霊の世界に興味を持つな

たまに、
「わたし、見えるんです」
「霊に憑依されるんです」 …という相談を受けることがある。

『幽霊図(お雪の幻)』円山応挙筆 カリフォルニア大学バークレイ美術館所蔵

これを、統合失調症であると西洋医学的に切り捨てるのは簡単である。そう、これら神がかり・霊がかり現象、あるいは霊視などの霊能力は、すべて統合失調症による幻覚・幻聴であるとされる。

しかし、それでは患者さんに寄り添えない。相談者は納得しない。
その病名の持つ印象よりも、さらに悩みは深いのである。

そもそも、霊があるかないかは誰にも断言することはできない。よって、あるかないかを考察することは意味がない。
しかし、霊があると仮定したほうが得なのか損なのか、ないと仮定したほうが得なのか損なのか、それなら考察の余地がある。これは、死に向かって生きる… ゴールラインをこえて走り抜け で詳しく説明したので、そちらを参考にしていただきたい。

本ページでは稲川淳二さんばりに、霊を「存在するものと仮定して」展開する。

見えているからと言って、その人が健康なわけではない。
そして憑依されると、当たり前だが体調を悪くする。

霊と関わり合いになって、得なことは何も無いと考えていただいていい。少なくとも、僕のところに治療に来る必要があるということは、そういうことである。

まず、霊的現象や怪奇現象に、興味を持たないことである。大切なのは「感謝」であって、ご先祖様から受けた御恩に向き合い、感謝ができればそれでいい。また「安心立命」を得るために、死後の世界があるということを確信しておくことも意味がある。しかし、そういうことが分かったらもう十分であって、それ以上の好奇心を持ってはならない。

いい女 (いい男) がいれば、気になってチラチラ見てしまう。そしたら向こうも「見てるな」って見てくる。ここに付け込まれるスキが生じるのである。普通に暮らしていて、ヤクザと関わりを持つなどまずない。関係ができてしまうのは、興味の目を向けているからである。熱い視線を注いでいるからである。

興味を持たなければ憑依されることなどないのだ。

それでも過去の因縁によって、霊に目をつけられることはある。

父が12歳で亡くなって、ぼくの思春期は墓に出向く機会が多かった。「墓はこわい」「霊はこわい」と吹き込んでくる宗教家がいて、それもあってか墓に行く度に背中に何かがリアルに乗っかってきて苦しかった。墓に行くのがイヤでイヤでたまらなかったが、旧家の長男として生まれた都合上、行かないわけにもいかない。ある日、「霊なんて相手にするからだ! こんなもの取るに足らん!」と開き直ったら、もう来なくなった。高校生のころだった。

治療をする (鍼をする) と気が奪われるとか、病気 (病霊) をもらうとかいう治療家がいると聞くが、ぼくはそういう経験がまったくない。墓の経験で断ち切ったのだろう。むしろ、治療をすると元気をもらっていると思う。もちろん、患者さんからもらっているなんてことは断じてないのでご安心を (笑) 。たぶん、大自然からもらっているのであろう。仕事をしている方が体調もいい。だから仕事が好きである。

墓でオンブお化けは来なくなったが、それだけでは済まない。

飛鳥時代から続く総本家の長男として生まれ、その累世相応に、僕は幼い頃からいろんな霊に悩まされてきたと思う。霊は僕のことを怖がっていて、今のうちになんとか殺そうとしているようである。何度か、殺されそうになったこともある。しかし、最近は手出しができないので、遠巻きに伺っている感がある。

霊がいけないことをしたら叱るような気持ちで向き合うが、根底には「殺したければ殺しなよ」みたいな、温かい気持ちで向き合っているように思う。

こっちの魂がほんの少しでも強くなれば、低級霊はこわくて寄りつけなくなる。

強くなる。それは人格の高さ (魂の輝き) と直結する。

強さとは何か。

話題を変えて考えてみよう。

霊は憑依して、普通なら知り得ないことを明示したり予言したりすることがある。

これをどう見るか。

人間には、その人に見合った人徳というものがある。人徳は、高い人から低い人まで非常な差がある。それがこの世というものである。玉石混交とはこのことである。

高い人徳であれば、それに見合った高級霊が懸かる。
まだそこまで至らぬ人徳であれば、それに見合ったB級以下の霊が憑かる。

高級霊は近欲 (ちかよく) を刺激するようなことは言わない。長い目で見て必要なことを暗示する。だから、一見どういう意味か分からないこともある。

低級霊はその逆である。分かりやすいのである。気を引いてくる。それは近欲に関することしか言わないからである。いや、近い未来のことしか分からない。遠い先のことまで達観できない。だから分かりやすく、とっつきやすく、興味をそそられるが、その人を成長させる力は持たない。達観できていないので迷わせるだけである。よって関わり合っても意味がない。いやむしろ、長期で見ると下落・破滅に向かってしまう。

これは、霊でなくとも同じである。

人間も、高い人格者ならば、少し言葉を交わしただけで、だいたい相手の本質を読み取る。そして、的確なアドバイスができる。それは、それだけ人生経験 (苦労) が豊富で、相手のことがよく分かるし、相手の立場になって考えることができるからである。さらに、長い目で見て相手のためになるように仕向けようとする特徴がある。

低い人格者であっても、言葉を交わせば相手のことがわかった気にはなる。しかし、いかんせん苦労や経験が足りないので、相手のことが分かった気にはなるが、浅いところしか分からない。一部しか分からないということは、偏った見方であるということである。一部は当たるかも知れないが、本筋はハズレるのである。

現代社会は、「人格」と「社会的地位」を混同してしまっている場合が多いが、これらは全く別物である。高い人格者が社会的に低い地位に甘んじ、低い人格者が高い地位でふんぞり返っているというのは、普通に見られる。

高い人格者は、低い人格者を成長に導く力を持つ。なぜなら、高い人格者は低い人格者のことが理解できるからである。いっぽう、低い人格者は高い人格者のことを理解できない。これは、小学1年生が高校数学を理解できないのと同じである。高校生は小1の算数が手に取るように分かるので、小1を成長に導く力を持つ。

低級霊の託宣とは、小1が同じ小1に「どうしたら楽して成績を上げられるか」ということを教えているようなものである。

結局、霊が見えようが見えまいが、人格 (霊格) が高いか低いかなのである。
人格 (人徳) を向上させることが全てなのだ。
人の立場に立てる、人の気持が分かる、人の気持ちに寄り添える。
それが「人格」の骨格である。

低い人格者ならば、それに見合ったB級の霊としか感応しない。
高い人格者ならば、それに見合った高級霊と感応する。

これは、高い人格を持った人はそれに見合った力 (能力) を発揮することができる…ということを言ったに過ぎない。霊が見えようが見えまいが、同じことである。

高い人格者とは…。

世界の人々が救われるなら命を惜しまない。

そういう「犠牲心 」をもつ。愛を持つ。これが、ページ上段で問いかけた「強さ」である。それは、低級霊にすらこの身を餌食として差し出すを拒まぬ愛である。

そういう人は、まず品位がある。人を憎まない。悪口を言わない。他人に一歩を譲る度量を持っている。さらに、世の中を食ってかかっている。世界を我がものとしている。当然、それに見合った高級霊と感応する。それが高級霊であるか、低級霊であるかの鑑別には、その言動に「美しさ」「品位」があるかないか、これが指標となるだろう。

低級霊は下品である。悪口・陰口にとどまらず、さらに人を嫌い呪うがごとき人格者であるならば、それは低級霊に向けて撒き餌をしているようなものである。そういう人格者がなんらかの能力を有していたとしても、低級霊のなせる技である。興味を持ってはならない。

低級霊にもいろいろあって、獰猛残酷なものあり、邪智陰湿なものあり、あるいは多芸多能で一見優れた学者や技術者のように見えて世を呪い人を陥れるものもある。いくら多芸で学術に長けていようとも、その本性は邪霊であることがあるのだ。そういう霊は、低い人格者としか感応しないのであるから、われわれ医療者は心してその弊に陥らないようにしなければならない。

導かれる側は、低級霊と関わってはならない。
凡人による霊能力 (特殊能力) を信じてはならない。

ただし、人を侮ってはならない。怪人二十面相ではないが、高級霊は幾相にも身を変じ、社会の下層にまで身を投じて、救いの手を差し伸べたり、試したりすることがある。これは、光明皇后の施浴伝説が適例である。あるときは悪人に、あるときは低級霊に、あるときは病人に乞食にと身を変じるのである。見た目がどんなに卑しくとも、どんな高級霊が化けているか分からないのである。

高級霊のやることは、人間には見抜けない。特殊能力としての「見える」「分かる」ということがあったとしても、それが「正しい」とは言い切れない。人間の分際として何事も「言い切る」などということはあり得ないのである。

鍼の運用は、特殊能力である。

鍼をする人は苦労が多ければ多いほどよい。病気を乗り越えた経験も、つらいものであればあるほどよい。患者さんの気持ちが分かるからである。すべては世を益するために必要なプロセスであるという意識を持つといい。ただし、たかだか知れた百年足らずの一人の一生で、あらゆる病人の気持ちが分かるほど様々な経験をするのは物理的に無理である。だから、勉強するのである。勉強によって、あらゆる病人の気持ちを疑似体験する。自分の体験を軸にして、「この患者さんは、きっとこんなふうにつらいのだろう」と推測する力を養う。勉強で、経験できない分を補うのである。

人の気持ちが分かる。そのために勉強する。
人の役に立つ。そのために鍼をする。
そのために、身を切る労苦を厭 (いと) わない。
その「特殊」な志に、特別級の人格が備わる。
その人格にそなわった特殊能力 (高級霊) は、真に人を救う力を持つ。

凡人による低級霊を信じてはならない。
凡人による鍼を信じてはならない。
凡人による医療を信じてはならない。

王道はない。

いかに経験を多く積み、いかに辛散を多く舐め、いかにそれらを生かし、
もって多くの人の立場に立てるか、多くの人の気持ちがわかるか、多くの人の身代わりになれるか。

真の特殊能力とは、そんな地道な積み重ねによってしか得られない。
それは霊であろうがなかろうが、なんら変わらない。

霊と関わろうと焦っても、なんのメリットもない。

真の特殊能力 (霊力) とは、そんな色気が露ほどもない人に舞い降りるものである。

 

 

テキストのコピーはできません。
タイトルとURLをコピーしました