お金儲けって悪いことですか?
今から18年前、当時ライブドア社長のホリエモンこと堀井貴文氏がニッポン放送買収で世間を騒がせていた頃、同時に注目をあつめた村上世彰氏の言葉である。2006年6月5日、証券取引法違反容疑で逮捕される当日、村上ファンド率いる氏がマスコミに取り囲まれて、この問いかけを発した映像は強烈だった。
そして心のなかで、即座に僕はリスポンスした。目的による、と。
そもそもお金儲けとは何だろう。お金を儲けることが目的ならば、その目的のためにあらゆる手段を講じる。村上世彰氏は、その手段が “狡猾” であったとみなされ、つまりズルい手を使ったので、インサイダー取引で有罪判決 (執行猶予付き) を受けた。何も知らない世間の人々を「出し抜く」ことで、儲けを得たのである。ヌケガケとも言う。それが犯罪とみなされたのである。
ヌケガケで巨額の富を得れば、反感を買うのである。
だからそれを禁止する法律ができたのである。
だが、村上氏に言わせれば、それは個人の有能さゆえの「工夫」に過ぎない…となるのだろう。たしかに、工夫とズルさは紙一重である。つまり、人によっては “これは工夫だ” となり、また別の人に言わせれば “これはズルい” となる。村上氏は、この紙一重の部分を切り取って、世間に問いかけたのである。
この難問は、
——お金を儲けることが人生の目的である——
と考える限り、解けることはない。
そもそも、そうではないのだ。
では、目的とは?
人の役に立つことである。
人の役に立つ人は、おのずと世間から必要とされ、世間から喜ばれ、世間から感謝される。
その感謝が形としてあらわれたもの、それがお金である。
たとえばテレビを作っている人は、テレビが欲しいと願っている人の役に立つ。必要とされている。喜ばれている。だからお金がいただけるのである。野菜をつくる人しかり、販売ルートをつくる人しかり、情報ルートをつくる人しかり、健康をつくる人しかり。
みんな何かを「つくっている」、それが「商品」である。その商品には、必要とされ喜ばれ感謝されるだけの価値があるのだ。その価値に値段がつく。
この場合は、お金儲けは「良いこと」なのである。
「はたらく」とは、「傍 (はた) 」を「楽 (らく) 」にするという意味があると聞いたことがある。とても上手く言い得ているし、まちがいなくそれが真理である。
つまり、はたを楽にしさえすれば、おのずとお金に困ることは無くなるのである。
お金儲けを目的としない。
人の役に立つことを目的とする。
人を出し抜いたり、ヌケガケしたりすることは、その目的とは真逆。
この場合は、お金儲けは「悪いこと」になる。
お金儲けを目的としたお金儲けをすると、その究極は村上氏のような「犯罪行為」となる。
お金儲けを目的としたお金儲けをしても捕まらないのは、
まだそれが徹底していないからである。まだまだ儲け足りないからである。
物質欲が極まると、犯罪となる。
欲張り爺さんは地獄行きと、相場は決まっている。
貪欲。
その生き方を続けてはならない。
その社会構造を続けてはならない。
組織は崩壊する。社会組織も、人体組織も。
人に与え、人から与えられて生きていく。
それが経済の根本的な形なのだ。
好意の流通に壁がない、それが自由経済なのだ。
悪意の流通に壁がない構造であってはならない。
そもそも、弱肉強食という考え方が間違いのもとである。
人間は、動物とは違う。強いもの勝ちの世の中ではケダモノ集団である。
与えるからこそ、与えられる。
それが、経済というものを作り出すほど優れた生物、「人間」としての生き方ではないだろうか。
学生さんの勉強だってそうだ。世間様の役に立つために、頑張る。
友人を出し抜くためではない。
学生時代に勉強を工夫して頑張れば、そこから得た経験はどんな仕事をしても生きる。これは僕が経験済みである。どういう目的で頑張るかが大切である。もちろんいい点数は取りたいが、そのためだけでなく、世の中の役に立つために勉強を頑張る。そんな意識を頭の片隅に持ってほしい。
村上氏も堀井氏も高学歴 (東大) で知られるが、その目的は持たなかったであろう。