気閉証

概念

邪気が盛んで気機 (気の流れ) を閉塞する。
気機が逆乱 (本来の気の流れとはデタラメに上逆) し、九竅をふさぎ清竅をふさぐ。これが気閉の特徴です。

清竅って何だろう をご参考に。

上逆するのは内風が強いからであり、内風はその際に、邪熱・痰湿・瘀血を引き連れて上逆する。
内風・邪熱・痰湿・瘀血が、清竅を濁らせたり覆ったり詰まらせたりする。よって実証である。

正気と邪気って何だろう をご参考に。
内風とは◀外邪って何だろう をご参考に。

常見症状

  • 神志昏迷… 突然に意識障害 (意識を失う) を起こす。うわごと・発狂・幻覚などもこれに準ずる。
  • 躁動不安… 心身ともに落ち着かない。
  • 面赤…   顔が赤い。
  • 耳聾…   突然に難聴を起こす。
  • 気粗痰鳴… 呼吸が荒く、ゼロゼロと痰がからむ音がする。
  • 牙関緊閉… 口を閉じ歯を食いしばる。
  • 両手握固… 手を握りしめる。
  • 大便秘結… 大便が出ない。
  • 小便不通… 小便が出ない。

関連病証

気閉は以下の病証中に見られます。

  • 中風… 脳卒中
  • 昏迷… 失神・意識混濁
  • 癃閉 (りゅうへい) … 小便が出ない。
  • 便秘… 大便が出ない。
  • 耳聾… 難聴。

原因

気機の閉塞は、つねに情緒の変動が原因となって誘発されます。つまり落ち着きなく、過度に喜んだり怒ったりする人は本証を起こしやすくなります。

  • 中風… 度を超えた肝気上逆があり、痰火を挟んで清竅を閉塞する。
  • 昏迷… 怒ると気が上る。これが清竅を覆い、閉塞して清陽が不通となる。
  • 癃閉…
    • 肺気上逆して宣粛・通調できず、水道が不通となり、津液が下らない。提壺掲蓋法<丹渓心法> を用いて、クシャミや嘔吐を促す。提壺掲蓋とは、壺を手に提 (さ) げて持ち蓋 (フタ) を掲 (かか) げる。すなわち上を開けることで、下から水を出すという発想の治療法であり、肺を治療することで小便を出す。
    • 膀胱に湿熱が内結して尿道を閉塞し、不通となる。
  • 便秘… 肝鬱化火→胃腸熱結→気機閉塞→大便秘結。 “破気” して通便する。
  • 耳聾… 激しい怒気→肝気上逆→痰火を伴って上昇→清竅を閉塞。

特徴

気脱と気閉

脳梗塞を起こした時、気閉なら助かる可能性が高く、気脱なら助かる可能性が低くなります。

気閉は歯を食いしばり、手を握りしめ、失禁はありません。多くは命は助かるものの、意識回復後に半身不随などの後遺症を残します。閉証とも言います。
気脱は口をポカンと開け、手に力はなく、失禁が見られます。脱力です。生命力が抜け出ようとする状態で、死の危険が高くなります。脱証とも言います。

気脱証 をご参考に。

気閉と気脱は同時に見られることがあります。中間の状態です。つまり、

  • 手を握りしめ歯を食いしばっているが、…九竅が閉塞している。
  • 大小便は少し失禁し油汗を流している。…九竅が機能していない。

こういう場合は、気閉を瀉して啓 (ひら) き、気脱を補ってを救う…という2つを同時に行うことが必要です。もし気閉にのみ気を取られて瀉法のみを行い、気脱を補うことを怠ると、実をもっとひどくし虚をもっとひどくしてしまう弊に陥ります。

どんな場合でも虚実が最重要事項です。

邪気と気閉

内風が邪気を引き連れて上逆する…とは上記説明のとおりです。邪気とは内風・邪熱・痰湿・瘀血のことです。これら風・火・痰・瘀が気機を閉塞する具体的要素になります。それぞれに特徴があります。

  • 気閉挟痰… 気閉に痰湿が絡みます。呼吸が苦しそうでゼロゼロと痰が絡みます。
  • 気閉挟風… 気閉に内風が絡みます。ひきつけ・顔面神経麻痺が起こります。
  • 気閉挟火… 気閉に邪熱が絡みます。顔が赤く目が充血します。
  • 気閉挟瘀… 気閉に瘀血が絡みます。半身不随が生じます。

気閉を治療して疎通させることが大切です。
それと同時に上述の邪気を取ってゆくことが大切です。もしそれをしなかったら、再び気閉をおこし、病状がさらにひどくなることがあるからです。

耳鳴りを訴えた70代の女性は、ベッドで休んでもらっている間、しばしばゼロゼロと痰がが絡んだ呼吸音を呈していた。気閉挟痰である。鍼を打つとその場でゼロゼロ音が消失するのが常であった。耳鳴…竅(あな)をこじ開ける! をご参考に。

脳梗塞の既往歴がある患者さんは、ほとんどが赤ら顔である。邪熱を挟んでいるからである。

考察

気滞・気逆の延長

気閉とは、気滞の強い版です。気滞は経絡 (機能的) が通じませんが、気閉は九竅 (物理的) が通じません。九竅が通じないといいうことは重篤であるということです。

また気閉とは、気逆の強い版です。気逆を簡単に説明すると、人体生命を球形のものとして考えた時、球の核にあたる部分の求心力が弱くなり、気が外に外に抜け出ようとするところを、そうならないように食い止めている状態です。それが安全な段階での食い止めならいいのですが、レッドゾーンに入ってからの食い止めになると、死にものぐるい的な危険な症状が出てしまいます。それが脳梗塞を始めとする気閉にみられる症状です。

もし気閉として食い止められなければ? 気脱を起こして死に至ります。

気逆証のところで、電車の一両目と2両目に例えて説明したように、気閉は命を守るために頑張っている姿でもあります。生命力が脱出して気脱にならないように、閉じてこらえている姿です。

そのように考えると面白いですね。気滞も滞るのは生命力を漏らさないためであるという側面がある。そういうことが分かります。気滞があるから気滞を取った。そしたら楽になった。これが良いか悪いか。やはり弁証が大切です。楽になって活動的になるのが自然な状態なのか、それとも生命力を散らしているのか、その分別ができなければなりません。たとえばスピードオーバーで気持ちよくなっても、それは生命力を散らしている姿でしかありません。

体をていねいに診ていれば分かると思います。

疏泄太過って何だろう をご参考に。

竅 (あな) と経絡

気閉は気が通じていません。どんなふうに通じていないかというと、九竅が通じていない。これは特殊な表現です。ふつうは “経絡が通じていない” と表現します。どちらも気の通り道です。

九竅とは、目・鼻・耳・口・尿道口・肛門のことです。つまり竅 (あな) ですね。肛門で考えるとわかりやすいですが、通じないと不快です。通じすぎても困りますね。通じないと不快なのは気が通じないからで、スッキリしません。通じすぎて下痢ばかり続くと困るのは、気が漏れるからで、体が頼りなくなってしまいます。やはり気の通り道なのです。

経絡が気の通り道であるのはご存知のとおりです。

経絡って何だろう で展開したように、経絡は物質的な “管” ではありません。経絡とは陰陽 (の境界) そのもので、目には見えない機能的なものです。

それに対して九竅は、目に見える物質的なものです。清竅って何だろう で展開したように、目・鼻・耳・口・尿道口・肛門のことだけでなく、大後頭孔も竅だし、もっといえば消化管全体・血管・リンパ管・神経も、そこに流れてやまない “物質” が存在する「管 (竅の延長) 」といえるのです。広義の九竅は、そういう物質的な管すべてを総称すると考えていいと思います。気閉 ≒ 脳梗塞 ですので、血管が閉塞すると考えると、非常にシックリ来るものがあります。

経絡の不通は機能的レベルで、回復させやすい病態です。
九竅の不通は物質的レベルで、回復させにくい病態です。

臓腑に命中する

奇恒の府って何だろう…東洋医学の解剖学 で展開したように、奇恒之府もまた竅と同じく、物質的・物理的な概念です。奇恒之府は袋であり、物質的な人体は精 (五臓) という機能を容れる “大きな袋” であるという見方をしました。しかも奇恒之府では、袋と内容物を明確に分けませんでしたね。

同じく竅とは、その袋に開いた出入り口であり、その出入り口から伸びるチューブ (管) と言えます。物質的な人体は精 (五臓) を容れる “大きなチューブ” であるという見方ができます。これも、チューブと内容物を分けずに考えるならば、「邪気が竅をふさぐ」ということは、五臓に邪気が直撃するということでもあります。

もちろん竅 (チューブ) には大きな物から細かいものまで大小様々ですので、主要な大きな竅を邪気が直撃したらば “五臓に中 (あ) たる” 、やや細い竅に直撃すれば “経絡に中 (あ) たる” という表現になります。脳卒中の中は、卒然として中 (あ) たる…という意味です。

“竅をふさぐ” という表現は、臓腑経絡という一つながりの通り道のうち、非常に太い通り道 (臓腑) と、やや太い通り道 (臓腑に近い太い経絡) をふさいだと見る、つまり気の閉塞、気閉を起こしたと考えると考えがまとまると思います。

日常の臨床への応用

気閉という概念は、臨床的に大きな示唆が得られます。

たとえばリウマチなどで膝が大きく腫れ、ドンドン曲がって伸びなくなっていくものがあります。膝は強い熱感があるが、スネから足先にかけてはすごく冷えている。これは、膝にある竅 (あな) がふさがってしまい、つまり気閉を起こしている場合があります。下肢で脳梗塞を起こしたようなものです。だから脳梗塞と同じように歩けなくなります。かなり太い臓腑経絡を犯したとも言えます。

膝が曲がってしまうまでの過程で、必ず内風が吹き荒れるような “何か” があります。こわいのは本人でさえ何の自覚もできないケースがあることです。

リウマチでこんな例がありました。親から虐待を受けて育ち、結婚して子供を出産、子供が小学校入学で手を離れたころに急激な開放感が出てしまう。ある日、久しぶりに自分だけの時間が持てて自宅で自由な時間を過ごした。そのときに幼少から続く閉塞感から、開放感にいたる急激な落差で風が吹き抜け、内風が肛門 (腸管) を直撃する。開放感が大きかった分だけ閉塞が強くなり、腸がふさがれ激しい腹痛が出て、それが落ち着くと、入れ替わるように膝がふさがり伸びなくなっていった。

これは全く脳梗塞の病理と同じです。

過去に蓄積した負の要素が、余裕のあるときに押し入れを整理するかのように出てくる。ゆっくりと整理して、また新たに人生を歩めればいいですね。でも、押入れの扉を開くと、雪崩のように押し寄せて潰されてしまう場合がある。

この「虐待を受けた方」は後者で、この経験は本当に学びになりました。いま診させていただいている患者さんは、みんなその学びを使っていると言っても過言ではないくらいです。この経験無くして、理解は難しかったと思います。ただ、その方を治すことはできませんでした。常に思い出す患者さんで、自分の未熟さを悔います。悔いますが、その時の僕にはどうしようもできませんでした。その思いを、いま診させていただいている患者さんを良くするための力にしています。

何かを成し遂げつつ味わう開放感 (達成感) は「進歩」の過程に得られるものであり、つぎつぎ乗り越えていこうとするモチベーションがあるので問題ありません。ところが、そういう過程にない無条件の開放感は危険です。やっかいなのは、病因として思い当たることのなかに、この開放感が浮かばない。ひどい場合は開放感があったという自覚すらないことです。たとえば定年退職前後で脳梗塞を起こす方がおられますが、これは退職という大きなイベントがあるので、特に周囲の人が分かりやすい。本人はピンときていないことがあります。

“進歩” とは何でしょう。絶え間なく省み、絶え間なく感謝し、絶え間なく祈る。そうやって絶え間なく前に進む。できなくとも、間断なくそうありたいと願う。正しい緊張感はストレスになりません。これらはすべて、落ち着いており、喜んでおり、前を向いています。心に風穴を開けるような “落差” を消してくれます。

自宅で自由な時間を過ごしたことがこんな大事につながるとは、誰が想像できるでしょうか。

これは今、この記事を書くために基礎を学び直すなかで ひらめいたことです。痛みにも気閉があったとは…。中医学には “経絡気閉” という概念もあるようです。

たしかに中医内科学をひもとくと、頭痛・めまい・耳鳴り・緑内障などで “清竅を犯す” という表現が見られますので、これらも軽症の気閉として捉えることができます。

さらに気閉はいろんな重症に応用できます。たとえばひどい喘息には “胸肺気閉” という概念もあります。腸閉塞・虫垂炎・急性膵炎・胆石仙痛などの結胸証や、狭心症・失語症なども気閉として弁証することが可能です。

前立腺肥大や前立腺がんの尿閉、尿路結石、大腸がんによる大便不通にも応用できるでしょう。

とにかく物理的に通じないものに、竅を開く処置が有効なのです。これは応用無限ですね。うつにも使えるかもしれません。

開竅・啓閉

こうなると大切なのは治療方法です。

気閉の治療方法は、開竅・啓閉です。

竅を開く。「開」とは門の閂 (かんぬき) を両手で外して開けることです。両手 (左=陽、右=陰) で、ということは陰陽の境界を使うイメージを僕ならします。正中線 (督脈・任脈) です。

閉を啓 (ひら) く。「啓」とは何でしょうか。
「戸」+「攵=攴」+「口」です。
攵」は手の動作です。

「啓」とは戸を手で開く。

「所」は「斤 (おの) 」で神の社の「戸」を守るという意味があり、「戸」そのものに神聖なイメージがあります。

その戸を手で開く。では「口」は?

「肇 (はじめる) 」は「戸」+「攵」+「聿 (ふで) 」です。

聖なる扉を押し開き、神の啓示を口 (ことば) で開き、筆で始める。神の啓示が長い沈黙を破って口からほとばしり出る。そんなイメージが「啓 (ひらく) 」にはあるのでしょうか。

また、天の岩戸開きも連想してしまいます。天照大神が岩戸に隠れてしまい、天手力男命が重い岩戸を剛力でこじ開けると、岩戸の “出口” から光が射して世界が再び明るくなったという古事記の神話です。古事記は、口伝として稗田阿礼が暗記した内容を、太安万侶が筆記したというのは有名です。

心神を閉ざしている「戸」を「攵 (手) 」で押し開き、「口」から心神の輝きがサーチライトのように射照らす。

イメージは気を動かすうえで非常に重要です。イメージが確かであればあるほど、実際の効果はハッキリしたものとなります。漢字とはイメージです。字源を考えることは重要だと思います。

開竅に用いる穴処

鍼灸では、開竅・啓閉の穴処は人中 (水溝) ・会陰・百会・手十井穴・湧泉が挙げれられます。

人中は脳卒中を起こして倒れている人の意識を戻す穴処として知られています。会陰は溺死者に鍼をして蘇生したという話が残っています。両方とも、正中線である督脈に属します。人中は口と鼻の間、会陰は肛門と前陰部の間で、竅を象徴する穴処と言えるでしょうか。特に口と鼻は生きる上で最も大切で、ここが塞がると短時間で死んでしまいます。人中は生死を分ける重要穴処と言えます。

手の十井穴も、歴史的に脳梗塞の発作時に用いられてきました。空間的に頭頂部と指尖部は一致しますので、十井穴と百会は意味がよく似ていると思います。ぼくも今まで十井穴でいろんな症状を急回復させてきましたが、その意味が一つ分かったような気がします。

井穴は急性病で用いられることが多いですが、慢性病でも使いようで非常に有効です。慢性病で用いる時は、ある程度良くしておいてから、あと一歩のところが取れない…という場面で穴処が反応してくることが多い印象です。

湧泉はある意味、百会と相対する位置にあり、厥証 (気を失う) ・癇証 (てんかん) に対して気付けとして用いられてきました。

これらの穴処を上手に使うことだと思います。

痛みだけでなく、どうしても取れないストレス、どうしても取れない気滞や気逆があるとき、気閉という概念は、もつれた糸口をほどく端緒になる可能性があります。

リスクを知る

ただし、先のリウマチの例のように、強度の気滞 (つまり気閉) は、病因病理が複雑で見えづらいと考えるべきです。また虐待のような物理的な病因がある可能性があります。そこまで見抜けるか。機械的にやるのは危険です。

脳梗塞になる人は直前まで元気な人が多いですね。その元気な状態の中に病因は潜んでいます。それを見抜く力は必要だと思います。無理に気閉を取ろうとすると、気脱に至るというリスクあるので、そのリスクが見えていることが大切です。また、気滞を機械的に取ると、元気になったとしてもスピードオーバー的になる恐れがあると前述しましたが、さじ加減は本当に重要で、くどいようですが全体が見えていないと加減はできません。気閉は生命力が抜け出ないようにするための、死にものぐるいの最後の砦 (とりで) であることを忘れてはなりません。気閉をコルクであるとするならば、上にシャンパンのように吹き上げる内風を、いかに鎮めるかということがポイントでしょう。

人中の反応が生きているかどうか。これは最低限見抜かなければならない診察事項でしょう。

あと、気閉の診断の穴処として、太渕・列缺にも注目しています。これらに強い邪がある場合、気閉と関わりがあるか。人中など使わなくてもあっさり取れてしまう場合もありますが、肺金は五臓のなかでも物質的な色合い (魄・従革) が濃く、その要穴にとりあえず注意して診ていこうと思います。

勉強から得られる発想

気の病証は基礎中の基礎です。基礎にこそ大きなヒントが隠されている。もう一度基礎から勉強し直そう。証候鑑別診断学を読み直そう。ついでに記事にまとめよう。そんなことをやっていて、ハッと気付かされました。

やっぱり勉強しかない。そういえばこれまでも、こうやって一つ一つを乗り越えてきたのです。

参考文献:中国中医研究院「証候鑑別診断学」人民衛生出版社1995

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