罷極 (ひきょく) という言葉をご存知でしょうか。東洋医学の言葉です。素問が出典ですが、謎が多い概念です。
肝者.罷極之本.魂之居也. <素問・六節藏象論 09>
東洋医学が描く「疲労」とは何か、「罷極」をひもときながら探ってみたいと思います。
字源から見た「罷極」
「罷極」について、字源にさかのぼります。
罷
罒… 网 (あみ) 。網。
能… 賢能。賢く能力がある人。「能」の原義は熊で、「熊」は堅強で力がある。「堅」は賢に通じ、能力がある、の意味になる。
罷… 網で力のあるもの (能) を捕縛して抑え込む。 >> 力を奪う。ぐったり、ダラっとする。疲れる。
網を取り去り、捕縛したものを許す。放免。 >> 罷免。
罷。遣有辠 (罪) 也。从网、能。言有賢能而入网,而貫遣之。《説文解字》
【訳】罪人を解き放つ。网 (あみ)と能とからなる。賢能の人ありて网 に入れ、これを放ちやるを言う。
故君子,賢而能容罷,知而能容愚,博而能容淺,粹而能容雜。《荀子・非相》
【訳】故に君子は、賢にして罷 (賢人を捕縛する) を容認し、知にして愚を容認し,博にして浅を容認し、粹にして雑を容認する。
能。熊属。…能獸堅中,故称賢能。《説文解字》
賢,古文作臤。臤,堅也。《説文解字注》
極
亟…「一+人+一」に「口」と「手」が加わったもの。意味を持つのは「一+人+一」である。
上の「一」… 天。上の極限。
下の「一」… 地。下の極限。
中の「人」… 頭の先から足の先まで、スキマのない状態を示す。
頭から足までスキマなくタルミなく、ピンと張り詰めた状態で立つ。すみやか。差し迫る。
敏疾也。从人从口,从又从二。二,天地也。《説文解字》
極… 「木+亟」。端から端まで渡した棟木。
極は、亟のイメージ + 棟木のイメージ。
棟木とは、横に太く渡された棟木が、上下の重みに撓 (しな) ることなく耐える強さ (堅さ) 。一見平気そうで何も耐えていないように見えるが、もしこの「太さ・強さ・堅さ」がなければポキンと折れる。
極,棟也。《説文解字》
極勝重也。《墨子・経説下》
【訳】極 (棟木) は重さに勝つ。
罷極のイメージ
ここから罷極のいろんな意味が想像できます。
①… 差し迫った緊急事態。緊張状態でピンと張り詰める。
②… 極限状態を取り去る。力が抜け、ダラっとする。弛緩。
③… (疲れで) スキマのない満杯の極限状態。平気な顔をしているが、今にも折れそう。
④… 弛緩「ダラッ」 (ホッとする) と緊張「ピン」という陰陽を支配する。
将軍が「罷極の本」
これは簡単に言うと、「将軍」 (素問・霊蘭祕典論) の一つの性格です。「東洋医学の肝臓って何だろう」で説明したように、将軍はそもそも、責任感があり、怠りなく思慮深く、心優しき勇者です。
肝者.將軍之官.謀慮出焉.<素問・霊蘭祕典論 08>
こういう将軍が、災害という緊急事態に直面したとします。すると、いままで封じてあった体力の貯金を一気に引き出し、それを使って災害対策に当たります。緊張状態、つまり「火事場の馬鹿力」です。火事だ! となったとき、まだ子供が取り残されている、とっさに普段でないような力が出て、救い出すことができる。…この力があるからこそ、我々は「非常時」を乗り切ることができるのです。
しかも将軍はそのあと、どこが痛いとか、大変だったとか、恩着せがましい態度を一切とりません。命がけだったはずなのに、知らぬ顔をしている。「so cool 」なのです。
謀慮で貯金をやりくり
そもそも正気は、先天の気・後天の気が協調して作るのですが、作った正気はその都度使い果たすものではありせん。稼いだだけ使っていると、まさかの時に困りますね。だから貯金をするのです。これを「謀慮」 (素問・霊蘭祕典論) …つまり深い考えをもって仕切るのが将軍です。優秀なフィナンシャルプランナーですね。
肝腎同源ですから、肝腎が協同して行うのですが、やりくりして貯金を作るのは肝で、貯金をしまうのは腎と考えればいいでしょう。貯金とは精のことです。もちろん、お金を稼ぐのは脾です。ここにも太陰 (国土・国民) ・厥陰 (将軍) ・少陰 (君主) の関係がみてとれますね。
この貯金は定期預金のようなもので、先天・後天の気によって作られた正気を、定期契約で封蔵しておくのです。それが3口あったとしましょう。
非常時、火事場の馬鹿力が必要な時、…① とうぜん普通預金だけでは足りませんから、定期の一つを解約して普通預金にし、その場を収めます。…② 定期の正気が一つ減ると、肝はそれに見合う邪気 (問題) を自ら引き受け責を負います。そして何事もなかったような顔をします。…③ 男らしいですね。
オンとオフの切り替え
非常時が過ぎ去れば、脾臓 (国土・国民) が作り続ける正気を、将軍がやりくりして貯め、普通預金を増やし、再び定期契約に戻します。どうやりくりするかというと、他国との無用の戦いを避け、できるだけジッとしています。国力を回復するのが優先か、勇猛果敢に前進するのが優先か、…④ そのバランスをつねに謀慮し続けながら。
このとき、国はどういう状態かというと、非常にリラックスした、ホッととした状態です。将軍は目配りを絶やすことはありませんが、国民は緊張状態から解放されます。そういうオン・オフの切り替えは、将軍の胸一つなのです。
定期預金が作れたら、それまで肝が黙って引き受けてくれていた邪気 (問題) は、消えてなくなります。将軍が休みなく謀慮してまで定期を作り直したい理由は、2口目に手を付けたくないからです。3口目の貯金に手を付け、これが尽きれば寿命となります。
罷極とは
㋐ 罷極とは定期預金を作ったり解約したりする力のことであり、肝は平常時と非常時 (火事場) の波にうまく合わせて、…④
使える正気の量を調整してくれているのです。蔵血作用と似ています。
㋑ それは同時に、差し迫った問題 (馬鹿力を出したこと) を水面下に引き込み、何事もなかったことにする働きでもあります。…②
たった一度の問題で、体が立ち行かなくなるということは、あってはならないことで、それを回避するために、ある程度のスペースをもった「押入れ」のような、一度に引き込む場所をもっています。これで片付けは徐々にできます。
事態の解決が一度にならないよう、調整をはかり、分散してかわしてくれているのです。…④
もし狂った将軍なら
今述べた「火事場の馬鹿力」は、国 (人体という組織) を思う正しい将軍が行った場合で、我々が生きていくうえで、必要なものです。
もし、将軍が狂っていて、自分勝手な人物だとしたら、どうでしょう。
貯金を使って「知らぬ顔」
まず、㋐が狂った場合です。将軍が預金の解約権を乱用して、「火事場の馬鹿力」を行使したらどうなるか。「火事」が終わった後も、預金を使うことをやめません。しかも、火事ではなく、どうでもよいこと (たとえば徹夜マージャンとか) に貯金を使い、定期契約に戻そうとしません。職権乱用です。疲れているのに疲れを感じません。
肝臓の機能は疏泄ですから、これは誤った疏泄 (疏泄太過) ということができます。
とうぜん肝臓は邪気 (問題) をどんどん引っぱり込むことになります。そして知らぬ顔をしているのです。この「知らぬ顔」は、さっきの「so cool」とは違いますね。無責任極まる「知らぬ顔の半兵衛」です。本来であれば、ちゃんと整理して明朗会計にしておかなければなりません。「差し迫った緊急の状態を取り去る。…②」という働き…つまり罷極を悪用し、問題を隠しウヤムヤにしてしまうのです。
押入れに入れて「知らぬ顔」
いい意味で何事もなかった顔をするのか、悪い意味で何事もなかった顔をするのか、この違いは大きいですね。
今度はこれを、㋑で紹介した「押入れ」に例えてみましょう。
押入れは必要です。例えば引っ越ししてきて、荷物で部屋が一杯で、食べる所もない、今夜寝る術ペースもない。引っ越しなんて滅多にしないものですから、ある意味で「緊急事態」です。
こんなとき、とりあえず押入れに荷物を押し込めば、食べることも寝ることもできます。ただし、翌日から少しずつでも押入れから引っ張り出して、片付けていかなければなりません。でも、非常時に応急的に詰め込むために、必要なスペースなのです。これが「火事場の馬鹿力」と重なります。とりあえず押入れに疲労を放り込んで、見えなくするのです。
ところが、この押入れを「悪用」して、非常時でもないのにドンドン詰め込む。…①
これが㋑が狂った場合です。
片付けるのが面倒だからといって何も考えずに放り込む。そして知らぬ顔をしている。…③
たしかに部屋はきれいに片付いて見えます。でもそれは表面的なもので、内実は「開けてびっくり」なのです。しかも永遠に片付かない。目につかないからです。
目につくところはすぐに片付きます。たとえばテーブルの上にゴミが置いてあるとか、自然に片付きますね。しかし押入れは、腐ったものが入っていても、開けさえしなければ部屋はきれいに見えるのです。
押入れは、いつか開かれる時が来ます。「熊」を「网」で捉えていても、「極」の極限に達する時が来るのです。その時、「開けてびっくり」になるのです。棟木は弱ければポキンと折れるイメージでしたね。
ガンや脳梗塞など、発病するまでは症状もなく、水面下で黙々と進行して「青天の霹靂」をみる病気は、こういうことが絡んでいます。肝の治療がとても大切です。
狂った将軍、その他のケース
それと逆の場合もあります。普通預金で日々の生活をしなければならないのに、普通預金がたまらないうちから定期預金を作り、使える預金が足りなくなる。こうなると、体力はあるのに疲れやすくなったり、カゼを引きやすくなったりします。
次に、㋑が狂った場合です。本来の将軍は邪気 (問題) をその身一つに引き受けてくれますが、狂った将軍はそれをしません。男らしくない、So Cool ではないのです。当然、邪気 (問題) は抑止されることなく、必要以上に暴れます。ノミにかまれたようなことが、ライオンにかまれたように、大げさに感じてしまうのです。さしたる疲労ではないのに、症状が大げさで強くなります。
疲労とは
ここまでの説明の中に、疲労とは何かということを散りばめました。邪実と正虚による生命の矛盾、それが疲労の正体です。だだそれが、複雑極まりないために、捉えどころのない概念になっているのです。その複雑さを、ここまで出来るだけ分かりやすく説明したつもりです。
肝・脾・腎すべてが関わることが分かると思います。
複雑極まりなさを、あらためて列挙してみましょう。
自動・精密・複雑… まるでコンピューター
こうした複雑極まりなさは、いかに肝臓が体の調整をきめ細かにやってくれているか… の裏返しでもあります。しかも自動で知らぬ間にやってくれます。
コンピューターといってもいいかもしれません。コンピューターのような複雑な機械が世の中の秩序を維持しているのならば、一朝それが狂うと複雑多岐な現象がおこるであろうことは、容易に想像がつくことです。
ただし、コンピューター (肝魂=将軍) を最終的に支配するのは人間 (心神=君主) です。人間はコンピューターに依存してはいますが、これを作ったのは人間です。心神が主で肝魂は従である。この法則は不可忘だと思います。コンピューター (肝魂) は我々 (心神) にとって、忠実で信頼できる「部下」でなくてはならないのです。