主一無適… 二兎を追うものは一兎をも得ず

人生とは、まるで富士山を登るようなものです。いろんなルートがあって、みんなそれぞれルートが違う。でも目指す頂上は同じで、そこで手を取り合うのですね。

でも中には、富士の樹海に迷い込んで抜け出られない人もいます。

さまざまな情報が飛び交い、ルートに迷ってしまいますが、頂上の絶景を見るにはどうすれば良いのでしょうか。

富士山は世界に誇る名山です。

その頂 (いただき) から眺める景色は、それはそれは雄大なものでしょう。
われわれは、その景色を眺めるために、坂道を登る労苦をいとわないのです。

それは、療治も同じです。
健康という頂 (いただき) に立つために、治療・養生という労苦をいとわない。

ただし、その「別け登る道」は一つではありません。

別け登る 麓の道は 多けれど  同じ高嶺の 月を見るかな

例えば、富士山のような立派な山に、登山道が東西南北にそれぞれあるとします。A氏は東ルートを、B氏は西ルートを登るとします。どちらも頂上へと続く道で、どちらも正しい道です。

ただし、たとえばA氏が、「この東ルートで果たしていいんだろうか。相変わらず険しい坂道で苦しいし、頂上など見えても来ない。B氏は西ルートを楽に登っているようだ。もしかしたらこの道は間違った道で、西ルートのほうが良いのではないか。」と迷いだし、西ルートに変えたとします。ところが西ルートは西ルートで道が悪く、「B氏はよくこんな道を登るもんだ。待てよ、ひょっとしたら北ルートが正しいのかもしれない、北ルートに変えてみよう」とやる。挙句の果ては、東・北・西と気分次第でコロコロ変えていく。

こんなことを延々繰り返していると、それこそ富士の樹海に迷い込み、頂上はおろか帰り道さえわからなくなってしまいます。

どんな道であっても、たとえ正規のルートではない「道なき道」であっても、それらはみな頂上につながっています。今は横道にそれていたとしても、頂上の一点 (真心) を目指し歩み続けるのでありさえすれば、その道は千年かかってもいずれ頂上にたどりつく過程にある道なのです。そういう意味では、否定される道はどこにもありません。これだけは、くれぐれも誤解のありませんように。

戦争の主因は、自分のルート「のみ」が正しいと考える誤りにあります。東洋医学の流派同士も同じです。「一」の解釈が誤っているからです。本ページをご熟読いただければ理解できると思います。

クライアントがコンサルタントを選ぶ時も、ルート選びと同じです。それは、直感に従う面が多くなります。これだ! と直感したコンサルタントにすべてをゆだねることです。

ただし、欲張りはいけません。二人も三人もコンサルタントを雇って掛け持ちし、整合性のあるものが生まれるでしょうか。

“船頭多くして船山に登る”

船頭ひとりひとりは経験を積んだ立派なものであっても、それらを同じ船に乗せればモメるのは明らかなことです。それぞれの船頭にはそれぞれの航路があり、ひとりひとりが経験し心得たものがあるのです。早く目的地に着きたいのは分かりますが、それならなおさら船頭は一人にすべきです。でなければ、航路を行くどころか、船が山道を逆走することもありえるのです。

「主一無適 シュイツムテキ」という言葉があります。

と仰ぎ敬うものつにして、 他に心の適 (ゆ) くところ
信じると決めた一つのみに集中し、ほかに気が移ることがない。

一言で言えば、「敬」です。

「主一無適」の出典

下の言葉は、儒学 (儒教) の創始者である孔子のものです。
敬事而信.《孔子・論語》
事を敬すれば信たり。
つつしみうことで「信」が得られる。

この言葉を、朱子学の創始者である朱熹が解説しています。
敬者主一無適之謂.《論語集注》
敬は主一無適の謂 (いい) なり。
」とは「主一無適」のことである。

この「主一無適」は、朱熹の師匠である二程 (程顥・程頤兄弟のこと) の言葉を受けたものです。
或問敬.子曰.主一之謂敬.何謂一.子曰.無適之謂一.《二程粹言》
或るひと敬を問う。子曰く、主一これ敬という。何を一というや。子曰く、無適これ一という。

ある人が「」とは何ですかと質問した。先生は答えて言った。「主一」のことだ、と。では「一」とは何ですかと質問した。先生は答えて言った。「無適」のことだよ、と。

」は「警」「驚」に通じ、体を固くして畏 (かしこ) まる意があります。その人の前に出ると自然と緊張して謙 (へりくだ) る、つつしむ、それが敬です。敬すれば信たり。コンサルタントのことを「敬まう」から「信じる」が生まれる。孔子の言うとおりです。コンサルタントの言うことを聞かずにコンサルティングが成り立つわけがありません。同時に、クライアントから尊敬されず、指導に耳を貸してもらえないコンサルタントは、そのクライアントを良くする力がないということです。よって両者は噛み合わず、つまり「通信 (信が通じること) 」できず、いいものは生まれません。

二兎を追うものは、一兎をも得ず。

あぶはちとらず (虻蜂取らず) 。

あれもこれもとねらって、結局どれも得られないこと。欲張りすぎて失敗すること。

昔話では、欲張り爺さんも欲張り婆さんも、結局うまく行きませんでしたね。

「適」の字源・字義

【原義】見定めた目的地に行く

「適」…「辶+啇」。
「辶」… =「辵」。彳と足とからなり「歩を進める」意味である。
「啇」… =「啻」。
「啻」…「帝+口」。
「帝」…花蒂のことである。花蒂とは (ウリ・果実などの) 蒂ヘタ、 (花の) 萼ガクのこと。また、根蒂のことである。根蒂とは (植物の) 根、根もとのことである。古代中国人はこうした意味を持つ「帝」を生命の根本とした。つまり、果実や樹木を生み出すのが「へた」に当たる部分だからである。根本という意味は意義拡大して「天帝」を指すようになった。天帝とは根源神であり、たった一人の万物の祖先である。
「諦」…考え方の根本としての「真諦」を指す。根本は一つ。
「締」…締めくくる、結局はそこにたどり着く。バラバラのものが一つになる。
「滴」…水滴がまっすぐ一点に向かう。
「敵」…「攵」は打つ意味。向き合い、打ちすえるべき根本的な一点が「敵」である。

「帝」の字源

つまり「適」とは、たった一つの根本的な考え方 (真実) に向かって、まっすぐ行き進むことである。

まっすぐさ。これと決断したことを目移りなしに貫く。頭を打つ。頭を打てばやり方を変え、またそれを貫く。やがてまた壁にぶつかる。またやり方を修正する。ぼくの鍼は、一本鍼も、虚実も、こうやってより良いものになってきています。今もその過程にあります。

良いものを作る (健康になる) には、ここが肝心どころです。

人生とは暗闇の道を歩くようなものです。道の真ん中を歩きたければ、信じた方向をまずは「まっすぐ」に歩いてみる。すると左の側道の壁にぶつかったとします。壁にぶつかったら「素直」に間違いを認め、向きを右に変える。これもまっすぐ歩けば、そのうち右の側道の壁にぶつかります。また素直に向きを変える。こうやって「ああ、この道 (人生) は、こういう幅でこの方向にゆくべきものなのだな」と気づきます。これが「さとり」です。うろうろ蛇行して道の全容が見えるでしょうか。

成長するためには、愚直さほど大切なものはありません。「愚直」とは、バカみたいに素直であることです。人からバカと言われようが意に介さぬ強い心です。壁にぶつかる失敗は想定内、一度失敗してやろう、むしろそれがないと成長などできない…という達観です。

主一無適。

時間がかかり要領が悪く見えようとも、一意専心ならぬ「一意敬心」の心を忘れなければ、結局は一番早く目的地に到達するのです。欲がある間はうまくいきません。いろいろと他に目移りすることを「浮気」といいます。浮気の成れの果ては……ご存知のとおり、うまくいきません。

いろいろな情報が飛び交うこの社会でさまざまな知識を得る。
すぐれた臨床家を目指して勉強の仕方をいろいろと模索する。
いろいろとドクターショッピングしてすぐれた治療家を探す。

多くのものを見たり聞いたりして、見聞を広げるのは大切なことです。しかし、それだけの繰り返しではものになりません。

いずれどこかで、「主一無適」の精神とならねばならない。

これは腎の封蔵でもあります。覚悟を決めなければ良くはならない。

腎とは信念 (志) です。信念とは裏切られるまで信じ抜く覚悟です。ぼくも中医学をそんな気持ちで勉強してきました。「信」と「裏切り」は陰陽です。「裏切り」なくして真の「信」は得られません。
中医学を通して見た人体は、驚くほど精巧で寸分の狂いもない「脈々たる生命」でした。おかげで弱かった体も奇跡的な改善を見せ、いまや僕は「からだ教」の、殉教をも辞さない熱烈な信者となってしまいました。

この道を、信じた道を、他の道には目もくれず、ひたすら登る。

富士の高嶺の絶景は、その先にあります。

  

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