経絡とは、「経」と「絡」とからなる。
「経」とは、経脈・経別・経筋のことである。
「絡」とは、絡脈のことである。
しかし、経 (タテ) は分かりやすいが、絡 (ヨコ) は分かりづらい。
機織りの光景をご存知だろうか。まず経糸 (たていと) をキチンと揃えてピンと張る。それを基準にして、緯糸 (よこいと) を通し絡め結びつけていく。こうして命を温める着類が生まれるのだ。緯糸が模様を決めるので、これを通す作業は非常に複雑である。経糸のような整然と決められたものではなく、様々な色の糸を、臨機応変に変幻自在に絡めていく。しかもデタラメにではない。織り上がってみれば、みごとな模様が出来上がっているのである。
これは、人の歩む道と同じではないか。真っ直ぐに前を見すえて進みつつも、その時その時の絵を描きこなしていく。
身体もまた、同じようにして命の模様を描くのである。
「絡」の字源
「絡」の字源を調べてみると、糸のような繊細な通路がイメージできる。しかも無数に絡みつき複雑な通路である。
《霊枢・經脉》をひもとく
絡脈とは何だろう。《霊枢・經脉10》に説明がある。
經脉十二者.伏行分肉之間.深而不見.
其常見者.足太陰過於外踝之上.無所隱故也.
諸脉之浮而常見者.皆絡脉也.
六經絡.手陽明少陽之大絡.起於五指間.上合肘中.
飮酒者.衛氣先行皮膚.先充絡脉.絡脉先盛.故衛氣已平.營氣乃滿.而經脉大盛.
脉之卒然動者.皆邪氣居之.留於本末.
不動則熱.不堅則陷且空.不與衆同.是以知其何脉之動也.…經脉者.常不可見也.其虚實也.以氣口知之.脉之見者.皆絡脉也.…
諸絡脉.皆不能經大節之間.必行絶道而出入.復合於皮中.其會皆見於外.
《霊枢・經脉10》
經脉十二者.伏行分肉之間.深而不見.
経脈十二なるものは、分肉の間を伏行し、深くして見えず。
>> 十二経脈は肉の間に埋もれ、深いところにあるので外からは見えない。
其常見者.足※太陰過於外踝之上.無所隱故也.
その常に見ゆるものは、手太陰の外踝の上を過ぐ。隠すところ無きゆえなり。
>> 外から見えるとすれば、手首の撓骨動脈のあたりだけである。これだけは露見している。
※足は手の誤写であるというのが定説である。文脈からもそれが言える。
【私見】かなり比喩的な表現である。気口 (撓骨動脈・太陰肺経の太渕付近) の脈診は、五臓六腑・十二経脈の虚実を知ることができるが、それを「見」と表現している。経脈は物質ではないので目には見えない。ただし撓骨動脈を診ることによってのみ「見える」ということの比喩的表現である。
諸脉之浮而常見者.皆絡脉也.
諸脈の浮にして常に見ゆるものは、みな絡脈なり。
>> このように経脈は目に見えないが、絡脈だけは浮いて浅いところにあるので目に見える。
【私見】これも比喩表現である。経脈で「 (虚実が) 見える」のは気口の脈だけである。それ以外でも皮下静脈のように体表に脈は網羅されているのが見られるが、こんなふうに「浅いところに浮いて網の目のようになっているもの」が絡脈である。くれぐれも気をつけたいのは、すべてたとえであるということである。 経絡って何だろう で展開したように、経絡 (脈) はそもそも目に見えない。絡脈とは皮下静脈や皮下の毛細血管のことを言うのではなく、浮いて網の目のように機能する「脈」のことを絡脈というのである。後述するが、絡脈が「見える」ということについて《霊枢》は、酒を飲んだときに赤くなる…という現象で比喩的に説明している。
ここまで、まずは絡脈の定義を歌っている。
六經絡.手陽明少陽之大絡.起於五指間.上合肘中.
六経絡、手陽明少陽之大絡、五指の間に起こり、上って肘中に合す。
>> “經脉爲裏.支而横者爲絡.絡之別者爲孫” 《素問・脉度17》
>> “絡有大小,大者曰大絡、小者曰孫絡” 《類経》
>> 経脈の枝別れが絡脈である。絡脈には「大絡」と「孫絡」がある。孫絡とは大絡の枝別れである。
【私見】このセンテンスは、十五絡の位置づけを説明している。しかし、どの成書の解説をみても納得し理解できるものがない。よって私見の意訳を挙げる。
意訳:手の六つの経絡は、たとえば手の陽明と少陽の大絡である偏歴と外関をを中心に見てほしいのだが、手の五本の指の分かれ目に起こっているのである。五本の指は枝のようであり、それをたどると幹のように一本の腕にまとまっているだろう。
大絡とは、経脈から直接別れた太い絡脈のことであり、孫絡とは大絡からさらに枝分かれした細い絡脈のことである。直接別れた太い絡脈 (たとえば十五絡) すべてを大絡ということもあり、そのうち特に太いものを大絡ということもある。ここでの “大絡” は、明らかに十五絡のことを指している。つまり “手陽明少陽之大絡” とは偏歴と外関のことである。
これも比喩表現である。偏歴と外関、これら大絡は、五指の股を起点にしているというのである。さらに手の六経絡すべてが、五指の股から起こると言う。
ためしに外関・偏歴を、そして五本の指を、手の六経絡を意識して同時に見てみる。すると、五本の指が手首で一つに束ねられ、肘に向かっては一本の腕になっているのが分かる。これは、樹木と同じである。たくさんの枝があって、それが一本の幹にまとめられる。こういう様相が人体でもあるだろう? と《霊枢》の著者は言いたいのである。
たくさんの枝とは絡脈のことである。
幹とは経脈のことである。
その枝こそが偏歴や外関などの絡穴である…と、《霊枢》は言いたいのである。手の指を挙げて足の指を挙げないのは、手の指のほうが樹木に似ているからである。
飮酒者.衛氣先行皮膚.先充絡脉.絡脉先盛.
飲酒なるものは、衛気まず皮膚をめぐりまず絡脈を充たす。絡脈まず盛なり。
>> 酒を飲むと皮膚の表面全体がすぐに赤くなるが、これは衛気 (脈外を行き、素早い性質をもつ) がすぐさま皮膚をめぐり、結果として営気 (脈内を行く) が絡脈を満たしたからである。
【私見】前のセンテンスで、十五絡は絡脈に属するということを明確にした上で、ここからは、絡脈全般の概念について詳説している。
酒の歴史は古く、古人は飲酒後の変化を見て絡脈という機能の存在を直感した。全身の皮膚が赤くなるということは、目には見えないが毛細血管のような機能が全身の皮膚に網羅されていることになる。これが絡脈で、細い細いそして全身に網羅される形で存在する。しかしあくまでも「血管という物質」ではなく、「脈という機能」である。
後述するように、脈気は経脈から絡脈への一方通行である。しかし酒気は非常に軽く敏速で、経脈を一瞬で通過し、絡脈に到達するのだろう。そう考えると矛盾しない。
故衛氣已平.營氣乃滿.而經脉大盛.
ゆえに衛気すでに平、営気すなわち満ち、しかして経脈大盛なり。
>> 衛気と営気は陰陽関係にあるので、衛気 (脈外) がまんべんなく均等に行き渡ったということは、営気 (脈内) も絡脈に満ちたということである。営気が絡脈に満ちれば、経脈も盛大になる。
脉之卒然動者.皆邪氣居之.留於本末.
脈の卒然として動くものは、みな邪気これに居り、本末に留まる。
>> 脈が卒然と変動するならば、 (酒気のように突然) 邪気が入って居座り、本 (経脈) と末 (絡脈) に留まったということである。
【私見】 “脉之卒然動” の “脉” とは、経脈のことなのか絡脈のことなのか。前文にもあるように、酒気はまず絡脈を充たし、そののち経脈をみたすのであるから、まず最初に突然変動するのは絡脈である。よってこの “脉” とは絡脈に重きをおいた表現と言える。よって次文も絡脈の動静を述べている。
“本末” とは、幹と枝のことである。
不動則熱 ①.不堅則陷且空 ②.不與衆同 ③.是以知其何脉之動也 ④.…
不動すなわち熱、不堅※すなわち陥にして空、衆※と同じからず。これをもってその何脈の動なるかを知るなり。
※「堅」には「充実する」という意味がある。
※「衆」には「広汎・普遍」という意味がある。
【私見】この文はいろいろな訳が試みられているが、僕にはどれもうまく理解できない。よって、文脈と臨床が見合う形で、理解できる訳を試みたい。
① (酒気のように内に邪気があるのに) 絡脈が変動しない (皮膚が赤くならない) ならば、内熱が蘊郁した状態である。
② (外から外邪が入っても) 絡脈が虚の反応 (充実しない反応) ならば、内陥してすでに絡脈は空虚となった姿 (虚証) である。
③このように、酒気が入れば絡脈が赤くなるという「衆」(誰にでも当てはまる事実) を考察することにより、それとは違ういろいろなパターンを知ることができる。
④表面にあって目に見える絡脈を観察することによって、絡脈と経脈のいずれが病んでいるのかを洞察できるのである。
經脉者.常不可見也.其虚實也.以氣口知之.脉之見者.皆絡脉也.…
経脈は常に見るべからざるなり。その虚実なるや気口をもってこれを知る。脈の見ゆる者は、みな絡脈なり。
>> 経脈は皮膚表面には現れない。よって経脈の虚実は気口の脈診で察知するのみである。脈が皮膚表面に現れ候 (うかが) うことができるのは、みな絡脈である。
【私見】切診における診察は、撓骨動脈による「脈診」と、経穴に触れて行う「切経」とに大別される。《霊枢》では、脈診は経脈を見ており、切経は絡脈を見ている…と説明している。これは次文に記された “其會皆見於外” によって明らかである。
諸絡脉.皆不能經大節之間.必行絶道而出入.復合於皮中.其會皆見於外.
諸絡脈、みな大節之間を経ることあたわず。必ず絶道を行きて出入し、また皮中において合す。その会、みな外に見ゆ。
>> すべての絡脈はみな大関節を通過することができない。途絶えそうな細い間道を通って表面に出たり内に入ったりし、再び皮膚に通じる。よってその「会」 (気血の集まる場所・穴処) はすべて皮膚表面に現れる。
>> “大節,大関節也” “绝道,間道也” 《類経》
【私見】類経では、 “大節は大関節である” としている。しかしこれでは文脈が通らない。
「節」の原義は、幹と枝との間の堅い結節部分のことである。ゆえに、幹を経脈に、枝を絡脈に例えるならば、大節之間に入れないということは、絡脈は経脈には原則的には入れないということである。これが絡脈である。
ただし、肺経の列缺からは絡脈を通って大腸経 (経脈) に入ることができる。この絡脈は特別な絡脈 (特別な枝) であり、これを十五絡と呼ぶのである。十五絡には独自の流注と病証がある。
絡脈と十五絡
樹木と絡脈
絡脈とはどういうものなのか。一般的な説明は、どれを見ても漠然としている。僕なりのやり方でハッキリさせてみよう。
・絡脈は見えている。現れている。
・経脈は見えていない。現れていない。
これを自然の樹木として考えてみよう。鬱蒼と茂った樹木は、葉を無数に並べた葉 (絡脈) に覆われており、幹 (経脈) は見えない。
さらに、上画像のような樹木は、自然の山林においてはそれらが何本も重なり合い、互いに助け合って、一つの森、一つの生態系を作っている。それが下画像である。
この一つの森を、一人の人体だと思えばいい。表面を覆う緑の葉は皮膚である。その奥に、目には見えないが十二経脈という樹木 (幹) が立ち並び、十五絡という横 (枝) の関係で樹木どうしが手をたずさえて森が成立しているのである。
この並んだ樹木を、模式図的に示したのが下図である。肺経と大腸経の関係を例に挙げた。
「天地人」の壮大な構図である。
自然の樹木でいえば、こんな感じである。
冒頭の「絡の字源」を思い出そう。細かく絡みつき結びつく。隣の木と結びついて森を作っているのが分かるだろうか。この結びつきが「特別な枝」である十五絡である。物質的につながっていなくても、機能的につながり結びついていることが分かるだろうか。
近年の研究では、樹木の根には「菌糸」が絡みつき、その菌糸が別々の樹木同志を結びつけ、樹木同志が栄養を分け合って養い合っているということが分かってきた。
たとえばこんな実験がある。
2本の樹木を1つのプランターに植え、真ん中で仕切りをして地中で交流しないようにし、片方の樹木は黒い布を着せて太陽光が当たらないようにし、もう片方はその布を着せない。数ヶ月後、黒い布を着せない樹木は生き生きとしているが、黒い布を着せた方は当然ながら枯れてしまう。
今度は、仕切りを取り払い、他はまったく同じ状況で実験を試みる。すると黒い布を着せない樹木だけでなく、黒い布を着せた樹木まで生き生きして枯れないという結果となる。
これは菌糸が、「布を着せない樹木」の栄養を「布を着せた樹木」に移動させるバイパスのような役目を果たしたからである。隣接する樹木同志は、このような「菌糸」という「横のつながり」が実際にあり、栄養の交換・やり取りをして、命を共有しているのである。
以上が、《霊枢・經脉10》の記載から得られた僕のイメージの世界である。
臓腑経絡の図 をご参考に。
人体と絡脈
これを人体に当てはめてみたい。できるはずである。人体は大自然と相似するからである。
前提として、ここでいう脈 (経脈・絡脈) は血管ではないということはくり返し述べるところであるが、一つの細胞の中にも経脈と絡脈があると考えてほしい。もちろん、細胞の中には血管はない。しかし「脈」はあるのである。もっといえば、一つの細胞の中にも五臓六腑が完備している。
まず、 “大節之間” に注目する。大節之間とは、経脈と絡脈の継ぎ目のことである。この継ぎ目を通って、経脈から絡脈へ脈気が通れる。しかしその逆は脈気 (正気) が通れないのが原則である。樹木が下から上にしか成長しない気の流れと同じである。そういう意味で、絡脈 (孫絡・浮絡) における脈気は皮膚表面へ表面へと一方通行で流れると考えられる。
しかし、脈気 (正気) が弱ると、その一方通行を逆走して外邪が侵入する。奥へ奥へと侵入したとして、再度正気が盛り返してきたとする。すると奥にまで達した邪気が、この一方通行の通りに皮膚表面へ表面ゑと押し返され、押し出される。そういうことができるようにするのが、経穴なのだ。後述するが、経穴はみな絡脈のテリトリーの中に存在する。
《霊枢・経脈10》が言っているように、経脈から絡脈に入った脈気は、表面である皮膚に到達する。すなわち、酒を飲んだときに全身の皮膚がまんべんなく赤くなるが、この赤くなった部分すべて (皮膚のすべて) が絡脈である。だから “絡脈は目に見える” と《霊枢》では言っているのである。樹木が天に向かって細微な枝を密集させるのと同じである。
東洋医学の考え方は、すべて自然のありようを意識している。
特別な枝である十五絡は、たとえば肺経と大腸経 (上図) はもとは一株であることを示しており、これを大自然として見ると、あらゆる生命は地球環境のもとに一株であり、横並びに手をつないで和合するという真理を示している。
前述に、手と樹木の相似関係を示したが、その関係に従うと、指先 (井穴) は天であり、絡脈の極みである。絡脈を刺して出血させることを刺絡と言うが、なぜ井穴が最も有効な刺絡の穴処であるか、理論的に解けたと思う。皮膚の表面にまで邪が浮き、それを取り去る必要があるとき、指先は皮膚全体を象徴し、効果を集約する場所なのだ。皮膚全体に集まった邪気を、井穴一穴で取り去るのである。アトピーに非常に有効である理由がよく分かる。
井穴がなぜ強烈な効き方をするのか、とくに邪熱を取り去る際になぜ有効なのかがよく分かる。邪熱は火のように軽く気球のように浮こうとする性質がある。それを最後にしとめるのが井穴なのだ。井穴は、絡脈を強く意識してよい穴処である。
十五絡で僕がよく用いるのは、列缺・外関・内関・豊隆・蠡溝・公孫である。たとえば列缺は外寒を、豊隆は痰湿を、蠡溝は邪熱を除去する力が強い。これは絡脈の性質と同じである。それに加えて十五絡は、様々な効果を一まとめにする。たとえば虚実錯雑であっても、虚を補いながら実を瀉すことができる等である。列缺であれば、肺経で正気を補いながら大腸経の邪を瀉す。豊隆であれば脾経で正気を補いながら胃経の邪を瀉す等である。他経とのつながりをうまく利用できる。
絡脈と十五絡がどのような関係にあるのか、《霊枢・經脉10》を深く読みすすめると、大きな気付きが得られるのではないだろうか。
諸刺絡脉者.必刺其結上.甚血者.雖無結.急取之.以寫其邪.而出其血.《霊枢・經脉10》
【訳】すべて絡脈を刺すときは、「結」 (いい感じで邪気が集まったところ) を刺すのである。また鬱血しているところがあれば取穴すればいい。これが邪気の瀉し方である。鬱血しているならばその血を取り除くのである。
血というのは深いところにある。鬱血しているというのは、深いところにある血が浅いところに集まったということである。よって、この “血” は邪気と捉えればいい。血を出せばいいというのではなく、邪気が浮いたところを取り去るのである。
「結」を “いい感じで邪気が集まったところ” と訳したが、「結」には「良い意味で結ぶ」という意味がある。いらないものがゴミ袋に詰められ、袋口をギュッと結びつけたような穴処である。こういう穴処では、鍼で大した操作を行わなくとも、スッと刺せばパッと邪気が取れるような反応である。
鍼とはこのように、ねらう穴処を突きさえすれば効くのである。
さらに奥深く感じられるのは、前出の “其會皆見於外” という言葉である。「会」とは経穴のことで、これらは絡脈として皮膚の表面に見ることができる。切経で掴み取る虚実の反応は、絡脈を診ていたのだ。また、これが僕がよく使う言葉、 “生きたツボの反応” をも示す。
このように考えると、経穴とは何かを深く考えさせられる。経脈は見えず、絡脈は見える。つまり経穴は経脈の中に存在するので目に「見えない」のだ。そして経穴から分岐した絡脈が皮膚に向かって枝葉のように分布し、ある程度のエリアをもった皮膚上の反応区域を形成する。この反応区域を我々は指先で探り、経穴として診ているのである。つまり、絡脈を経穴として「見ている」のである。中府からも雲門からも皮膚に向かって浮絡が分岐しているのだ。
つまるところ、絡脈という「うわっつら」によって、経脈 (経穴) ・臓腑という「したっつら」を洞察する。これが体表観察 (脈診以外の) である。望診もそう、切経もそう。体表観察とは、絡脈を診ていたのだ。
陽によって陰を推し量る。
かえすがえすも東洋医学とは、終始この手法で一貫した医学である。
まとめ
経脈はタテである。絡脈はヨコである。
絡脈のイメージを深めれば深めるほど、臨床にだけではなく、人生にも大きな示唆を与えてくれる気がする。
経絡は一つの輪のようにつながっている。
その軸をなす経脈は、一つ一つが独立した、タテ方向の毅然とした「自分」をもっている。
そういう個性あふれる経脈を、絡脈はつなぎとめている。ヨコのつながりである。
まるで、人間個人個人がそれぞれの生き方をタテに貫きながらも、ヨコの隣人と手をつなぎつつ、争いのない社会 (健康な体) にむかって歩むべき姿を見るかのようである。
しかも、タテを貫くことの容易さに比べて、ヨコを強化することの複雑さも、そっくりである。他人と仲良くすることの難しさである。夫や妻 (パートナー) は、もっとも近くにいる他人である。そう考えれば、「絡脈」を理解することがいかに難しいことかが分かるだろう。
そしてそのヨコは、まるで37兆個ともいわれる細胞、その一つ一つがクローンを作れるという「自分」をもった細胞たちを、余すところなくつなぎとめているのである。
手をつなぐ。これが絡脈である。
この相似関係は偶然ではない。それは当たり前のことだ。
天 (世の中) と人 (人体) とは合一だからである。
十五絡とは、十二経脈の絡穴と、任脈の絡穴 (尾翳) ・督脈の絡穴 (長強) 、それに脾の大絡 (大包) を加えた「15個の穴処から別れる絡脈」のことである。「十四絡」なら十四経でわかるのだが、脾の大絡をいれて「十五絡」とする意味は何か。僕なりの説明をしたい。「四」は四方を意味し、バラバラを意味する。「十」は四方から中央に集まる形である。つまり十四は、バラバラのものを一つにまとめるという意味になる。しかし「四」というバラバラのものに、一つ加えて、より強固にまとめるイメージである「五」にすることにより、さらに一まとまりになる象徴が「十五」である。「五」は天地 (陰陽) が交わるという意味がある。そして、一まとまりになるための「コア」が、四 (木火金水) をまとめる土 (中央) である。土を重視するという考えから、脾の大絡を加えて十五絡としたのではないか。つまり、十五絡によって十二経脈が一つにまとまるのである。そして、それら十五絡の各穴は、後天の元気 (脾の大絡) につながっている。こういう哲学は、臨床的にも学問的にも役に立つと思う。