気閉はコルク栓… 感謝と謙虚で栓を抜く

症状が慢性化すると、ましになったり悪くなったりを繰り返す。

繰り返す波がある。

これをどう捉えるか。

▶脳梗塞で考える

極端な例で考えてみよう。脳梗塞である。

脳梗塞の基本病理は陽亢である。陽亢とは簡単に言うと「気の上昇」である。グーンと気が上に昇る。その他雑病でも気の上衝はある。それがつむじ風だとすると、脳梗塞の場合は台風である。台風の目の中にいると風が吹いていることすら気づかない。しかし実際には強烈な上昇気流が巻き起こっている。これを内風という。

体のなかで、気づかぬ間にグーンと上に昇る。そのまま上に昇りきったらどうなるか。昇天である。生命力が上に飛び出し、抜け出て、死んでしまう。これが脱証 (気脱) のイメージである。

そうはさせじと、体は上から押さえつける。すると両手を堅く握りしめ、歯をを食いしばる。これは、上から栓 (せん) のようなもので、ビンから中身がもれてしまわないように、「詰め」をされた状態である。すると、気は上昇したくても、コルク栓が邪魔で飛び出せない。これが閉証 (気閉) のイメージである。

だから生命力は飛び出さない。生命力は飛び出さない代わりに、コルク (後遺症) が残る。

コルクがゆるむと生命力が飛び出てしまう。だからギュッと詰めたままにせざるを得ない。

気 (生命力) が上に昇って「わーい!」と飛び出そうとするところを、ギリギリで食い止めているのが脳の閉塞と半身不随なのだ (気閉) 。その閉塞すら起こせず、そのままなんの障害もなく、スムーズに上に昇り切ってしまったら、口をポカンと開け、大小便を失禁して、帰らぬ人となる (気脱) 。

スムーズに行けば、楽ではあるだろう。

▶気閉がヒント

“栓” のことを気閉という。ここでいう気閉とは、気滞を始めとしたあらゆる邪実が「詰まり」を形成することである。

これは脳梗塞にかぎらず、その他雑病でも言えることである。

ただし、その他雑病では、コルクが緩むと生命力はいくらか漏れるが、死ぬところまではいかない。むしろ、押さえつけられていたものが緩むので、スムーズ&気分がいい。気分が良く「わーい!」となって、今までできなかった「あれもこれも」をやる。コルクが緩んだスキマ (スキ) から生命力がもれる。やりすぎるのだ。これが疏泄太過である。

もれる。もれる。スムーズに…。このままではやばい。

そうはさせじと、体はコルクを再び強くねじこむ。症状が再発する。あるいはもっと強い症状が襲う。何もできなくなる。これで大丈夫、もう生命力はもれることがない。これが疏泄不及である。

そしてまたコルクがゆるむ。もれる。また詰める…。

これは、緩解と悪化を繰り返す病証でひんぱんに見られる。代表はリウマチである。たとえば膝が腫れて痛い。これは「詰まり」である。「コルク栓」である。栓が詰まっているから痛いのだ。

症状があるからギリギリのところで最悪の事態を回避できている構図が、見て取れるだろうか。

▶「わーい!」が出てくる

こうした構図が「好不調の波」の正体だとするならば、一生同じことを繰り返さざるを得ない。

それでは困る。どうすればいいだろう。

ビンの中身がシャンパンだから良くないのだ。コルクをはずすと中身が「わーい!」と飛び出る。中身とは命である。

ビンの中身が、水ならばそうはならない。ただの淡い水ならば。
コルクを緩める。楽になる。しかし何も飛び出さない。
もっと緩める。もっと楽になる。しかし体に無理になることをしようとしない。

なぜか。淡い水だからである。

「わーい!」とならない。

われわれは淡い水でありたい。淡白に。淡々と。

▶コルクと列缺

「先生、今日は気持ちが沈んでしまって…。肩甲骨のあたりが重くてしんどいです。」

「どれどれ、なるほどそうですね。ここ (患部) に痰湿の反応があるなあ。湿気のようなどんよりとした重さが、気持ちの重さにもつながっている可能性がありますね。」

「なんかそんな気がします。」

コルクの反応をみる。穴処は列缺である。章門も参考になる。どちらも反応がない。コルクがない。

列缺

「いつも言ってる、少しでも早く寝ようっていう努力、これはこの調子です。この調子で、理想に1mmでも近づいていきましょう。」

「はい。」

この瞬間、列缺に反応が出る。コルクが詰められた。「この調子」という褒め言葉は、「やる気」を持ち上げもするし、「わーい!」を持ち上げもする。よって、この背中の痛みには、「わーい! (疏泄太過) 」を食い止めるための「必要なブレーキ」としての意味があると判断した。

瓶の中身が淡水なのか強炭酸水なのかよくわからないので、ちょっと振ってみる。するとプシューっとなったのでコルク栓が詰められた。そんな感じである。

重責をまっとうして定年退職となり、さあこれから好きなことができる…となるや否や脳梗塞になった。これは職責から免 (まぬが) れてコルクが抜かれたのだ。中身が淡水なら自由で静かな生活が待っている。しかし中身が強炭酸ならば…。

「ここ (列缺) にコルクの反応が出ています。このコルクを無理に抜くと、背中が楽になって気持ちも上がる。でも、それで普段やりたくてもできなかったことをやりすぎて、で、そのあとまたしんどくなる。だから無理には抜かずに、コルクなんか必要ないと体が判断するように持っていきましょう。そのためには、ビンの中身が “淡水” になるといい。そのためには…。」

▶感謝などできない

そのためには?

そのためには、水に感謝すればいい。

ぼくはそのトレーニングを10年くらい続けている。そういう中で思うのは、感謝などできないということだ。考えてみたらいい。水がないと僕は死ぬ。ということは、毎日毎時、水に命を助けられているのだ。水は僕のために身を投げ出し、今まさに恵みを与えてくれているのだ。

たとえば、僕が車に引かれそうになる。そばにいた見知らぬ人が、命懸けで僕を助けてくれる。それで、その人は僕の代わりに大怪我を負う。

あー、どうもすいませんねえ。

これってどう ! ?

見合わない。命懸けで助けてくれた人に対して、それに見合う感謝をするならば、涙を流して何度も何度も感謝すべきである。

水が与えてくれている恩恵に対して、それに見合う感謝をするならば、水を飲むたび、お風呂に入るたび、食器を洗うたび、トイレで汚物を流すたびに、僕は涙を流して感謝すべきである。

でも、できない。いやそれどころか、何も考えてすらいない。そういう恩恵はあって当然のことだと思っている。

ビールやシャンパンは、確かに一時の気分の良さを味わうことはできる。しかし、淡水のもつ生命力には到底及ばない。災害で水がなくて困った時、我々を救ってくれるのは、どっちだろうか。最も価値あるものを、僕は下に見てしまっている。

▶水の値打ち

「水ってありがたい。ほんとは、シャンパンよりも水のほうが値打ちがあるんですよ。でも、いくらでもあるもんだから、いつもすぐそばにいてくれるもんだから、値打ちが分からなくなってしまっている。贈り物にシャンパンなら分かるけど、水はないですから。」

「たしかにそうですね」

「おれってぜんぜん感謝できないなあ…そう思う。でも、それでいいと思うんですよ。それを毎日気にする。そこに神経質になる。朝の洗顔のとき、夜の洗髪の時、タイミングを決めて一日一回でもいいから思い出す。その時、手を合わしたり “ありがとうございます” って言ったり、つまりフィジカル (手の筋肉・顎の筋肉・舌の筋肉) を動かすと忘れにくい。これはコツです。でも、忘れていいんですよ。あっ忘れてた…って思ったときが思い出したときだから。」

「ああ、なるほど。」

「もしもね、シャンパン君が、 “おれは感謝できないなあ” って思ったとしたら、そのシャンパンはもう、炭酸が抜けてますね? そう思いません?」

「うーん、たしかに。」

「いま、ここ (列缺) の反応が消えました。これは〇〇さんが淡水になったってことです。コルクを抜いても飛び出さない…と体が判断したんですよ。これから鍼をして、今の状態を “ピン留め” しておきますね。」

百会に5番鍼。5分置鍼後、抜鍼。

「いま、背中の重たさは? 」

「ああ、ましになりました…。」

「いま、〇〇さんは淡水だから症状が取れてもいい、体がそう判断したんです。僕の話を、なるほどと思って聞いてくださったから、効くんだと思います。感謝はすごく体にいい。信じていいんですよ、この話。まあ、感謝したって損にはなりませんね。得にはなっても。」

東洋医学は心身一如である。鍼だけでは「この話の内容」は伝わらない。心と体は陰陽である。どちらに片寄っても中庸とはいえない。

▶ホッとするのは…

悪化するタイミングは人それぞれである。低気圧、生理前、ホッとした時…などである。いずれも、「落差」が関係する。「内風」が関係する。

仕事を終えて帰宅する。料理が用意されている。ああ、ホッとする。

「ありがとう」と声をかける。この感謝をおれは忘れてはいけない! ここは、ぜんぜんホッとしていない。

仕事を終えればホッとすべきである。だが、ホッとすべきなのは脳の「仕事で使った部分」である。落差を生まないためには、仕事を終えたら今度は脳の「感謝の部分」をきたえる。翌日また仕事がはじまったら「感謝の部分」はホッとひと休みで、仕事に全神経を集中すればいい。使う部分を変えて疲れないようにする。

「水」のような存在であるパートナー。仕事を終えてホッとするヒマもなく、その「水」への感謝が足りないことを気にする。そこに集中する。神経質になる。

ああ、やっぱり感謝できていないなあ。

でも、これで「謙虚」にはなれる。

これなら落差がない。ホッとして悪化することはなくなる。

感謝も謙虚も、真理である。これらによって体を悪くすることはない。

▶淡き美しさ

水平に流れる「静かな水」でありたい。
潤いを与える「優しい水」になりたい。

君子の交わりは淡きこと水の如く、俗人の交わりは甘きこと蜜の如し。《荘子》

【訳】人格者どうしの交友関係は淡白で、水のようにサッパリしている。俗人どうしの交友関係は濃密で、蜜のようにベタベタしている。

「水」のような交友関係は、利害を絡めないのでアッサリしている。ただし、災害時は真っ先に駆けつける。「水」とは澄み切った心である。それは命に関わる時にこそ、威力を発揮する。

「淡」とは淡白である。

淡白とは、欲が無いことだ。
淡白とは、よどんだ邪気が無いことだ。

これが真理に叶う。

恬惔虚無.眞氣從之.精神内守.病安從來.《素問・上古天眞論 01》

【訳】無欲恬淡ならば、真気 (健康力) は自ずと従 (つ) いて来る。精と神 (生命力) は、外に飛び出さず内を守る。病気などにどうして従 (つ) きまとわれることがあろうか。

無欲恬淡 (むよくてんたん) という言葉がある。淡々と地に足つけて歩むのが人生だ。

病気とも “淡き関係” である。

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