日野原重明先生をご存知でしょうか。
平成29年 (2017年) に105歳で永眠され、その数ヶ月前まで現役医師・聖路加国際病院名誉院長として患者さんの診察を続けられた方です。
それまで “成人病” と呼ばれた病態を、 “生活習慣病” として浸透させたのも同氏の業績と言われています。
先生が100歳になられる頃はテレビへの露出も多く、その考え方に多くの賛同と学びを得ました。
腹八分目… さらに腹七分目、年がいけば腹五分でもいい。
運動… 病院ではエレベーターを使わず、階段を使う。
朝食はジュース+オリーブオイル、昼食は牛乳+クッキーを2〜3枚のみ…などの “迷言” もありますが、言いたいことは「食べ過ぎたら良くない」ということで、大同小異だと思います。週に一度は徹夜するなども真似するのは危険ですが、学ぶべきは “こだわりを捨て、楽しんで生きる” というところにあります。
一昔前は、食べ過ぎは良くない、腹八分目がよいとテレビでもよく耳にしたが、今は「あれ食べろ、これ食べろ」ばっかり、腹八分目を強調されたのは日野原先生以来見かけない。ガツガツと求める時代である。若い世代では、腹八分目という言葉を知らない人が増えている。
いろんな名言がありますが、そのなかでも刮目に値するのは「よど号ハイジャック事件」のエピソードです。ここに先生の “健康法” の真骨頂があると思います。
私が60歳になる少し前のことでした。私は4日間ハイジャックされたよど号にいたわけです。しかし、無事に帰ることができて私の命は救われたのだと感じたんです。それからは多くの仕事をボランティアでやっていこう、社会に奉仕していこうという考えになったんです。
NHK健康ch
自分が多くの人々に支えられてきたことを実感しました。だから、与えられたいのちを、これからは誰かのために捧げよう、と決心したのです。
日経ビジネス
58歳のときに、死を覚悟されています。それまでは、世間から認められたいだとか、優れた業績を残したいだとか、名誉欲があったそうです。しかし当事件以降はそういう欲が無くなり、「生かされている」という気持ちになったと語っておられました。
生かされている。
たしか先生が98歳、2010年のころでしょうか、当時テレビで「その言葉」を聞いた時、正直ぼくはピンと来ませんでした。今から14年前、ちょうど僕が40歳のころです。生来弱すぎて日常生活ができない人間でした。死臭ただよう死線を越えたのはその1年後、さすがにもうダメだと思ったのですね。
母がもうダメだという時、死臭というものを初めて嗅いだ。病院に母を残して家に戻り、その臭いが体に染み付いていると感じた。翌日、道を歩いていてもその臭いが消えず、やっとそれが自分の臭いであると気づいた。一週間一睡もできす食事もジュースしかのどを通らなかったのである。
でも、そこから数多壁を乗り越え、今はほんとうにこの一生で一番穏やかで一番健やかです。
そんな今、あの「先生の言葉」の意味がよく分かる気がします。
10年前から続けている日課があります。
- 火が有り難い。太陽の火がなければ氷の世界となって死んでしまうところでした。
- 水が有り難い。水なしで生きられるのは72時間まで、それが無ければ死んでしまうところでした。
- 土が有り難い。大地が無ければ支えを失い、宇宙空間に放り出されて死んでしまうところでした。
- 金が有り難い。金とは空間 (空気) です。空気が無ければ息ができず死んでしまうところでした。
- 木が有り難い。木とは成長するもの (動植物の生命) です。我々は生命を殺 (あや) めて食しています。食べるものが無ければ飢えて死ぬところでした。
これらすべてに感謝しようとするトレーニングをしています。いや、感謝する “ふり” をするトレーニングと言っていい。10年間、1日も欠かさずやってみて、そう思うのです。感謝など、できるものではない。 “感謝してますよ” という人が、一番感謝できてない。
たぶん、一生つづけます。
たぶん、一生できないと知りつつ。
乗り越えられたのは、このトレーニングのお陰でした。
上記の、木火土金水が得られなければ、ぼくはとっくに死んでいます。
命拾いをしている。
そして、生命をどれだけ奪って生きながらえてきたことか。
だから、今度は僕が命を差し出す番だと思うのです。
この考え方は、東洋医学の根幹をなすものである。土王説とは、土が木火金水の中央にあって最も「尊い」という考え方である。一方、土である脾は「卑しい」と書く。卑しいこと (命を差し出すこと) が尊い (中央) という考え方である。
そんな気持ちで日々の臨床に立ち向かう。そう思いながら、でも本当にそうするわけじゃないけど、毎日を行動しています。
べつに何も望みません。
いや、大きな望みがある。世界中の人々に幸せになってほしい。健康になってほしい。
どうせ命を差し出すならば、願いは大きいほうがいいでしょ?
そういう気持ちで放つ一挙手一投足。
善い気持ちで為したことは、善い結果になる。
悪い気持ちで為したことは、悪い結果になる。
悪い気持ちとは、自分「さえ」良ければいい…という気持ちです。
善い気持ちとは、…。
空気や水がなければとっくに死んでいる。拾った命、無いでもともと。だったらそれを世の中のために使ってやれ。自分の利欲のためではなく。この体は大自然のものだ。だから、大自然の前に差し出す。大自然とは、この空、この大地、植物、禽獣虫魚…さらに、その粋たるものこそ人間ではないか。それらが命を与えてくれているのだ。
その心こそ善。
善い心から発した行動は、善い結果となる。
善い結果とは、…この心と体が救われる。
だからぼくは、今まで生きてきた中で一番穏やかで一番健やかなのかもしれません。