▶温煦と防御が仕事
衛気 (えき) とは、おもに以下の働きをする「気」のことをいいます。
・暑さ寒さなどの気候変動 (外邪) からバリアのように身を守る。
・体を温める。体内・体外ともに温める。
この働きのおかげで、われわれは暖かく快適に過ごすことができるのです。そしてカゼなど引かずに、健康でいられるのですね。
気には推動・温煦・防御・固摂・栄養・気化の6つの横顔があります。
このうち、温煦作用・防御作用のはたらきに衛気という名称がついていると、まずはざっくり考えていいでしょう。
▶脾と腎によって作られる
気はおしなべて、脾胃 (後天) で得られた水穀の精 (食べ物から得られるエネルギー) が、腎の先天の精 (父母から受け継いだ生命誕生の神秘的なエネルギー) の力と合わさって生成されます。
衛気もその例にもれません。先天・後天の精の力によって生まれた気が、外邪との「戦闘」を得意とする「衛気」に変身して、外邪の侵入から身を守るのです。
具体的には、飲食物は口から入り、腸胃で「清」と「濁」に分けられます。そして「清」はそのまま脈中に入って営気になります。その残りカスが「濁」で、濁は重く下焦に降ります。下焦には腎気 (腎陽・命門の火) があって、濁は腎気に温められて気化し、気化したものが脈外を自由に駆け回る、これが衛気です。
人受氣於穀.穀入於胃.以傳與肺.五藏六府皆以受氣.其清者爲營.濁者爲衛.營在脉中.衛在脉外.
《霊枢・營衛生會18》【訳】人は気を穀から得る。穀は胃に入り、肺に送られ、肺から五臓六腑に行き渡る。穀のなかの清なるものは営気となり、濁なるものは衛気となる。営気は脈中を流れ、衛気は脈外を走り回る。
清なるものは営気となる。
濁なるものは衛気となる。
▶濁から生まれる
▶濁が温められる
揮発性のあるものをイメージして良いでしょう。
大地 (土) は濁です。そのなかの美しい地下水が「清」つまり営気と考えると分かりやすいかも知れません。濁そのものである土は、太陽と地熱に温められ、水蒸気として揮発 (蒸発) します。水蒸気 (湿気) が多いほど温かくなります。水の分子そのものが温かくなり、赤外線を放射します。
人体を土 (濁) と考えると、体から発散される熱気・活気が、蒸発する水蒸気と相似します。
▶営気が衛気をつくる
一方、営気が衛気を生む側面もあり、《傷寒論》ではこの理論が散見されます。
地下水も、温められれば蒸発して水蒸気になりますね。営気は、衛気につくりかえるための「元の形」という側面があるのです。営気 (陰) を気化することによって、衛気 (陽) を作り続ける。
土 (濁) には水 (清) が混じっていますが、ここから分離した水は、地下 (陰) にもぐって地下水となります。地下水は清 (陽) の性質を持ちつつも、深いところ (陰) にありますね。この土を飲食物、この地下水を営気であると考えると、営気は清 (陽) の性質を持ちつつも、深いところ (陰) にあると言えます。
深いところにあるということは、重い (濁陰) からです。この重いもの (営気) が、軽いもの (衛気) を生む。
これが陰陽です。
飲食物を濁陰とすれば、営気は清陽です。
営気が濾し取られた飲食物は、より濁陰となります。だからより清陽である衛気を生む。
さらに営気と衛気の関係では、営気は濁陰にして深です。これが清陽にして浅である衛気を生むのですね。
このように陰陽をもとにして考えるクセをつけることは、臨床力を高めることに直結します。陰陽とは時・所・情況によって変化するものであり、臨床もその場面場面での臨機応変な処置が必要となります。その能力 (発想力) が鍛えられるのですね。
▶勇敢で素早い
衛者.水穀之悍氣也.其氣慓疾滑利.不能入於脉也.《素問・痺論》
【訳】衛気は、水穀から得られる「悍気」である。衛気は素早くなめらかで、脈という枠になど はまってはいられない。
衛気は「水穀の悍気」と呼ばれます。悍気 (かんき) とは勇敢で猛々しい気のことです。
悍.勇也.《説文解字》
また剽悍 (ヒョウカン・動作がすばやく、性質が荒々しく強いこと) という言葉があるように、素早く動くイメージもあります。
こういう性質の気は、安閑と脈中になど収まっていられず、脈外を俊敏かつ勇猛果敢に立ち回って、外邪から身を守ってくれているのです。
たとえば冬、急に寒い屋外に出た時に、パッと身が引き締まり寒さを跳ね飛ばすような気合が起こるのは衛気の働きです。そしてさきほど言うように、衛気は営気にささえられています。
衛気と営気がシッカリしていないことを「営衛不和」といいます。営衛不和になると外邪の侵襲を受けやすく、表証を引き起こしやすくなります。
よって、衛気と営気がシッカリしていれば、カゼを引きません。
衛気が大腸の大便から作られると説明されることがあります。「濁」から衛気がつくられる…というところから来るのでしょうが、そう考えてしまうと東洋医学的ではなくなってしまいます。東洋医学は陰陽論が基盤なので、あくまでも清濁という陰陽として展開し説明するべきだと思います。