最近体調が悪い。理由はよく分かっている。
自分のペースでやれてないからである。
そもそも僕は体が非常に弱い。30代の本来なら元気盛りのときに、午前中に3人診ただけで食欲がなくなって昼食も摂れずにくたばっていたのだ。小さい頃から朝まで寝た記憶がなく、一週間も眠れずに死臭を嗅いだこともあるとは過去にも書いた。
そんな僕が今、午前中に30人診てなお余裕がある、かえって体調がよいというのは全くの奇跡である。しかしその理由もよくわかっていて、正しい生活習慣を「体という教科書」から学び、それを一つ一つ疎まずにひたすら実践してきたからだ。もちろん鍼で自分を治療するという行為も大きい。

そんな強靭な体? に生まれ変わった僕が、その体調を維持するためには一つの条件がある。
自分のペースを維持することである。これが崩されてしまうと、「地金」が出ちゃう。強靭な体とは只の金メッキ、蛙の子は蛙…とはこのことである。毎朝体を鍛え、休みは畑仕事に没頭し、外食せず、休日前夜ですら9時就寝を崩さず、学会にすら所属していないのも、すべてはペースを崩さないため、そう、仕事のためである。体調を崩して穴を開けたら、患者さんに申し訳が立たないではないか。おかげでここ15年は体調不良で仕事を休んだことがない。

そんな僕が、ここまで体調が悪いのはまずない。16年前に母を看取ったときは人生最大のビッグウェーブであったが、それ以来のウェーブである。
移転するのである。治療ベッドから次のベッドへと向かう合間に、待合で座るところがなくて2人も立って待っておられる姿を見て愕然とした。そうだよな。もうここは狭すぎる。ベッド4床で1時間に8人、患者さんにも気忙しい思いをさせている。人口密度が高すぎる。これはあかん。これじゃ患者さんに申し訳が立たない。
本当に、僕は患者さんさえ診させていただければ幸せなのだ。そして帰宅して妻の手料理をいただく。他にはもう、何もいらない。小遣いもない。お金を使わないから。
だから、面倒な手続きに気乗りがしないまま、先延ばしにしてきたのである。だが、もうそうはいかない。患者さんが、もう少し快適に過ごせる治療所にしなければ。
というわけで、もっとも僕が苦手とする娑婆の手続きを、数多くこなすこととなった。ソツなくやるのはやれるのだが、面倒くさい…おっと失礼…もとい、楽しくないのである。

今までは、楽しいことばかり考えていた。畑作業がこれだけできたとか、白菜のぬか漬けを漬けようかとか、勉強での疑問を思索したりだとか、新しい発想がひらめいただとか、まったく楽しいことばっかりだった。
ところがこの頃の僕と来たら、カーテンのスキマがどうだとか、受付のカウンターの高さはどうしようだとか、駐車場の台数が足りない分はタイムズにしようかとか、スタッフを何人補充するとかしないとか、隣に保育所でも入ってきたらどうしようとか、そんなことばかりを延々考えているのである。夢もそんなのばっかりだ。
このままじゃ潰れる。これじゃいかんと本真剣になったのが、2月12日 (水) 、ずっと下見や打ち合わせで休日が潰れていただけに、正月以来の休日となった日だった。朝から大好きな畑でもして、体調を整えようとしたのだが、疲れただけで全く整わない。
わかった。そういえば畑をしていても、ずっと移転のことばかり考えている。もう考え尽くして青写真は整っているのだから、もう考えることなど無いのである。なのに、まだどこか抜け落ちているところがあるんじゃないかと、神経質さが止まらないのである。止めたくても止められなくなっていたのである。
こういうときはどうすればいいのか。
そう、もう知っているのである。
感謝である。そうだ、いつも努力をおこたらなかった感謝。
その感謝を、おろそかにしていた。

感謝しようとしているか。そこに神経質になる。
人間というものは、一方に神経質になると、もう一方がおろそかになる。
だから僕は、移転のことに神経質になって、感謝がおろそかになっていた。
そうではなく逆に、感謝に神経質になればいい。
そうすれば移転のことがおろそかになる。いや、移転に関して考えても仕方ないことを考えなくなる。考えるべきことのみを考えられるようになる。
そのために、取った方法は。
白米を味わう。
結果、その場で体調は回復した。今まで無神経に生きてきたことを詫びる。ああ俺は、こんな大切なことを忘れて患者さんを診ていたのか。小賢しい知恵ばっかりで治そうとしていたのか。ごめんなさい。涙がポロポロこぼれる。胸脇苦満が消え去る。陽明 (前) に回って取れていった。
春になった。
特に春はこうなりやすい。春とは、「生まれる」のである。生まれるとは、邪悪な分子を持ったままでは叶わない。すべてが純粋でケガレというものがない。だから成長していけるのである。生長収蔵の「生」である。心 (肝) が清らかでないと、春を迎えることが許されない場合がある。天地自然は、そうやって過去1年間の邪悪分子を取り払い、次の1年間の成長を促してくるのである。

白米は塩も砂糖も使わない、世界でもっとも淡白な料理である。
これをよく噛んでよく味わう。
舌の深いところ (舌根部) で旨味を味わう。
目を閉じて深く味わう。
お米とその甘味に「ああ、ありがたい」という感情が起こるところまで。
お米とその甘味に「ああ、ありがたい」という嘆息が起こるところまで。
あって当たり前の白米を。
深く、深く味わう。


さらに、あって当たり前のもの、いてくれて当たり前の人、その当たり前のものや人を、深く味わうのである。神経質なまでに、熱い視線を注いでみるのである。
さらに。
他の食材、どれもこれも命、ああ、ありがたい。
手を洗う。ああ、水、ありがたい。
温かい部屋、ああ、火、ありがたい。
なにもない時、そんな時でも神経質になるべきものがある。空気。
息をちょっと止めてみる。やっぱり苦しい。これがなければ大変なこと、ああ、あってよかった…ありがたい。


こういうことを、神経質なまでに、かつては毎日やっていたのだ。
ところが、年末に移転を考え始めてから、やらなくなった。違うところに神経質になったからだ。
移転は大いに気になる要素だが、そういうときこそ、さらに、感謝に二六時中ビンビンに神経質にならなければならなかった。白米を味わうトレーニングを普段の何倍も強化しなければならなかったのである。
でも、もう大丈夫。
失敗は成功のもとである。
もう、同じ失敗はしない。
ていうか、失敗を繰り返している暇がない。
だからこのブログを書いている。
自分に、クサビを打ち込む。
そうだ。僕は「ここ」だけに神経質な人となって、この一生を生きていこう。