タチの悪い詐欺広告のようなタイトルだが、辛抱して読んでいただきたい。
76歳。女性。2024年8月27日初診。
淡路島からの来院、朴訥な高齢の女性、娘さんに連れられての初診である。
初診…8月27日
「で、お母さん、今日一番治してほしいのは?」
「こむら返りがしますねん。左のここらへん。それから両足がむくんで重いのと…。」
「左ふくらはぎ (腓腹筋) ですね。こむら返りはいつですか? 夜? 昼? 」
「朝起きる前。それから目が充血するのと、めまいもあって…仰向けに寝ると…。」
「めまいは、起こったらどれくらい続く? 何分ですか? それとも何十分ですか?」
「何十分も続かへん。2〜3分くらいかなあ。一回救急車呼んだこともあってん。」
なるほど、落ち着いている。患者さんは症状をもっと大げさに言いたがるものだ。救急車を呼ぶくらいのめまいがあるのに、 “何十分も続かない” と事実を述べる。こういう冷静さは、治すための追い風となる。アゲインストは、自宅からの遠さ…。治療機会が得にくいのは明らか。
しかし。全力をつくす。
「それから。」
「はい、何ですか?」
「左目が見えへんねん。真ん中に黒い影があって。」
「ほほう。黒い影が見えるんですね? その黒いのが邪魔で? 見えない?」
「そう、ぜんぜん見えへんねん。」
「はあ、そうですか。」
真っ黒で全く見えないという。つまり視力は0、失明 (片目失明) である。
こういうのを中心視野欠損という。真ん中の黒い影のことを中心暗点という。黄斑変性や中心性網膜症などが考えられるが、聞けば何十年も前からとのこと、そんな長期ならば可能性が高いのは変性で、一度欠損した視野は二度と回復しない。これはちょっと治りにくいだろうと、軽く聞き流す。
それよりも、まずはこの左こむら返りと下腿のむくみである。
そもそも、朝方にこむら返りが起こるのは、多くは痰湿である。痰湿はどろっとしたモチのようなもので、温まると緩み、冷えると固まる性質がある。一晩中じっとしていると、朝方になればなるほど痰湿が固まる。また気温が低くなるので、なお冷えて固まるのである。起きて動いているときは固まらない。日中は気温も上がるので、なお固まらず緩んでいる。
だったらずっと動き続けていればいいのかというと、そうではない。痰湿が存在する限り、冷えると固まるので、痰湿を取らない限り、緩んでは固まる…を永遠に繰り返す。当該患者も、それを毎朝、永遠に繰り返しているのである。
そもそも痰湿とは、食べたものが処理しきれずに溢れたものである。我々は食物を摂るが、その食物はどうやって血となり肉となるかというと、肝臓が、異生物である食物をなんと原子レベルまで分解し、それを人間のタンパク質として合成してくれているのである。この働きを中医学では “気血生化” という。そして、その “気血生化” の源は…、脾である。
この脾の器に八分目入れば「腹八分目に医者いらず」であるが、それを超えると溢れて、そして体のあちこちにこぼれ、汚してしまうのである。
その痰湿が足にこぼれた。それが「むくみ」である。
とくに左ふくらはぎには強固な痰湿がこびりついている。昼間は緩んでいてまだ流れているが、朝方は固まって流通しなくなる。流通しなくなると困るのはふくらはぎの筋肉 (腓腹筋) である。腓腹筋は血を必要としている。ところが固まった痰湿が邪魔して血が届かない。それなら…と無理にギュッギュッとやる。すると血が通い出す。
これが、朝方のこむら返りの基本病理である。痰湿のほかに、寒邪・血虚などが関与する。
寒邪にもやられていることが、望診 (天突) で見て取れる。表寒 (表証) である。表寒 (表証) はカゼと同じ病態である。だから温かい飲食を摂る。無用の外出や運動を控える。カゼのときはみんなそうするだろう。それが大切な養生法となる。
寒邪を取るだけで、痰湿が柔らかくなって流通し、排泄されやすくなる。
このような説明を、年輩の方にも分かるように易しく説明し、間食・食べ過ぎが痰湿の原因になること、冷たい飲食・無用の運動が寒邪の原因になることを理解してもらう。
ベッドに横になってもらい、脚をなでる。三陰交から下の痰湿が深く、骨まで達している。足が重い原因はこれだ。
「 (三陰交のあたりを掴みながら) この辺から下が重い?」
「そうです。そこから下が重いです。」
話を聞く。病理を説明する。分かってもらう。
体を触る。その辛さを知る。分かってやる。
これが技術である。このようにして、患者さんの体を掴み、心を掴んでいく。
一体となる。
すると、恐ろしく鍼がよく効く。
百会に一本鍼。2番鍼を1分間置鍼。
治療はそれのみである。
だが、効果は歴然。
触ってみると三陰交から下の深い痰湿は消失。
膝から下の、浅いが硬い痰湿は柔らかくなった。つまり硬かった脚が柔らかくなったのである。
帰りの受付で声をかける。
「いま、どうですか?^^」
「どうって、さあ。」
「あし。」
「あし?」
「そう。軽くない?」
「ああ、ほんまやわ。軽いわ。」
隣にいた娘さんが、
「来るときとはもう歩き方が全然違います。駅から歩くのがつらそうだったんですが。楽そうやねえ。」
「うん、軽いわ。」
2診…8月31日
4日後、来院。
「こむら返りが無くなりましてん。」
「へえ、よかったなあ。」
「夜よく眠れますねん。」
「うん、そうですか^^」
「脚も楽ですわ。」
「いいですね。で、めまいは? 今日は仰向けに寝てるけど、大丈夫?」
「大丈夫。」
「おお、いいですね。」
「それから、目の真ん中の黒いのが、上に行きましてん。」
「……… 上に? 」
「そう、上に。」
「上に行ったということは? 真ん中のが上に移動した? 」
「そう (笑)」
「上に移動したということは、真ん中は…ない? ということは、見え? 」
「見える。」
「え ! ? 見えるの? 」
「そうやねん、びっくりしますわ。」
「へえ〜、で、そもそも見えなくなったのって、いつからやったっけ?」
「35歳くらいかなあ。」
「へえーーー、それが見えるの?」
「はい^^」
「すごいなあ…」
「すごいねえ。」
「この視野欠損、眼科では何ていう病名なんですか?」
「分からへんねん。あちこち行ったけど、どこも分からへんって。」
「何軒ぐらい行きましたん。」
「6軒くらいかなあ。」
真ん中の黒目 (左目) を塞いでいた黒い影は、斜め上 (内) に移動した。
手をかざしてみると、これも痰湿の反応である。
痰湿は脚だけにこぼれていたのではなかった。
目にもこぼれていたのだ。
35歳のある日、突然左目に黒い影が現れたのだという。そしてそれから40年間、黒目の真ん中にモチのようにへばりつき離れない。だから黒く、視野を閉ざしていたのである。40年も動かないということは、それだけモチが固いということである。だが、たった1本の、たった1分間の鍼で、それが緩んだ。緩んだから流通した。流通したから、斜め上に移動した。
それは、その鍼によって、脚のむくみが緩んで流通したことと何ら変わらない。流通したから、こむら返りも消えたのである。
体というのは40年経っていようが治ろう治ろうとしているのだなあ。
病院を転々とし、最終的に奈良の天理よろづ相談所病院にまでたどり着いたのだという。眼科で定評があるその大病院でレーザーで焼いてもらう予定だったが、主治医に「これはもう何もできない。このまま放っておいたほうがいい」と言われ、それっきりとなった。あきらめたのである。
それが76歳の今、当院で初診を受けた。その日は何も変わらず、足が軽くなったのみであった。そしてその翌朝、こむら返りがなかった安堵とともに目を開けると、左目が見えるようになっていたのである。
その後の経過
3診目は9月13日、左目は見えたままである。暗点は中心に戻りもしないし離れもしない。
こむら返りは一度もない。
4診目は9月20日、左目は見えたままである。暗点の位置はそのまま。
こむら返りは一度だけあった。久しぶりに冷たいものを飲んだ翌朝だったと、照れくさそうにおっしゃった。寒邪にやられているので、温かいものを飲食するよう指導していたからである。
5診目は10月12日、左目は見えたままである。暗点の位置もそのまま。
こむら返りは4診目以降一度もない。
6診目は10月15日、左目は見えたままである。斜め上に移動した暗点の位置は変わらないが、なんと薄くなってきた。真っ黒で透過性0だった暗点が、半透明になって向こうが透けて見えるようになってきたのである。ぼくが「真っ黒ですか」とうかがうと、右目を閉じて確認してくれた。それで今、はじめて気づいたとのこと。
こむら返りは一度もない。
8月27日の初診から6週間が経つが、目は見えたままである。
しかも暗点は半透明になってそこも視力が回復し始めたのである。
痰湿が「動いた」
もちろん、まだ痰湿が消えたわけではない。移動しただけである。たった一回の治療で痰湿が取れるなどありえない。痰湿は留恋リュウレンする (しつこい) のである。では、どういう機序で目が見えるようになったのか。
まずは病態の分析である。
西洋医学的な分析
中心暗点で目が見えなくなる病気としては、黄斑変性や中心性網膜症などが考えられる。両者ともその主原因は黄斑部のむくみである。
- 黄斑変性は、黄斑部に新生血管 (加齢黄斑変性) や毛細血管瘤 (糖尿病黄斑症) を作ることにより、血管からの浸出液や出血によって黄斑部に浮腫が生じることで起こる。
黄斑は網膜の一部であり、網膜の外側には絡脈膜がそれを覆う形で存在する。黄斑部は血管がないこと (無血管帯) で知られており、黄斑部を栄養したり黄斑部から老廃物を除去したりするのは、その外側に位置する絡脈膜がその役を担っている。絡脈膜は血管豊富で、血管を持たない黄斑部は絡脈膜によって養われているのである。この絡脈膜に加齢による新生血管や、糖尿病による毛細血管瘤が生じると、それらはもろく破れやすいため、出血したり漿液が漏れ出したりして黄斑浮腫が起こり、失明に至る。 - 中心性網膜症は、やはり絡脈膜から漏れた浸出液により、黄斑部に浮腫が生じる。
なぜ浸出液が漏れ出すか原因は分かっていない。新生血管や毛細血管瘤などの変性は見られず、視力低下は軽いとされる。ストレスによって発症したり、3ヶ月ほどで自然治癒したりすることが知られる。
では、本症例の中心暗点の原因は何だろう。
黄斑部に穴が空いて中心暗点を生じるものもあるが、鍼で即座に改善したということからその可能性は否定できると同時に、他の要因による黄斑浮腫が原因であろうことが強く示唆される。
発症から40年も中心暗点が退かないのだから、中心性網膜症 (絡脈膜に器質的異常なし) の可能性は極めて低い。絡脈膜に器質的異常がないのに40年も持続することは考えにくいし、途中で寛解するなどの変化があるはずである。
その変化がないということは、絡脈膜になんらかの器質的異常があったと考えるのがセオリーである。そして、この器質的異常こそ「変性」すなわち新生血管や毛細血管瘤の形成であり、新生血管であればそれを早急にレーザーで焼くなどしないと黄斑そのものが破壊され、二度と視力が回復することは無い…という病態が示唆される。
よって、こういうものが即座に自然治癒することは考えられない。
その考えられないことが、この小さな鍼灸院で起こったのである。
病院を6軒回っても原因が分からずサジを投げられたとのことであるが、本当にそうだ。
一体この患者さんの目には何が起こっていて、鍼をした後に何が起こったんだろう。
西洋医学的に考えると、考察はここで棚上げである。つくづく、人間の体とは分からないことだらけである。
「けっして言い切ってはならない」
…それは東洋医学だけに向けられるべき言葉ではない。
東洋医学的な分析
東洋医学的に考えるとどうだろう。
むくみとは、イコール痰湿である。痰湿は餅のようなもので、固まっていると頑として動かない。しかし緩むと循環ルートに乗り、体外に排出 (排邪) される。足の固いむくみが鍼で瞬時に緩んで軽くなったのは、痰湿が排出されるルートに乗って動き始めたからである。同じように、左目に居座っていた痰湿も、体外に排泄される第一歩として上方に「動いた」ものと推察される。
足のむくみを取ったら、目のむくみも取れたのである。当たり前のことであるが、目と足は別物ではない。一つの体である。痰湿は足だけでもなく目だけでもなく、全身に存在するのである。その、全身の痰湿を動かした。だから足も目も改善したのである。
足のむくみと目のむくみを、別々の科で考えてはならないことを示す適例である。
さて、このように明らかに痰湿が排泄される方向に改善しているのだが、面白いことに舌診では逆の現象を呈している。
8/31のほうが、明らかに苔が厚くなっており、黄色くなっているのが分かるだろう。普通に考えれば悪化である。これをどのように分析するか。
深い痰湿が浮いてきたのである。湯船に沈んだゴミは洗面器ですくえない。浮いているゴミならすくって捨てることができる。沈んでいると循環ルート (排泄ルート) には乗らない。浮けばルートに乗る。ルートに乗れば痰湿は動き、やがて排出される。
つまり、沈んでいる痰湿は舌診には現れないのである。
症状に、これだけ顕著な改善が見られた症例でのこの舌診所見は、膩苔増大は悪化かに見えても改善であることもある…ということを雄弁に示す資料になる。
また、百会が強烈な痰湿除去作用を持つことも特記すべきであろう。
意図してはならない
それにしても、まさか一回の治療、一本の鍼で見えるようになるなど、思いもしなかった。たぶん誰も予想などできない。だが考えてみると、僕の臨床ではこういうことが非常に多い。偶然にしては出来すぎている。特別な何かをしたとするならば、ただ突き動かされる何かに従って無我夢中でやったということである。
他流には 何れの病には 何れの処に 何分 針を立つるなどと 云う事ばかりに心を尽くし、一大事の処に 眼を付けず。当流の宗とする処は針を立つる内の心持を専らとす。語に、
事(わざ)に無心にして 心に無事なれば、自然に虚にして 霊空にして妙。
《鍼道秘訣集 三. 心持之大事》の引用である。
「事」を「ワザ」と読ませ、鍼の技術をイメージさせている。
事に無心。ワザに心 (下心) が無い。
心に無事。心にワザ (あざとさ) が無い。
つづけて以下のように記してある。
挽(ひ)かぬ弓 放さぬ矢にて 射る日(とき)は 中(あ)たらずしかも はづさざりけり
《鍼道秘訣集 三. 心持之大事》
的を狙わず、虚心坦懐の心から発した矢は、狙いがないので狙い通りに当たるということはない。だが、矢を射た本人すら知らぬ間に、外すことなく見事に的を射抜いているのである。
意図せず、企 (くわだ) て画 (かく) することなく、ねらうことなく。
それが最もうまくいく。
無為自然と通じる。
出来すぎた運命、奇跡じみた必然
ただ純粋に、ワザを高めたい。
その純粋な心であってこそ、ワザは得られる。
そのワザは、巧 (たく) みであって企 (たくら) みであってはならない。 “ワザに無心” である。
置鍼時間が1分というところも、それがある。
この鍼、1分間ではなく、5分も10分も置鍼していたならば、効かないどころか悪化していた。なぜそんなことが言い切れるのか。理由は単純である。そういう事が分からないで、どうやってたった1分で鍼を抜くという判断ができるだろうか。だれがそんな不親切きわまる治療を、淡路島からわざわざ来られた方にしようとするだろうか。
時間が見える。見えるから分かる。
それ以外の理由はない。よって妥協もない。打算もない。
医療とは、見て取る行為である。機嫌を取る行為ではない。
意図しない、予期しない。
そんな中で、出来すぎた運命、奇跡じみた必然に出会えるのである。