経絡って何だろう

体の各所には経穴 (ツボ) があります。その経穴をつなぎ合わせたものが経絡です。経穴とは点で、経絡とは点が集まった線ともいえるでしょう。少なくとも2000年前には、その概念が出来上がっています。

その歴史の中で経絡は治療に使われ続け、治療効果という結果を得ながら、確立していったのです。

こういう言葉があります。

学医不知経絡,開口動手便錯.蓋經絡不明,無以識病証之根源,究陰陽之伝変.《扁鵲心書・宋代》

医学を学ぶのに経絡を知らなかったら、口を開けようとして手を動かす、手を動かそうとして口を開ける、というような間違いをやってしまう。証も分からず、陰陽も究めることができない。経絡を知らずに東洋医学で治そうと思っても、まったく的外れになってしまうぞ、というのです。

それほど経絡は大切です。

近代になって、その経絡の実在を可視的に証明しようとする動きがたびたび見られました。しかし、それらはことごとく失敗、経絡というのは空想で、実は存在しない…と考える人もいます。

しかし、それは誤りです。経絡は当然であるごとく存在し、しかも発見されるはずがないものです。

どういうことでしょう。以下に展開します。

経絡は境界

中医学による経絡

経絡を中医学ではどのように説明しているでしょうか。箇条書きでまとめてみます。

●経絡とは経脈と絡脈との総称である。
●経とは径 (道のこと) である。
●経脈は上下・内外に通じ、比較的深部で決まったルートをめぐる。
●絡とは網のことである。
●絡脈は経脈から分かれた枝で細く、縦横に張りめぐらされている。
●経絡は気・血・水穀の精の通り道である。≫水穀の精とは飲食物を消化吸収して得られた栄養分と水のことである。気と血については「東洋医学の気って何だろう」「東洋医学の血って何だろう」をご参考に。
●経絡は全身に分布し、複雑な連絡系統を形成し、人体各組織と密接に関係して、有機整体を形成する。≫有機整体…ある目的のために各部分が密接に結びついて、統一のある全体を形成しているもの 。

さあ、どんな印象を持たれるでしょう。血管に似ていますね。また神経にも似ています。しかし、経絡はそれらとは異なるものです。事実、経穴 (ツボ) は血管や神経に沿っているものではありませんし、血管や神経に刺す目的もありません。

神経という言葉は、東洋医学の心臓が蔵する「神」と、経絡の「経」とを合わせた杉田玄白による造語と言われています。脈管という言葉は経脈・絡脈の「脈」が元になっています。

解剖学的な存在が認められない。そこに抽象的な解説が並んでいても、説得力がないし、意味がよく分かりません。じつは、この解説には前提となるものが欠落しているのです。だから分かりづらいし、疑いの目で見てしまう。

陰陽論からみた経絡

前提となるものとは何か。それは陰陽論です。東洋医学は古代中国で発祥しましたが、古代中国思想は陰陽論が基礎です。その基礎の上に成り立った医学なのです。

陰陽とは何でしょう。
陰陽って何だろう
東洋医学の「気」って何だろう
で、初心者向けに詳しく説明しました。

陰陽を現代風に言い換えれば、機能科学といえるでしょう。いま、我々が科学 (自然科学) と呼んでいるのは、すべて物質科学です。物質の存在が証明できるという前提で成り立つものばかりです。たとえば、砂糖の “白い粉” は物質ですが、“甘さ” は物質ではありません。1gの砂糖は誰が検証しても1gですが、甘さはそれができません。炊きたての御飯を甘いという人も、甘くないという人もいるからです。脳 (物質) と心 (機能) でも同じことが言えます。

後で詳しく説明します。

よって機能科学というものは一般に認識されていません。その秘められた科学が陰陽論なのです。

経絡は物質ではありません。機能なのです。ですから解剖学的に、目で見ようとしても的外れなのです。

精がめぐる

経絡は臓腑とつながっています。経絡は、細く枝分かれした臓腑と言ってもいい。こういうくくりを臓腑経絡と言います。心臓が血管の一部だと考えられるのと似ています。本ブログでの「経絡」は、臓腑経絡というくくりで考えていると思ってください。

この考え方に立つと、臓腑が気血を生むように、経絡も気血を生むということが理解しやすくなります。また臓腑が精を作るように、経絡も水穀の精を作るのです。そして臓腑も経絡も、それらの通り道になっています。

気血のもとは精です。よって経絡という道をめぐるものは (水穀の) 精と言えます。それでは、水穀の精とは何でしょう。そもそも精とは何でしょう。

境界とは

精とは陰陽を生むものである。陰陽を生むものとは境界である。つまり精とは境界である。

訳が分かりませんね。物質的にしか学べない今の世の中なのですから当たり前です。しかしこれは結論です。経絡を理解するための基礎と言ってもいいでしょう。裾野から展開していきます。

上下という陰陽で考えます。上が陽、下が陰です。上下を確定するには基準となる位置が必要ですね。「上」の上には「もっと上」があり、「もっと上」から見たら、さっきの「上」は下になるからです。 (上下の) 基準となるもの、これが (上下の) 境界です。

この境界があって、はじめて上が存在し、下が存在します。基準となる位置 (境界) が、上 (陽) 下 (陰) という概念を生むのですから、境界が陰陽を生むのです。ちなみに、上も下も物質ではありません。こういう視点を東洋医学は重視します。

静と動がつくる生命

こんどは生命という陰陽で考えます。これはどういう陰陽であるかというと、静 (陰) と動 (陽) です。その陰陽を生み出すものが精です。だから精は境界なのです。上下の例と比較して、つじつまが合いますね。動よりも「もっと動」があれば、さっきの動は静になります。

静と動について詳しく説明します。

陰とは静 (静止) 。
陽とは動 (活動) 。

我々の身体は、この陰と陽を、絶え間なく繰り返して、営まれています。たとえば睡眠 (陰) と活動 (陽) です。その陰と陽のハザマにあって、陰と陽を生み出すもの。それが境界であり、精です。経絡は精の通り道となります。

言い換えれば、気 (活動力) は陽であり血 (燃料) は陰であり、これらを生み出すのが水穀の精 (栄養分+水) です。よって、経絡とは水穀の精の通り道であり、気血の通り道であるとも言われるのです。

つきつめていえば、経絡は境界そのものであり、陰陽を生み出す精そのものであり、陰陽気血そのものなのです。

経絡は境界である。臓腑経絡は境界である。

「境界」という概念は、北辰会・藤本蓮風先生が達観による発案です。 詳細は、藤本蓮風著「東洋医学の宇宙」緑書房をご覧になってください。本ブログでの、「臓腑経絡そのものが境界」という考え方は、そのお考えをもとに創案したものです。

境界はめぐる?

結論はすでに述べました。より具体的に展開します。

ここまで、水穀の精を、栄養分+水と説明してきました。また、水穀の精は経絡をめぐっているとしました。しかしこれは物質的に寄り過ぎた表現です。これでは血が流れる血管と大差なく感じてしまいますね。

「臓腑経絡は境界である」こそ陰陽論の考え方です。そこで、もっと陰陽論に寄せて説明します。しかし、経絡が境界だと言われても、そもそも “境界がめぐる” なんて分かりづらいですね。

少し哲学的になります。

動は静があるから動たりえる。

犬が歩いているとします。この動きを認識できるのは、まわりの景色が止まっているからです。すべてが同じように動いているならば、それは動いていることにはなりません。地球も、いまジッと座っているぼくも、高速で宇宙空間を翔っているのです。しかし感覚的には、ぼくも地面も動いていません。

陽 (動) と陰 (静) を生むものは境界である。

 ここでの境界…すなわち動いている犬 (陽) と止まっている景色 (陰) との境界とは、それを見ている「ぼく」という主観です。宇宙で動く地球を眺めている「ぼく」は他の境界、すなわち犬を見ていた時とは違う主観 (動いている地球と静止している宇宙空間を認識する主観) となり、このときは、地球は動いていることになります。

境界は陽動のために存在する。

我々は活動するために生きています。ジッと静止するために生きているのではありません。寝るために生きているのではなく、何かをするために生きているのです。

ただし、寝ないと動けません。活動のためには静止が必要なのです。そういう意味で、陽 (活動) も大事だが、陰 (静止) も同様に大事なのです。重要さは同じだが、主従がちがう。生きるという意味において、陽が主で陰が従なのです。肛門は口のためにあるのであって、口は肛門のためにあるのではありません。陰陽は陽のためにあるのです。

よって、境界 (経絡) も陽 (動) を生むために存在するのです。

陽と陰とを支配する境界は、精であり「真の動」である。

陽動と陰静があるから「犬は歩いている」のです。この歩み…動きこそ経絡が前に動き、めぐりめぐってやまないもの、とする意味なのです。解剖学的に見つけようとする無意味さが分かりますね。

陰陽とは、そしてそれを支配する境界 (経絡) とは、そもそも動くもの、そもそもめぐってやまないものなのです。しかしこれでは難しいので、古代中国人は「気血 (陰陽) のとおり道」「水穀の精のとおり道」とたとえたのです。

よって以下の原則が成り立ちます。陰陽の起源、一源三岐の法則ともいえるものです。冒頭の結論を繰り返し述べ、さらに展開した法則です。

精とは境界であり、陰と陽を生み、それらを動かすために存在する。

ここでは、この法則が経絡にも当てはまるということが言いたい。精は「動になる寸前の静」とも言えます。これから動くぞ!という志を秘めた静です。動の源は静です。精は動を支配する「真の動」とも言えます。

●陰陽の境界…活動と静止 (睡眠) を生み出すもの
●水穀の精 …栄養分+水

経絡の本体であるこの2つが、ここで合致します。前者は機能的な見方、後者は物質的な見方です。両者とも同じものを見つめているのです。

機能と物質

実用と実体

「両者とも同じものを見つめている」と言いました。もう少し簡単な例に落としてみましょう。

もう一度、砂糖を例にします。

これを物質的側面からみると、白い粉です。機能的側面から見ると、甘さです。これが物質と機能の関係です。

アマゾンで原始生活を営む部族に「白い粉」を説明するのは簡単です。写真でも見せれば分かる。これが砂糖だよ、と。しかし、「甘さ」を説明するのは難しい。これは、実際に現地に出向き、なめさせてみないと分かりません。

見てわからないもの。これが実用 (=機能) です。見てわかるもののことを実体 (=物質) と言います。実体がなければ実用は存在せず、実用の無い実体は存在する意味を持ちません。実用にこそ意味があるのです。

白い粉は化学式で表せるでしょう。しかし甘さはそれができません。本当に意味のあるものは目に見えないのです。感じるしかないのです。

砂糖にとって、甘さは「生命」です。

実用を説明する手法

「甘さ」は陰陽で説明できます。

たとえば、お米が「甘い」という人がいます。お米なんか「甘くない」という人もいます。「甘い」を陽とするならば、「甘くない」が陰です。そして、陰 (甘くない) と陽 (甘い) を分ける基準 (陰陽の境界) が必ずあります。先ほど説明した、上・下の関係とそっくりですね。

このように甘さは、機能 (陰陽) のものさしなら、うまくはかることができます。物質のものさしでは、はかることができません。

機能はめぐる

こうした例から分かること。それは、陰陽には境界が必ず存在し、それは非常に流動的で、変幻自在なものであるということです。物質のように固定されたものではありません。

臓腑経絡という境界も、例外ではありません。太い脈も細い脈も、それぞれの陰陽を持っていて、それぞれの陰陽を機能させているのです。それぞれというのは、たとえばt臓腑の陰陽・経脈の陰陽・絡脈の陰陽・孫絡の陰陽・経穴の陰陽・表の陰陽・裏の陰陽などです。変幻自在に陰陽がいくつも存在する。

しかも、これら一つ一つの陰陽は、動いています。そしてそれら一つ一つがお互いに連携し合って、Aの動きからBの動きにCの動きに…と伝えて、大きな一つの陰陽の動き (有機整体) として成り立っているのです。まるで神経のインパルスのように。

環のように廻りめぐって止まないもの…。経絡です。

経穴 (ツボ) とは

陰陽を動かす経穴

経絡の上には経穴 (ツボ) があります。 これが臓腑 (五臓六腑) とつながり、臓腑経絡として、渾然一体となって陰陽を生み出す境界を形成する。そう考えると、ツボも経絡も臓腑でさえも、物質ではないということが分かります。

ツボを解剖学的に見つけようとしても、見つからないのは当然のことです。砂糖を視覚的に分析し、甘さを見つけようとするようなものです。

陰陽を動かす境界 (基準・起点) 、それがツボなのです。

そのように考えると、物質的アプローチでは、本当に効く鍼を打つことは不可能です。機能的アプローチ…。腕のいい鍼灸師は、そういう次元から患者さんを診ています。

東洋医学、とくに鍼灸が、異次元の不思議な雰囲気があるのは、視点を注ぐ次元が異なるからです。 砂糖でお話したように、白い粉を見たり触ったりしているだけでは、その世界には入れません。なめてみないと味は分からないのです。

物質ではなく、「甘さ」に切り込むすべを見出した古代中国人の物凄さに驚嘆せずにはおられません。

ツボの使い方

このような性質の「ツボ」を、かんたんに効くもののように考える風潮があります。慰安としてやる分には口を挟むのを控えます。しかし、治療となると話は別です。

かつて「猫の白内障」と題して記事を載せました。今まで猫を治療したことがない僕が、猫の独特の経絡を感じ取り、経穴 (ツボ) を見定め、治療を行った記録です。手術でしか回復の見込みがないと言われますが、完治しました。あれからちょうど3年を経過しますが、それ以降の治療はなく、いまも正常です。

この記事をご覧になった「ふじ」さんがコメントを寄せられました。ご自身も飼い猫が白内障なので、ツボを教えてほしいと…。

返信した僕のコメントの内容もあわせてご覧ください。ツボとは何か、を考えるうえで参考になるはずです。

まとめ

異次元の通り道

砂糖 (人体) という同じものを見ていても、白い粉としてみる (西洋医学) か、甘さとしてみる (東洋医学) かで、次元が全く異なります。

肉体は物質です。生命は機能です。生命は、物質の物差しでは、はかることができません。機能とは何か、気とは何かを理解することは、生命を癒すことに直結します。

気 (=機能) の通り道である臓腑経絡…。これは教科書をいくら勉強しても、理解できるものではないということが、お分かりいただけるでしょうか。真摯に東洋医学を求め、実践を積んだ人のみが味わえる世界です。それは、砂糖をなめたことのある人のみが、砂糖の味を知ることと同じです。そういう次元の通り道がある。それを通じさせると病気が治る。その事実は、砂糖に「甘さ」が存在するほどに、確実に存在する。

臓腑経絡の図

図の青い部分は、すべて臓腑経絡のラインです。このラインすべてが、陰陽 (生命の静止と活動) を分ける境界としての働きを示しています。血液が流れているわけでも、神経インパルスが検出されるわけでもありません。

通じさせる意味

このラインが通じるということは、陰陽の境界がハッキリするということですので、陰陽は本来の働きができるということになります。陰陽の働きとは、よく活動し、よく眠る…ということ。活動と静止ですね。健康の必須条件です。

もし、このラインが通じないと、陰陽の境界があいまいになる。つまり、陰陽が働きづらくなる。眠りにくいし、動けない。どちらもできない中途半端さ。「痛苦」とは、そういうことです。

薬で数値を下げても、痛み止めで痛みをとめても、陰陽は働きません。むしろ、別のところが痛くなったり、別の病気を引き起こしたりして、生命は陰陽の危機を、我々の意識にむかい、必死に訴えてきます。それが病苦です。

生命の行き場のないつらさ…それを通じさせるために、われわれ東洋医学を奉ずるものが向き合う切り口。

それが経絡なのです。

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