怒りがどうしても抑えられません

【質問】
怒りについてお伺いします。ふとした瞬間に過去の出来事が思い出されて、怒りが抑えられなくなる時があります。抑えようとしても、どうしても抑えられません。でも、それが体に悪いような気がします。やっぱり抑え込んだほうがいいのでしょうか。

【回答】
怒ることは体に悪い。その通りです。おこりんぼさんは病気が治りません。

体を傷つける。肝を傷つける。

だから怒るのはよくない。どのくらいよくないかというと、人を殴るくらいよくない。殴るのも、体を傷つけます。自分の体であろうが、他人の体であろうが、体を傷つけることは、してはいけないことです。人をなぐったら警察に捕まりますね。でも心のなかで腹を立てたくらいでは捕まらない。だからやっていい。…っていうのが間違っている。捕まるくらいにやってはいけないことなんだ。

という「知識」を持ってください。この知識を太陽のように輝かせてください。

僕はよく自分に言い聞かせます。
また自分は腹を立ててしまっている。これは間違いなんだ。自分は至らぬ人間だ。
声に出して言えばなおよいと思います。

それが謙虚さにつながります。すると、怒りにホンの少し歯止めがかかります。ホンのわずかに抑止力になります。この、ほんのわずかが大きい。

この、ほんのわずかを、体はとても喜びます。すると、体が生き生きしてくる。太陽のように輝く正しい知識 (歩むべき道) にむかって、ほんの1ミリ進むことができたからです。

植物もそうですね。太陽に向かって伸びようとする。太陽に届こうとする。でも、太陽には届きません。届かないから “もうや〜めた” とはならない。届かないと知りつつも、1ミリの成長をやめない。だからあんなに生き生きしているのですね。

体は人工物ではありません。自然の中から生まれた自然の一部です。だから、植物と同じことが言える。そのように確信を持っていただいて結構です。

太陽にはとどかない、でも成長をやめない
成長とは何か。これを自然から学ぶ。植物の成長である。

厳密には、怒り (憤り) には、私憤と公憤の2種類がある。私憤とは、ここまで話を進めてきた怒りのことである。私憤が利己から発した怒りであるに対して、公憤とは利他から発した怒りである。たとえば戦争があって “こんなこと止めろ! ” と怒鳴ったとする。これは正しい怒りである。正しい怒りは体を傷つけない。しかし多くは、自分が戦争の巻き添えになりたくない…という利己に発するものがほとんどである。公憤の根底にあるのは「犠牲心」であって、自分がまっさきに銃弾に倒れてもよいという覚悟である。よって公憤はこの世の中にはほとんど見受けられない。

抑え込んだ怒りを開放させたほうがいい (怒りにまかせて喚き散らした方がいい) という人もいますが、そんなことはありません。それで一時は調子が良くなったと見えても、それは、誤った道をスムーズに進んでいるだけにすぎません。

たとえば鳥みたいに空を飛びたいと誰もが思うとします。しかし人間にはそれができませんね。できないからストレスになるかというと、そんなことはありません。できないもんだと納得しているからです。むしろ、自分でやろうと思えばできるのに、他人からやっちゃダメと言われる中途半端な状態がストレスになる。

いや、やろうと思えば空も飛べます。東尋坊から海に飛び込めば、一瞬は空を飛べるでしょう。それを他人からやっちゃダメだと言われたらストレスになるでしょうか。なりませんね。それは、自分でやっちゃダメだと分かってるからです。だから東尋坊で空を飛ぶなと言われても、ストレスにはなりません。そこは、考え方一つです。

感情は自由に開放させればいい…というのは偏った考え方です。大切ではあるが、それのみに偏してはならない。
自由過ぎるのは、本当はこわいことなのです。束縛とのバランスが大切です。

自由と束縛
自由と束縛。 これは陰陽である。陰陽とは「夫婦」のようなもので、全く真逆の概念でありながら互いが互いを助け合い、高め合って「一つの家庭」を形成するものである。どちらかが欠けては成り立たないし、どちらかが力を持ちすぎると、それは崩壊する。 自...

過去の怒りが出てくるんですね? でも、これは無理に抑え込まなくていいです。押し入れを整理しようとして出てきた片付け物を、無理に押し込めたら良くないじゃないですか。せっかく片付けるチャンスなのに、それじゃ片付かない。

この体には押入れのような収納場所があります。毎日生活していると、抱えきれないくらいのストレスや疲労という「片付け物」が舞い込んでくることがあります。それをその日に消化しきれないと体が判断したとき、その片付け物をとりあえず押入れに放り込む。そして、体力が充実した頃合いを見て、あるいはストレージ不足を見越して、少しずつ押し入れから出して、捨てるものと取っておくものを分け、整理するのですね。

不意に込み上げてくる過去の怒りは、そういうものです。だから無理に抑えなくていい。勝手に怒らせておけばいいです。放っておけばいい。この怒りは「感情」です。感情はコントロールできません。コントロールできないものを無理にコントロールしようとしても、それは無駄骨です。だからコントロールしようとしない。

こう言うと、じゃあ、辛抱せずにわめき散らしちゃえ! となりそうですが、それは違います。喚き散らしても、周りは幸せになりません。僕たちは周りに支えられているので、周りが幸せでなければ、自分の幸せもやってきません。むしろ、周りまで怒り出したら、その怒りは倍になって返ってきてしまいます。報復の応酬です。これじゃ戦争ですね。

じゃあ、どうすればいいの?

大切なのは、さっき言った「知識」です。怒るのはやっちゃいけないことだ…という知識。これは理性とも言います。理性と感情。しかし僕は「知識」と言ったほうが分かりやすいと思うので、そう表現します。実は、この知識が、感情を変えていきます。

たとえば鈴木さんという女性がいた。僕はその人とすごく仲がいいので、会うたびに「鈴木さん」って声をかける。ところが結婚して姓が変わり、田中さんになった。そのことを僕は「知識」として持っている。

でも、会うとついクセ (感情) で「鈴木さん」と声をかけてしまう。「あっ、そうじゃなく “田中さん” だったね。ごめんごめん。」と言い直す。
次に会ったときも「鈴木さ…じゃなくて田中さん」
その次に会ったときも「鈴…いや田中さん」
その次に会ったときも「す…あ〜田中さん」
そうやって毎回言い直す。

そうしているうちに最初から、「やあ、田中さん」と言えるようになる。
それを繰り返しているうちに、だんだん “田中さん” としか思えなくなる。
それを繰り返しているうちに、こんどは “田中さんって以前なんて呼んでたっけ?” となる。

これです。

「知識」が「感情」を変えた姿です。

怒ることはよくないことだ。この知識がお日様のように輝いてさえいれば、今は怒りの豪雨が叩きつけていたとしても、それは放っておけばいい。

知識は「智」です。「知」に「日」と書きますね。「日」はどの方向にあるのかを「知る」。そしたら放っておいても勝手にそっちに進む。もしそれを知らずに忘れていたら成長しなくなる。「日」を知らない植物も枯れますね。しかし「日」を目指している。だから植物は放っておいても勝手に成長するのです。

知識が正しければ、勝手にいい方に進む。

「鈴木さん」とつい呼んでしまう。これが「性格なんか変わらない」と言われる部分です。たしかにすぐには変わらないかもしれません。

でも、僕は知っている。鈴木さんじゃない。田中さんだ。
その、太陽のように輝く「正しい知識」を持っている。

真実は、どの方向に輝いているかを知っている。

だから、なんどもなんどでも「田中さんだったね」と言い直す。あきらめずにその努力を繰り返す。
そうしているうちに「田中さん」としか思えなくなる。前はどうだったたか忘れてしまうくらいに。

怒りを忘れてしまうには、「それ」以上の時間と努力が必要でしょう。
でも大丈夫。「それ」と同じく可能なのです。

怒りは、いつの間にか気にならなくなる。忘れてしまう。
感情は、いつの間にか願った通りのものとなる。

穏やかさ。落ち着き。もう、いいことしか起こりません。

性格は、こころは、きっと変わるんですね。

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