見た目と中身… 究極の「人目」を気にする

上先生、こんばんは。いつも為になるお話をありがとうございます。

私は尿に細かい泡が出る事があり、病院では気にしないでいいと言われました。上先生の記事を読んで、間食をやめ腹八分目にしてみました。すると泡は減ったのですが155センチ39キロが37キロに減ってしまいました。心配なので沢山食べると、また泡が出ます。

体重が減ったとしても 間食しない腹八分目の生活を続けたら良い状況に持っていけるのでしょうか。 (2021/09/21)

そのとおりです。痩せるということは、ボディーを軽くして弱ったエンジンを助けている状態です。泡が出るということ自体、体が持て余しているということですね。 エンジンが回復したら、ボディーを大きくしても負担にならないので、体重はV字回復していきます。僕の臨床ではよく見かける光景です。

もう少し詳しく説明します。

たとえば軽自動車のエンジンで、大きなトラックを動かすと、負担がかかります。体が正常な働きを始めると、トラックのボディーを小さく軽くします。つまり痩せる。すると楽に動けるようになり、エンジンへの負担がなくなります。細くなってみっともないが、体は軽くなって楽になったという声が聞かれます。

楽な状態が続くと、車の場合はエンジンが大きくなることはありませんが、人間の場合はこれが大きくなります。つまり、エンジンの大きさに釣り合うように、ボディーも大きくなっていく、肉付きが良くなっていくというわけです。

ほかに、右脇腹背中に痛みがあります。右手小指下の手のひらも痛みがあります。やはり腹八分目で改善していけるでしょうか? 甘い物を食べ過ぎたのだと自分では思っています。 (2021/09/22)

まずはこのへんから読んでみて下さい。

また、右手小指下の手のひらは、ツボでいうと少府です。少府は手の少陰心経で、心と関わります。心は心臓であったりメンタルであったりします。

様々な要因はあります。

しかしまずは腹八分目を心がけて、とりあえず前に進むことです。壁にぶつかったらそのときにまた考える。 行きたい大学があったら、この問題集をやってればいい、みたいな単純なことではないですね。 プロ野球選手になりたいから、毎日素振りをやればなれるか、というのも同じです。 でも、まずは目の前のそれから実践し、突破しなければならない。 壁にぶつかった時、その答えを探せばどこかに書いています。僕の投稿はそういうことを意識して書いています。 おっしゃる方向でまずは進むことです。

これまで何年も鎖骨のすぐ下が痛かったのですが、1年程前、父が他界した頃から痛みは中心に移動し胸痛があります、ここ最近息苦しさも感じるようになりました…

43歳155センチ37キロなので、これ以上痩せるのは心配で3食は普通に食べていますが、間食やダラダラ食いは先生の記事を拝見してから無くしました!

息苦しさを感じる様になってからみぞおちが凹んで拍動がぺこぺこと見える様になった気がします。見た目は肋骨も見えてガリガリですがもっと食事を減らすべきなのか…と悩んでしまいます…

元々パニック症だったりした事も関係があるのかも知れませんが、自分でも何に対してなのか分からないのですが常に緊張している…という事が多いです… 自分にちょっと呆れてしまうくらいです。(2023/01/16)

久しぶりにご質問をいただきました。

今回は、「中身」と「見た目」について説明します。
中身が「主」であるとするならば、見た目は「従」です。

主と従は、同じくらい大事なのですが、順番があります。
これは針と糸の関係に例えるとわかりやすいかもしれません。

針が先で、糸は後ですね。そうすれば破れてしまった衣服を修復し、ふたたび役に立つものに仕立て上げることができます。
逆になるとどうでしょうか。糸が先で針が後になる。これは役に立ちません。破れた衣服は破れたままで、修復されることはありません。

針と糸はどちらが大切か。どちらもです。どちらも大切です。しかしどちらを先にするか、優先するかということは、はっきりさせておかないと、うまくいきません。この順番を間違わなければ、針も生きる。糸も生きる。

「見た目」と「中身」の関係も同じです。両方大事です。しかし、順番は中身が先、見た目は後です。この順番を良しとする。そこが腑に落ちたならば、飲食物を味わい美味しくいただく生活…感謝とともにある生活…こそが主であると気がつくのです。

針の後に糸がついていき、シッカリとした衣服が完成するように、
中身の後に見た目がついていき、シッカリとした体が完成するのです。

豊かな心の後に、豊かな体がついていく。

心と体は主従の関係にあります。

心が主、体が従です。

なぜかというと、心を失った体 (死体) には意味がないからです。
しかし、体を失うと心は存在できません。

心と体、どちらも大切です。
しかし順番がある。
この順番さえ間違わなければ、体はきっと生き生きしてくるでしょう。

糸が生き生きと布と布を結びつけ、着類となって人の体を温めるように。

くれぐれも誤解しないでほしいのは、ここでは「見た目」と「中身」の話でのことです。臨床では、体を主とし心を従とする場合も非常に多くあります。多様な状態に合わせる臨機応変こそ真実です。

見た目が気になってしまうのは、誰かの目が気になるからです。
誰かの目を気にするのは悪いことではありません。
なんなら、いっそ究極まで気にしたらいい。
警察の目を気にするから、警察のいないところでルール違反をしてしまうのですね。スピード、出しすぎますよね。

究極の「人目」とは、閻魔様です。
閻魔様の目を気にする。
でも、閻魔様なんていませんね? 僕も見たことない。
それでも、いると信じる。固く信じる。

死に向かって生きる… ゴールラインをこえて走り抜け
死後の世界はない。死後の世界はある。 どちらも信じてるだけ。 あるかないかはどちらでもいい。誰にもわからないので、水掛け論に終わるしかない。そんなことよりも、どちらを信じたほうが健康であるために有利なのか。これなら議論の余地がある。

なぜ信じる?

これは、正しい生き方をしようとする「本来の自分」、それを見つめる、向き合うということと同じだからです。
自分自身の眼識 (善悪を見わける眼力) による視線を気にし、それに従い生きる。
それに等しいのです。

厳しい厳しい閻魔様は、じつはやさしいやさしいお地蔵様です。知ってました?
厳しくて優しい、自分自身を親身になって守り、導いてくれる。
それが、みんながそれぞれに持っている「眼識」です。
それに従う。

ここに成長が伴わないはずがありません。

たった1ミリ成長しつづける植物の、生き生きした姿を見てください。

千年の時を刻む大樹であろうが、今日芽吹いた双葉であろうが。

完璧などない。両者とも、目下成長中。

その生き生きした姿こそ、我々が求めてやまない「健康」なのです。

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