます。
肝気鬱結
ストレスがあるとしんどくなりますね。
肝臓が鬱結したからです。鬱結というのは、疏泄できなくなったことだと理解してください。疏泄できなくなると、滞りますね。この状態を “肝気鬱結” と言います。肝鬱 (肝気鬱結) した結果、気滞が起こった。これを “肝鬱気滞” といいます。気滞とは滞りです。滞りは緊張になります。
肝気鬱結 (肝鬱気滞) から、いろんな病態に発展します。
まず肝気逆です。気滞 (疏泄不及) が陰陽転化して、気逆 (疏泄太過) が起こります。
肝気逆は二つに分類されます。肝気上逆と肝気横逆です。
肝気上逆は、上に疏泄太過が起こります。
肝気横逆は、横 (脾胃) に疏泄太過が起こります。
これらを中心に展開していきます。
「肝臓のみ」の治療はしない
そのまえに、まず押さえておきたいのは、以下のことです。
東洋医学的な色合いの濃い考え方です。物質を基にした西洋医学は、一つのパーツを修理することに重きを置きます。機能を基にした東洋医学は、機能の連携のバランスをとることに重きを置きます。では、肝臓と上記二臓とは、どのような関係があるのでしょう。まずは、肝臓と腎臓の関係から見ていきましょう。
肝と腎の関係
腎臓 (精根) に支えられている
肝は木、腎は根にたとえられます。
東方青色.入通於肝.開竅於目藏精於肝.其病發驚駭.其味酸.其類草木.
<素問・金匱眞言論 04>
腎者.精神之舎.性命之根.
<華佗「中蔵経」>
木は根によって支えられている。根がなければ木は枯れてしまいます。肝と腎も同じ。肝は腎によって支えられています。
「精も根も尽き果てる」という言葉がありますが、腎臓は精であり根であるのです。
血に支えられている
それは、気が血に支えられているのと同じです。これは「東洋医学の血って何だろう」で説明しました。腎に蔵されている「精」は作り変えられ、「血」になります。「血」は肝臓に蔵され (肝血) 、肝臓の気 (肝気) を生み出します。
肝藏血.<素問・調經論 62>
もともと肝気は勇猛果敢な将軍です。肝血はそれを優しくなだめ潤しつつ育てるのです。そのため、肝血の潤いがなくなると、肝気はあらぬ方向に暴走してしまいます。これが「誤った疏泄」です。
肝者.將軍之官.<靈蘭祕典論 08>
よって以下のようなシーソー関係が成り立ちます。
肝気が暴走すると、肝血が弱くなる。
肝血が弱くなると、肝気が暴走する。
肝腎同源
肝血が足りていると、肝気は暴走しなくなります。その肝血の供給源が腎臓というわけです。腎臓を強くしておけば、肝気の暴走が防げることになります。
逆に、ストレスが常にあって、肝気が常に強くなりすぎた状態だと、肝血が常に足りなくなるので、腎臓が弱くなっていきます。 肝臓を調整して、腎臓が弱るのを防がなければなりません。
このように、肝臓と腎臓は精と血の観点から一つの機能としてみることができます。これを肝腎同源といったり、精血同源といったりします。
腎精が強いと肝血も強い。結果として肝気は正しい方向に疏泄する。
腎精が弱ると肝血も弱る。結果として肝気はあらぬ方向に疏泄する。
暴走は疏泄太過
あらぬ方向とはどの方向でしょう。”下 (腎臓 ” や “土台 (血) ” の支えを失った肝気は “上” に暴走します。肝気の暴走は、疏泄太過といいます。上に疏泄太過を起こしたものを、肝気上逆と言います。
疏泄太過は、肝気偏旺とも言い換えられます。五志過極や相火妄動もよく似た概念です。疏泄太過は出血・崩漏・滑精などの体液の暴走に用いられることが多く、肝気偏旺は気の暴走に用いられますが、これらをまとめた概念を作る必要があります。
誤った疏泄は、疏泄太過と疏泄不及に分類されます。
あらぬ方向とは、誤った道です。この道を進むことを疏泄太過といいます。この状態では「つらさ」は自覚できません。たとえば大酒のみで酒がやめられない。つまり興奮状態です。肝臓に負担をかけていても自覚症状が出ません。
誤った道はいつか行き止まりになります。これを疏泄不及といい、気滞や気虚が起こって「つらさ」が自覚されます。「症状の自覚」です。大酒がたたって肝硬変になり食欲不振や倦怠感が出てきた。
脳梗塞の前夜はつらさがありません。疏泄太過です。
脳梗塞を起すとつらさが起こります。疏泄不及です。
疏泄太過を起さないようにすること、つまり肝腎を整えることが、疏泄不及 (病気) の予防となるのです。
肝と脾の関係
肝と脾は「同源」ではない
肝臓と脾臓にも、肝臓と腎臓の関係によく似た関係があります。
肝気が暴走すると、脾臓が弱くなる。
脾臓が弱くなると、肝気が暴走する。
ただし、違いもあります。肝臓は木で脾臓は土です。
中央黄色.入通於脾.開竅於口.藏精於脾.故病在舌本.其味甘.其類土.
<素問・金匱眞言論 04>
木は土で養われていますが、木と根の関係とは少し違います。木と根とは同じもの (肝腎同源) ですが、木と土とは違うものです。木は土の養分を吸い上げて、土に負担をかけます。土は木に養分を与え、木のために犠牲なってくれます。わがまま息子とお母さんの関係…別人物の関係ですね。息子が家庭内暴力を振るうのです。
横逆…脾臓は攻撃される
よって以下のような悪循環の関係が成り立ちます。
肝気が暴走すると、脾臓を攻撃する。
脾臓が弱くなると、肝気が暴走する。
肝気が脾臓を攻撃することを「横逆」と言います。これも誤った疏泄 (疏泄太過) の一種です。肝気があらぬ方向に暴走する。その暴走先が、自分を養ってくれている土なのです。木乗土とも言われます。
横逆は、単に肝が脾を攻撃するとまる覚えにしてもいいのですが、それでは面白くないので説明を試みます。
まず、横逆を気と血の関係で説明してみましょう。気の暴走=血の弱り …でしたね。だから、肝気が暴走すると肝血が弱ります。血のソースは脾がもたらす栄養分です。だから、血=脾とも言えます。血が弱いということは、脾が弱いということに等しい。
ゆえに、肝気暴走→肝血が弱い→血が弱い→脾が弱い。
逆もしかり。脾が弱い→血が弱い→肝血が弱い→肝気暴走。
また、こういう説明の仕方もできます。肝臓の機能である疏泄。これは脾臓の栄養分を動かすルートの流暢な流れ (運化機能) にも一役買っています。疏泄ができないと、運化もうまく働かず、脾臓が停滞します。肝気が道なき道を暴走し動けなくなると、脾臓が弱ってしまうのです。
肝気が正しい方向に疏泄すると、脾臓の運化を助ける。
肝気があらぬ方向に疏泄すると、脾臓の運化に逆らう。
脾臓が攻撃されると、生命力の低下につながります。
実はこの低下が、自覚できる場合と自覚できない場合とがあるのです。これを疏泄太過型と疏泄太過不及混合型に分けます。
上逆も横逆も、それそのものが疏泄太過です。しかし厳密には “より純粋な疏泄太過…症状が出ない”と “疏泄不及ぎみの疏泄太過…症状が出る” に分類できます。さきほど “脳梗塞を起すとつらさが起こります。疏泄不及です。” と説明しましたが、厳密には後遺症後も肝気上逆が持続しつつ自覚症状がありますので、これは疏泄不及ではなく、疏泄太過不及混合型というのが正確です。
- 疏泄太過型 …純粋な疏泄太過=症状の自覚が出ない。
- 疏泄太過不及混合型…疏泄不及 (症状の自覚が出る) ぎみの疏泄太過=何割かの症状が出る。
疏泄太過不及混合型の横逆
肝の暴走が脾胃を攻撃して症状が出ています。誤った疏泄が脾を攻撃し、その結果、脾を停滞させて疏泄不及となっています。
肝脾不和
脾臓が攻撃されている状態が表面化している状態のことを肝脾不和といい、脾臓の弱りが症状として表れ、つらさとして自覚されます。
たとえばストレスで、胃が痛くなる・食欲がなくなる・下痢する…。これは肝の暴走が脾を攻撃している姿です。肝から脾に影響するのです。
その結果、脾の病証が出る。「肝脾不和」といいます。敏感なものでは、コーヒーを飲むだけで胃の調子を壊す。カフェインが肝を興奮させ、肝が脾を弱らせる ためです。
脾が弱ると気が弱ります。すると暴走していた肝気も弱り、誤った疏泄が落ち着きます。こうして体はなんとかして誤った疏泄をやめさせようとする。誤った疏泄がある限り、生命力は回復しないからです。つらくて嫌な「症状」には、実はこういう意味があります。病気は体をよくするための きっかけなのです。
肝と脾のシーソー関係
肝と脾にはシーソー関係があり、脾から肝に影響することもあります。つまり、脾が弱い体質の人が、ストレスでイライラしやすい場合がある。体が弱くて神経質。これは肝気の暴走が慢性的に起こっています。もともと脾が弱いため、肝がいきり立っている。
肝気がいきり立つと体の痛みが起こりやすくなりますが、こういう場合、その痛みの原因は、脾の弱りということになります。これも実際にたくさん見られます。食欲が出てきたら痛みもましになった…。よくあることです。
歯が慢性的に痛くて、なにをやっても良くならない。かなり重篤な方がおられます。これは上記のパターンが多く見られます。慢性的な脾虚を治すわけですから時間がかかります。歯の治療だけではよくならない、歯が問題ではない…と患者さんが理解できるかどうかがカギとなります。
疏泄太過型の横逆
自覚できない場合です。ここでは疏泄太過型と名付けます。<a id=”●”></a>
肝の暴走が脾を攻撃しますが症状が出ません。誤った疏泄が脾を攻撃するのですが、疏泄太過の状態のままとなり、その結果、脾は停滞せず疏泄不及となりません。しかし疏泄太過はいずれ不及に転化します。そのときに、溜めた分だけの大きな症状が出てしまうのです。
「隠れ脾虚」は肝気が黒幕
このような現象は水面下でも起こりえます。つまり、脾臓が攻撃され弱っていると自覚できるとは限らないのです。「隠れ脾虚」とでも呼びましょう。
人間はいずれ死にますが、後天の元気である脾臓が弱らなければ死ぬことはありません。つまり、脾虚は徐々に進行しているのです。この辺は西洋医学の肝臓 (沈黙の臓器) が水面下で弱ることとと符合します。
肝臓 (西洋医学の) には解毒作用があります。食べたものは小腸で吸収され、それは全身を巡らずに、門脈を通って、いったん肝臓に直送されます。そこで解毒されて、初めて純粋な栄養となり、心臓に送られて全身をめぐります。肝臓 (西洋医学の) がなければ、食物から栄養は取り出せないのです。もし肝臓 (西洋医学の) がダメになって解毒できなくなると、脳に毒 (アンモニアなど) が回って命がなくなります。
そう考えると、肝臓 (西洋医学の) は広義の消化器とも言え、脾臓 (東洋医学の) の一端を担っていると言えます。
肝臓 (西洋医学の) は、最後の最期まで働き続けます。そして、その働きを終えたときが命の終わりなのです。
“肝臓” を考える…東洋医学とのコラボ をご参考に。
脾臓 (東洋医学の) がダメになると命がなくなります。これは、肝臓 (西洋医学の) がダメになると命がなくなる…という部分と重なります。
木 (肝) と土 (脾) は切っても切れない関係です。自然界を見ていると確かにそうですね。木があって、初めて土には栄養分が宿り、水分を保持することができるのですから。
食べ過ぎ・飲み過ぎは、脾臓 (東洋医学の) をダメにする。
食べ過ぎ・飲み過ぎは、肝臓 (西洋医学の) をダメにする。
視点はちがうが、見ているものは同じです。その弱りを強くしていくのが治療であり、あらゆる病気を治すための土台になります。
隠れ脾虚の有無は、少し注意して患者さんを診ていると分かります。脾虚は症状に出ないことが多い。ガンなどはその適例です。寿命が近づいていても、脾虚 (食欲不振など) の症状はしばらく自覚されず、急に自覚されて急変することがほとんどです。この辺が弁証の難しさでしょう。肝気の動向いかんで脾虚は自覚されないのです。
ストレス食いの病理
隠れ脾虚の具体例を挙げましょう。
ストレスがあっても、平気で食べる人がいますね。普段よりも食べてしまう…という人もいます。ストレスは明確ではないが、なにかムキになって食べてしまう…という人もいます。
こういうものを、今は分かりやすく「ストレス食い」と表現します。
この場合、とくに甘いもの・脂っこいもの・めん類・お酒・カフェイン類に走ることが多いようです。食べることで、なにか気持ちが落ち着く、ホッとすると感じます。
こういうのは、もちろん肝脾不和とはいいません。しかし結果として、肝臓が脾臓を攻撃していることには変わりありません。
そもそも肝気が暴走して脾臓を攻撃するのですが、純粋な暴走である疏泄太過は、「つらさ」を自覚できません。よって胃痛などが出ません。だから飲食に走るという暴走が止まらない。
まず、ストレスを受ける。すると疏泄不及 (気滞) を起こしそうになる。ここで、ストレスを和らげる考え方…たとえば人を許すとか、善意に解釈するとか…ができれば、正しい疏泄をしたことになります。しかし、なかなかそうはいかない。そうはいかないと気滞の「つらさ」が起こってきます。そのつらさを起こすまいと、飲食をとる方向に舵を切る。これは無意識 (肝臓) が行います。
食べたら落ち着くのではなく、症状がなくなるのです。そして、栄養として体が求めていない不要な飲食をしたことによる負担が体に残る。しかも無症状で…。そしてそれはいずれ発症します。たとえば糖尿病・高脂血症・脂肪肝・動脈硬化などがそれです。ひいては脳梗塞やガンにも つながります。
甘い物の行きつく先
甘いもので気持ちが落ち着くと感じますが、実はそうではない。運動もせずに甘いものを多食すると、栄養をさばききれず、水面下で脾臓を弱らせていきます。それから、痰湿がたまってくる。痰湿が長くとどまれば邪熱を生み、湿熱に変化する。湿熱は血を焼いて、瘀血まで生み出す。
また、脾が弱ってくると肝気が暴走し始める。普段からイライラしやすくなる。ストレスを感じやすくなる。あるいは そういう自覚すら出ないこともある。そして甘いものが手放せなくなる。負の循環です。
暴走を始めた肝気は、条 (みち) を失っているわけですから、行き止まりになって鬱滞し気滞を生じたり (疏泄不及) 、道なき道を行って戻れなくなったり (疏泄太過) 、いろんな問題を生じます。
真っ赤な顔して狂った将軍…肝の気滞が邪熱を生みだします。邪熱は、痰湿をますます粘質のものにしたり、血を焼きカチカチにしたりします。ガンや脳梗塞など、病気の大きな原因となります。
痛みと肝臓
「誤った疏泄」にからめて、肝臓と痛みの関係について説明します。
痛みと気滞
疏泄には、正しい疏泄と誤った疏泄があります。
肝臓が正常だと疏泄も正常となる。
肝臓が異常だと疏泄異常が起こる。
誤った疏泄には2種類あります。疏泄太過と疏泄不及です。
これらは陰陽関係で、陰陽転化の法則にしたがい、太過になったり不及になったりを繰り返します。ただし、それは陰陽幅の大きい人に言えることで、陰陽幅の小さい人は、疏泄太過と疏泄不及が錯雑したものが多いと思います。
疏泄太過は無症状です。
疏泄不及は「つらさ」が出ます。痛みはこれが原因です。
わかりやすくします。
肝は「木」のように「上にのびのびと伸びて成長する自由闊達さ」を持っていましたね。これが「条達」で、正しい「条」 (みちすじ) を行き「達」するのです。全身の機能 (気) を、のびのびと滞りなく動かすのです。
もし、正しい道を行かず、誤った道を行けば、途中まではトラブル (症状) なくいけるのですが、いずれ行き止まりになりますので、 鬱滞します。気滞ですね。気滞が痛みの原因となります。
不通則痛。通則不痛。…通じなければ痛み、通じれば痛まない。
痛みと左右
別の見方をしてみましょう。
肝臓は、もともと「木」のように上に伸びる性質があります。正しい疏泄ならば、上に清陽が昇る。清陽とは、青空を満たす澄んだ空気のようなものです。その結果、頭が冴えて瞬時に目がハッキリして体が軽く動きやすい。正しい道筋で気が上に昇ると、さわやかで活動的なのです。
もし誤った疏泄なら、上に機能の過剰な偏りが起こる。簡単に言うと、上に邪気が昇りやすくなる。上に気の重心が移動するとどうなるか。頭でっかちの建造物を想像してください。左右に傾こうとしますね。左右の問題が出る。人体の左右が崩れてしまうのです。
考えてみてください。痛みは多くは左右どちらか片側に出ますね。こういう痛みは、肝の異変をまず疑ってよい。鍼は、この気の偏在を修正するのに適した方法です。ただし、打つ鍼は一本のほうが効果が顕著です。左右にくずれたバランスを一本鍼をつかって修正すると、上下のバランスまで勝手に治ってしまう。結果的に気が下がり、気分は爽快になり、痛みは知らぬ間に消えている。
緊張が解けるからです。適度な緊張感と集中力があって、国のためを思い戦う「やさしい将軍」に戻るからです。
蔵血と肝臓
肝臓は血に深くかかわり、出血が止まらないとき、肝臓を治療すると、出血が止まることがあります。これは蔵血作用がかかわるからです。かなり専門的な内容になりますが、興味のある方は出血…東洋医学から見た4つの原因と治療法に説明しましたのでご覧ください。
出血も誤った疏泄と大きくかかわります。
まとめ
疏泄とは、メンタル・フィジカルどちらにも言える「流暢 (りゅうちょう) さ」のことです。メンタルなら気分が良く、清々しくて伸びやかな気持ちでしょう。フィジカルなら血液循環がスムーズで、呼吸も気持ちよく胃腸も快調…といったところです。
この流暢さが滞ったとき、疏泄不及となります。イライラ・モヤモヤして閉塞感があり、血液はモタモタして息苦しく、胃もたれして便秘する…となります。これはいやですね。だから何とかしようとする。だから回復するのです。
この流暢さが方向を誤った時、疏泄太過となります。大酒を飲んで気分がよい。この気分の良さは正常な疏泄ではなく、肝硬変になる序章です。しかし、気分が良いために、何とかしようとはならない。だから回復しないのです。
疏泄不及と疏泄太過は陰陽関係です。陰極まって陽となる。陽極まって陰となる。夜が極まると昼となり、昼が極まると夜となります。
疏泄不及は疏泄太過に変化しやすい。症状がたとえ消えたとしても、悪習慣が続いていたとしたら…。
疏泄太過は疏泄不及に変化しやすい。悪習慣を治さずにいると、いずれ大病を患うことになるのです。