経筋とは… 東洋医学の「筋肉」と「痛み」の治療

経絡とは、「経」と「絡」とからなる。

「経」とは経脈・経別・経筋のことである。
「絡」とは絡脈のことである。

本ページでは、このうちの「経筋」について解説したい。

経別とは」「絡脈とは」では、それぞれを経脈との比較で分析した。今回も、経筋と経脈を比較しながら展開することとする。

まず、経筋とは何か。以下に《類経》の解説を見ていこう。

《類経》による経筋

筋に関わる

十二經脈之外,而復有所謂經筋者何也?
十二経脈以外に経筋というものがあるがそれは何なのか。

蓋經脈營行表裏,故出入臟腑,以次相傳;
経脈は営々と連なって表裏をめぐる。ゆえに臓腑にも出入りし、とぎれることなく次々と伝えていく。

經筋連綴百骸,故維絡周身,各有定位。
経筋は全身の骨をつなぎ合わせる。ゆえに全身もれなく幕で覆って括 (くく) ったように一まとめにする。そして各経筋には、おのおの決まった場所がある。
※「綴」…つづる・つなぎ合わせる。
※「百骸」…人の各種の骨、および全身。「骸」は「亥の字源」をご参考に。
※「維絡」…難経二十八難に “陽維陰維者.維絡於身” とある。「維」は太い縄、「絡」は細い糸、これらが入り混じってこうもり傘のような幕で全身を包み込むイメージ。
「維」は《説文解字》に “車蓋維也” とあり、古代の馬車を覆う布のことである。これがこうもり傘に似ている。

【私見】経筋は骨と骨とがバラバラにならないようにつないでいるものである。よって筋肉をイメージしてよい。

結ぶ所… 「最」

雖經筋所行之部,多與經脈相同;
経筋の走行部位は、経脈とよく似ている。

然其所結所盛之處,則惟四肢谿谷之間為最,以筋也。
その「結ぶ所」「盛なる所」は、四肢の気血 (元気) が極まるところである。その気血は、経筋によって蓄えられ、関節部に集まることができる。
「谷」は穀気 (谷気) が蓄えられる場所である。
“肉之大會爲谷.肉之小會爲谿.肉分之間.谿谷之會” 《素問・氣穴論58》…【私見】肉分 (分肉) とは、白肉 (肌肉) と赤肉 (筋) の境界である。谿谷之會とは、その境界のうち、穀気 (水穀の精) がも多く流入する場所である。

【私見】
気血 (体の機能) は、経筋によって蓄えられ、関節 (動作の起点として重要) に集められる。
肉体 (体の物質的パーツ) は、経筋によってつなぎとめられ、関節 (身体の枢要として重要) として構成される。

「結ぶ所」とは、気血が極まり集まるところであり、最重要箇所である。後述するが、「結ぶ所」は「小さな宗筋」すなわち「小さな臍下丹田」とも言える。そもそも経筋の病証は、痛み・筋緊張が主となるが、筋肉が緩んで力が入らないもの (痿病) にも応用できる。「結ぶ所」に気血が充実していないと、その部位に力が入らない・動かせないなどの部分的な痿病が起こる。全身的な痿病 (筋萎縮性側索硬化症など) で臍下丹田 (関元) が重要診断点となるように、部分的痿病には「結ぶ所」が重要診断点となる。

筋緊張だけでなく、筋萎縮にも経筋が関わるのである。

「最」の字源

「最」は「冣」と同義です。「最」は「冃+取」です。「冃」も「冖」も帽子のことです。帽子は最も高い場所に載せるので、「最」には「最高・最突出」の意味があります。また、古人の長髪を帽子でまとめることから「集・聚」の意味があります。

“最.犯而取也” 《説文解字》とあるように、「最」には目的物に対して食指を伸ばしつまみ取る意味があります。

机の上にある物を手で取るとき、目的物に対して指を広げていかぶせますね。この様子は帽子をかぶせることに通じます。手を覆いかぶせて指をめ、目的物を一点に絞り込んで、つまみります。一点に絞り込む意味を持つ「最」は、「絶」の仮借にも用いられ、極小・極限など極 (ごく) という意味でも用いられます。

肝 (爪・筋) に関わる

筋屬木,其華在爪,故十二經筋皆起於四肢指爪之間,
筋は肝木に属し、肝の華は爪に現れる。だから十二経筋はみな四肢の指の爪のところに起こるのである。

肝者.罷極之本.魂之居也.其華在.其充在.…通於春氣.《素問・六節藏象論09》

華とは、表面に現れる精彩のことである。

爪は、肝という樹木の花のようなものであり、肝の一部である。その肝の一部から起こっている経筋は、やはり肝の一部といえる。

また、経筋は筋であり、筋は肝によって充たされている。

そういう意味から、経筋は肝との関わりが非常に深い。ひと続きのものと言っていいだろう。

【私見】
爪 (井穴) に起こる経筋の脈気は、肝からワープして起こっているのである。また後述するように肝は臍下丹田や宗筋 (陰器) そのものである。経筋の脈気は、臍下丹田からワープして爪 (井穴) に起こっていると考えてもいいだろう。

肌肉にも関わる

而後盛於輔骨,結於肘腕,繫於膝關,連於肌肉,
爪から起こり、関節で盛んとなる。あるものは肘関節・手関節に結び、あるものは膝関節に繋がり、そして肌肉に連なる。
※ここでの輔骨は「関節」と訳した。輔骨とは をご参考に。

【私見】
この文中に “肌肉に連なる” とあることに注目する。

▶肌肉は目に見える、筋は目に見えない

まず、肌肉とは何かを明らかにしておきましょう。日本では肌肉を皮下脂肪と説明するものが多いですが、中国では肌肉といえば日本語でいう筋肉を意味します。 (中国語では “筋肉” という言葉は一般には使われない。)
ここでは、肌肉は浅層の筋肉 (および皮下脂肪) 、筋は深層の筋肉と説明しておきます。つまり、肌肉と筋、2つ合わせて筋肉である…と、まずは簡単に理解します。
さらに。肌肉は陽であり「見た目の肉付き」、筋は陰であり「目に見えない動力」と考えるといいでしょう。

以下の【私見】に詳しく説明します。

【私見】
肌肉は見た目の筋肉の動き (陽) 、筋は影からそれを動かす力である (陰) 。
“筋.肉之力也” 《説文解字》
筋とは、肉 (肌肉) の「力」である。説文解字でもそう言っている。

「連」の意味するところは、筋と肌肉は夫婦関係であるということである。筋 (妻) は、肌肉 (夫) をかついで、動かし働かせている。見た目は肌肉が動いているかのようではあるが、裏で筋が糸を引いているのである。筋と肉は妻と夫であり、運命共同体で帯責任の関係にある。およそ歴史に残る偉人傑士は、その偉業を成し遂げる力を、妻が引き出している。真の力は妻にあるという例えで筋を理解すると良い。

つまり、経筋とは筋のことだけでなく、肌肉もその概念に含まれる…ということになる。筋と肌肉で筋肉である。

▶筋と神経

筋とは、目に見えない「肉を動かす力」です。ここからもう少し展開すると、「肉を動かす力」には神経も含まれると考えられます。筋は神経もその概念中にあるということです。筋肉が緩むと神経痛が取れることがあるのは、経筋を緩めたからです。

痛みとは神経が感じるものです。経筋と痛みが密接な関係にあるのはなぜか、東洋医学的な説明ともなります。

上於頸項,終於頭面,此人身經筋之大略也。
そして項頸部に上り、頭部に終わる。これが経筋の大略である。

剛筋と柔筋

筋有剛柔,剛者所以束骨,柔者所以相維,
筋には剛と柔がある。剛筋は骨がバラバラにならないように強く束ねる。柔筋は繊維製品 (着類) のように柔らかく包み込む。

【私見】
「維」は、こうもり傘のようなもので、すでに上段で説明した。こうもり傘には骨と幕がある。大雑把な骨組みがあって、その骨組みを柔らかい幕でつないでいる。これが剛筋と柔筋のイメージにもなる。

すなわち、
・剛筋は、大雑把にしかし力強く太い筋で百骸 (全身の骨) を結 (ゆ) わえる。
・柔筋は、剛筋の補助として組織を漏らすことなく包み込むが、それは布のように柔らかくてもろい。

剛筋だけでは細かい組織がこぼれてしまうし、柔筋だけで包み込もうとすると組織の重さに耐えきれずに布が破れてしまう。2つが共同して体はバラバラにならず形体を保持しているのである。

亦猶經之有絡,綱之有紀,
経には絡があり、綱には紀があるように、剛筋には柔筋がある。
「経絡」「綱紀」である。「綱」は太いつな、「紀」は細いつな。

故手足項背直行附骨之筋皆堅大,而胸腹頭面支別橫絡之筋皆柔細也。
上下肢・項背部の幹のような骨に沿って直行する筋は、堅くて大きい。
胸腹部・顔面部の枝分かれの筋は、柔らかくて細い。

【私見】剛筋は幹のように直行し、柔筋は枝のように細分化したものである。これは経と絡の関係にそっくりである。だから、上文で “相維”と言い、布のように百骸 (全身の骨) を包み込むような表現をしているのである。

但手足十二經之筋又各有不同者,如手足三陽行於外,其筋多剛,手足三陰行於內,其筋多柔;
ただし、手足の十二経によっても経筋の剛柔は異なる。手足三陽のごときは外を行き、その筋は多くは剛筋である。手足三陰のごときは内を行き、その筋は多くは柔筋である。

宗筋

而足三陰、陽明之筋皆聚於陰器,故曰前陰者,宗筋之所聚,此又筋之大會也。
そして、足三陰と足陽明の経筋は、みな陰器に聚 (あつ) まる。ゆえに前陰部は「宗筋の聚 (あつ) まる所」「筋の大会」と言われるのである。
※宗筋とは前陰部のことである。 “前陰者.宗筋之所聚” 《素問・厥論45》
※「宗」とは親・祖先のことである。「宀」は先祖をまつる建物、「示」は位牌をかたどったものである。

【私見】前出の “然其所結所盛之處,則惟四肢溪谷之間為最,以筋會於節也” は、このクダリの前フリである。関節以上の “” (前出) は、陰器である。 “ (気血は) 筋をもって節に会するなり” は、「 (気血は) 筋をもって陰器に会するなり」と読み替えて良い。つまり、陰器はすべての筋の付着部であり集合場所であり、百骸を一まとめに結わえている「たる関節」である。

またさきほど、剛筋は太い幹のようなもので柔筋は細かい枝のようなものだと説明したが、宗筋はそのまた「親」である。親づるが宗筋だとすると、剛筋は小づる、柔筋は孫づるのようなものであると言える。字源からも、「宀」を建物ではなく身体とみなせば、本尊の「示」は陰器というイメージを、古代の「宗筋の名付け親」は持っていたかもしれない。

このように考えると「宗筋のあつまるところ」である前陰部は、人体でもっとも巨大かつ土台となる「大関節」ということができる。前陰部を拡大解釈して、関元の周辺 と考えても良い。この部分が、「体を動かす」「体を一つに結わえる」ための枢要部であることが強調される。

この大関節を取り巻くのは股関節・腰仙関節・仙腸関節・恥骨結合である。このあたりを調整すると痛みが取れるという経験則は、宗筋を動かし経筋を調整していたのだ。

経筋は肝

然一身之筋,又皆肝之所生,故惟足厥陰之筋絡諸筋,
一身の筋はみな、肝の生むところである。ゆえにただ唯一、足厥陰の筋だけは他の諸経筋を絡 (まと) うのである。

【私見】
ここでハッキリと、
・経筋とは筋のことである
・経筋の本体は肝である
… と言っている。

そして、前陰部周辺の枢要部 (宗筋) の本体は、肝である。たとえば手をにぎることができるのは、肝気が手に到達するからである。肝気が到達することができるのは肝血に支えられているからである。力のもとは肝である。

関元周辺は臍下丹田とも呼ばれる。臨床的にも、体がうまく動かせない (うまく歩けない) 病証は、 “下腹 (関元) に力が入らない” と患者自身が訴える。関元・前陰部に足厥陰肝経が流注することからも、肝は下焦 (関元〜前陰部) に存在するという考え方もある。

いかなる治療といえども、最終的には臍下丹田に気を集めることが目的である。これはアーユルヴェーダとも符合する。その方法論の一つとして「経筋を整える」という考え方が含まれる。

筋緊張と経筋

而肝曰罷極之本,
だから肝は「罷極の本」と言われるのである。

【私見】「罷極」とは、「ダラ〜」と「ピンっ」のことで、つまり筋の収縮と弛緩を意味する。もっといろいろな意味を持つが、ここではその意味で用いている。陰茎がそうであり、筋肉がそうであるというところからの古人の発想が、臨床的にも合致したのである。

分かりやすい例えが、筋肉が緩めば肝気も緩む (リラックスできる) 。体を横たえただけでも筋肉 (肝気) は緩む。

治療において、緊張した筋肉を緩めることが、いかに重要であるかがよく分かるであろう。肝気がなかなか緩まない患者さんには、1分でもいいから時々横になるよう指導することがある。

ただし、新鮮な白菜に圧力を加えてグニャグニャにするような緩め方は問題です。細胞を破壊すれば、柔らかくはなるのです。可憐で生き生きとした花を押しつぶせば、柔らかくはなるのです。

人体には地球を2週半もする長さの血管がしまわれています。どれだけ細いものか想像できるでしょうか。しかも管なので、その真ん中に穴が空いている。肉眼では見ることすらできない毛細血管の壁の薄さは、生けたユリの茎 (くき) の細さの比ではありません。茎を押せば茎は柔らかくなるでしょう。そしてやがてユリの花も柔らかくなるでしょう。水を通す管が機能しなくなり、ユリの花がしなだれたのです。

つい最近も、たった5分の百会の置鍼で、カチカチの頸・肩・腰・膝の裏のベーカー嚢腫・パンパンの下腿のむくみなどが、まるごとフニャフニャなった症例がありました。足の重さを訴えて来院されましたが、3ヶ月に渡った症状がこの1回だけでスッキリしています。柔らかくなるから流通が良くなるのではありません。流通が良くなるから柔らかくなるのです。この柔らかさは、美しいユリの花の「あの柔らかさ」です。

局所の鍼や手技など何でもやってきた僕にはその違いがよく分かります。いかに細胞を傷つけずに筋肉を緩めるか。いかに微細な刺激てダイナミックに筋緊張を解くか。これは我々臨床家が、もっともっと真剣に考えなければならない課題です。これを、ぼくは一本鍼にすることでクリアしています。

此經脈經筋之所以異也。
これが経脈と経筋の違うところである。

【私見】経脈との大きな違いは、経脈は中焦 (胃の気) に起こっている※のに対して、経筋は肝 (爪・井穴) に起こっている部分である。
“肺手太陰之脉.起於中焦” 《霊枢・經脉10》

経筋の病証

《霊枢・經筋13》には、経筋の病証が列挙されている。

その多くは、指先から四肢体幹にかけてその経筋が流注する部位の、痛み・こわばり・筋痙攣など、整形外科的なものである。これは十二経筋それぞれに繰り返し記載されており、さまざまな体の痛みに経筋が関わるのは、これを見ても明らかである。

そして、経筋には臓腑への流注がない。そこから、経筋は臓腑に関わりを持たず、筋肉系統のみの独立したものであるという考え方もある。

しかし、その病証には以下のような内科疾患も含まれる。

  • 脊反折.項筋急 (足太陽之筋) …体をのけぞらせ白目を剥いて痙攣する (角弓反張) 。
  • 髀前腫(足陽明之筋) … 鼠径部の腫れ。“髀.股也” 《類経》
  • 躰疝 (足陽明之筋) … 陰嚢の腫れ。
  • 癇瘛 (足少陰之筋) … てんかん。
  • 此筋紐發.折紐數甚者.死不治 (足少陰之筋) …足少陰腎経の筋痙攣がひどい場合は死亡する。
  • 筋瘻頚腫 (手太陽之筋) … 慢性結核性頸部リンパ腺炎。
  • 息賁 (手太陰之筋・手心主之筋) …呼吸困難。五積の一つ。
  • 脇急吐血 (手太陰之筋) …脇がけいれんして吐血する。
  • 伏梁唾血膿者.死不治 (手少陰之筋) …腹部に腫塊があって血を吐く場合は死亡する。

これは、経筋は肝そのもの (肝気・肝血) であり、肝血は血の領域そのものであることを踏まえると理解しやすい。

吐血は血の病変である。
血が機能しなくなれば、とうぜん死に至るケースも出てくる。
肝気が病めば呼吸困難にもつながる。
気血ともに病めば腫塊を生じたり、てんかんを生じたりすることもあり得る。

経筋は五臓六腑に直接関わらなくとも、気血に広汎に関わる。そして肝に関わるのである。

経筋の治療

一般的な解釈

《霊枢・経筋13》には、以下の文言が決り文句として、十二経筋の各病証に添えられている。

治在燔鍼劫刺.以知爲數.以痛爲輸
治療は燔鍼劫刺にあり。知をもって数となす。痛をもって輸となす。
>> 治療は燔鍼で邪気を取り去る。症状緩解が刺す回数の目安である (緩解するまで何度でも刺す) 。痛む場所を治療箇所とする。
※「燔鍼」… 焼いた鍼のこと。真っ赤に熱した鍼を用いる。

この文言を、字源を忠実に踏まえつつ、私見を交え、以下に解説を試みる。

字句の本義

▶劫

「劫」… 強奪すること

因火氣而劫散寒邪也” 《類経》
火気によりて寒邪を劫散するなり。

※劫火… 壊劫 (エコウ・世界が破壊されてゆく時期) に発生する大火災のことで、劫火はすべてを焼き尽くす。

“人欲去,以力脅止曰劫。”《説文解字》
人が行こうとするのを力づくで阻止することが劫である。
※去=leave (出立する)。

▶知

「知」… 病が癒える。《素問》《金匱要略》でもその意味で用いている。

「知」は「矢+口」である。
矢で射たように的を得たコメントを矢継ぎ早に言う。これが「知」の本義である。
矢のような的を得た鍼によって即座に癒える。これが「知」からイメージされる癒の姿である。

“知.…識詞也.从口从矢.識敏.故出於口者疾如矢也” 《説文解字注》
「知」は、知識から出た言葉のことである。口と矢とからなる。知識は “敏” ゆえに、口から言葉として出るのは、疾 (はや) きこと矢の如しである。

▶痛

「痛」…「疒」+「甬ヨウ」。
「甬」… 「通」と同義である。「通」は「辶+甬」である。

「通」という機能が病んだ状態を「痛」という。

「いたみ」は「痛」の本義ではない。

▶輸

「輸」… 一般に、この文での「輸」は兪穴 (経穴) と訳されている。しかし「輸」や「兪」のもともとの意味はツボではなく、 “船で荷物を運ぶようにスムーズに進む様子” である。字源は、船が波を切って前に進むことである。よって「通」と同義である。

この原義から、 「ツボ (鍼で気を運びスムーズに動かすためのツール) 」という意味でも用いられるようになった。

独自の解釈

上記字源に従いつつ、ぼく独自の訳と解説を試みる。

▶治在燔鍼劫刺… 治療は燔鍼で劫刺する

古代中国人社会は、現代のストレス社会・飽食社会とは異なる。交通手段は主に足、生活の糧は農耕であり、常に筋肉 (経筋) を用いる生活であり、また飢えと隣り合わせの社会であった。僕も農耕をやるが、夏場に汗を大量にかき、水を大量に飲んでお腹がペコペコになると、温かいもの・油や滋養の濃いものが食べたくなる。汗は邪熱を発散もするし、過度になると陽気を損ないもする。

古代中国人においては、夏場は労働で汗をかいても野菜中心の粗食、冬場は暖房設備や着類が粗末であるという事情を推察すると、どちらかと言うと寒証に傾きやすかったのではないか。それが燔鍼を特別に挙げている理由と考えられる。《類経》も “燔鍼で寒邪を取り去る” とコメントしている。

現代文明国では、ストレスと飽食と運動不足で、正気虧虚による寒熱錯雑をベースにしつつも、あきらかに気滞化火による熱証に傾いている。よって僕は経筋を意識した燔鍼は用いていない。
古代の環境と、現代の環境の違いを考慮しつつ古典に学ぶべきである。文字づらを鵜呑みにしてはならないのである。

邪を取り去る (劫刺) という点では、燔鍼であろうが普通の鍼であろうが同じである。筋緊張があるのは、通じなくさせているものがあるからである。筋緊張が緩むのは、通じなくさせているものを取り去ったからである。

▶以知爲數… 効果が得られるまでが数 (治療回数・鍼の本数) である

「知」の「矢」は、鍼を意識していい。鍼が的にズパっと当たって即座に症状が和らぎ、「ああ楽になった」という詞が口から出る。だから「知」には「治癒」という意味があるのだろう。

そういう詞 (ことば) が得られるまで、何度でも何本でも鍼をしなさい…という意味である。もちろん、一本でその言葉が得られたならば、それ以上鍼を打ってはならない。

腕が達者ならば、一本で事が足りる。すでに記したが、「知」は “矢” のように “敏” であり “疾 (はや) い” に通じる。よって即座に効果が出るのが《霊枢》の著者のイメージにはある。当たり前だが、何本も鍼を打つより、一本打つだけのほうが時間が短い。よって、即座の効果の究極は一本鍼である。

だが、未熟な内は何度でも何本でも、痛みが取れるまで何回でも治療しなさい、的を得た治療ができるまで食い下がって修行しなさい…ということを言外に説いている。

▶以痛爲輸… 「痛」をもって「輸」となす

一般的な訳は、上にすでに挙げたが、「痛む場所を治療箇所とする」である。

ここでは、僕流の訳を、字源に忠実に沿いながら紹介する。一般的な訳と対比すると面白いはずだ。

現代人は「痛」における古代の原義を忘れてしまっている。上記の▶痛 で、できればリンクに飛んでもらい、まずは本来の「痛」の字源字義をイメージしてもらいたい。

「痛」とは “不通則痛” のことである。気が通じない。だから痛みが出る。
「輸」とは “通則不痛” のことである。ツボのことではない。気を輸 (うご) かした。だから痛みが止まり、「癒」となる。

つまり、 “痛をもって輸となす” とは、「気の不通となったところを輸 (うご) かしなさい」と言っているのである。「気の不通となったところ」とは? 痛みが出ている所ともいえるし、経筋の元締めである肝ともいえる。よって、どのツボを使うかは、腕次第である。とにかく、病んだ肝木 (疒+甬) を正常化 (辶+甬) する。
・痛いところを直接やってもいい。
・痛いところには鍼をせず、肝を上手に動かして痛みをとってもいい。
どのツボを使えとは言っていない

これが「輸」の本義に従った訳である。

そもそも「輸」や「兪」を、場所的な「ツボ」と訳すのは、物質的に特定してしまいかねない危険な訳し方である。東洋医学用語の本義は、もっと機能的な意味をも内包している。さまざまな意味をもつのが東洋医学の世界であることを忘れてはならない。

さて、経筋の病を治すことは、肝を治すことである。
・局所のツボに鍼をして筋肉を緩め、結果として肝が緩む。
・弁証論治で導き出したツボに鍼をして肝を直接緩め、結果として筋肉がゆるむ。
この2つの方法で、簡単なのは前者である。痛いところを患者さんに聞いて、そこを治療点にするのは誰でもできる。難しいのは後者である。そして、体全体の筋緊張を一度に取ることができるのも後者である。前者は、肝を直接動かしていないので、鍼をした局所の筋肉しか緩まない。

・局所治療は、局所の不通が通じる。
・弁証論治による治療は、全体の不通が通じる。

最初は「痛」…痛み…に向き合いなさい。
熟練したならば「痛」…不通そのもの…が見えるようになるから、その境地を目標にしなさい。

「痛」も「輸」も、浅い意味から深い意味までピンキリだから、その意味を腕に合わせて各々が捉え、それぞれに醫家として成長していきなさい。

このようにまとめられる。

古典の医学書は、原文を読むことが大切です。日本語訳を読んでも真意は伝わりません。行間を読むことこそ大切なのです。原文は、短い言葉で深い意味を暗示し、いくつもの解釈ができる場合が多いです。

たとえば上文では、腕の巧拙に合わせた解釈ができます。最初は局所で痛みを取る訓練をしなさい。腕が上がってきたならば、もっと楽で安全で正しい方法を考えなさい。とにかく不通を通じさせればいいんだよ。そのように《霊枢》は、平易に、しかも高遠に我々を導いてくれているのですね。

痛みを取るには、深い考えが必要です。
「痛み」は「痛い」から治る?
痛みを取る=人間として成長する
をご参考に。

肝がゆるむ…つまり「肝気が正常に条達する」ということは、人としてスクスクと成長することにほかなりません。

まとめ

以上、張景岳《類経》の考え方に従い、また私見を交えつつ、経筋の概念を追ってみた。

これを踏まえつつ、より端的に、経筋とは何かをまとめてみたい。

まず、経筋とは筋肉のことである。筋肉には、筋と肌肉の内訳がある。筋が将軍なら肌肉は兵隊であるる。よって、より純粋な経筋とは筋である。広義の経筋は筋と肌肉である。

筋は物質的側面を持つ概念だが、それにフォーカスしすぎると東洋医学から遠ざかってしまう。東洋医学の「気 (機能) の概念」すなわち陰陽論で捉えることが重要である。筋は陰 (影の支配者=妻) であり、肌肉 (実働部隊=夫) は陽である。その陰と陽との境界となるのが「脈」である。

陰陽って何だろう より転載

脈から筋も肌肉も生まれる。脈には営気 (軍に配属前の気・血) が流れ、筋には血 (軍に配属後の血) が蓄えられ、肌肉は気 (軍に配属後の気) で満たされる。血は脈よりも深いところ (見えづらいところ) にあり、気は脈よりも浅いところにあり、両者は脈を養っている。陰がなければ境界は消滅し、陽がなければ境界はやはり消滅するのである。

経筋と経脈との関係は、陰陽と境界との関係である。

そして、経筋は肝の支配下にあり、前陰部 (宗筋) に帰結する。

人が「動く」ことができるのは、肝のおかげであり、経筋の働きであり、関節があるからである。関節が存在するのは、物質的パーツ (骨) を結わえる筋があるからである。よって関節部に経筋を治療する要所が多い。

このように、血 (肝血) に大きく関わり、気 (肝気) にも関わるのが経筋である。血に関わるということは、命に関わるということである。よって経筋を病むと死亡する場合がある。

経脈と経筋の対比、筋と肌肉の対比をまとめてみよう。

経脈はどちらかというと各部位を栄養する側面が強い。営気で満たされるからである。
経筋はどちらかというと各部位を起動する側面が強い。肝気と肝血で満たされるからである。

営気は血の要素を含む気である。また肝血も血である。この2つの血は似ているが異なるものである。営気は「脾が育てた幼い血」である。脾は “気血生化の源” と言われる。この「脾が育てた幼い血」は、成人すると肝 (将軍) のもとに配属される。これが肝血 (兵隊) である。

つまり、

  • 脈は筋を充たすのである。
  • 脈は血を養うのである。
  • 脈 (営気) は成長して筋 (血) になるのである。

そして、

営気は気の要素を含む血である。また肝気も気である。この2つの気は似ているが異なるものである。営気は「脾が育てた幼い気」である。脾は “気血生化の源” と言われる。この「脾が育てた幼い気」は、成人すると肝 (将軍) のもとに配属される。これが肝気 (兵隊) である。

  • 脈は肌肉を充たすのである。
  • 脈は気を養うのである。
  • 脈 (営気) は成長して肌肉 (気) になるのである。

すなわち、

営気 (脈) によって、気血 (肝気・肝血) は生み出される。
肝血の目的は肝気を動かすことであり、肝気の目的は生命を動かすことである。
生命の動きは、筋肉の動きに象徴される。

よって、

筋肉を動かすのは肝である。肝は風雷、風神・雷神である。風雨雷霆をも叱咤する。

肝の具現化したものが経筋である。

生命の躍動 (「甬」) である。

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