寒いときこそ寒熱をつまびらかに

かなり寒くなりましたね。でも寒くなってもらわねば困るのです。なぜなら薪ストーブが楽しみだから。温かさが違います。炎が揺らぐ見た目もさることながら、芯から温まる。赤外線を放射しているのですね。

火にあたるということは、人類が何万年も前からしてきたことでしょう。やけどしない程度に近づいて用いるならば、体に悪い作用はありません。自然なものです。エアコン・床暖・ホームごたつなどもそれに準じます。寒くないように工夫することの大切さは、みなさんよくご存知だと思います。

だからといって温めるものなら何でもいいということはありません。不自然なものがあるのです。下のリンクはその例です。リンク本文では悪化例を出しています。

加熱 (カイロ) と保温 (重ね着)
間の体温 (深部体温) は、約37℃である。 つまり人間の体は、37℃のお湯がはいったペットボトルの容器のようなものである。たとえば気温が10℃だと、放っておけばやがて37℃のお湯は冷めて、10℃になってしまう。 冷めないようにするにはどうすればいいか。 ペットボトルをタオルでグルグル巻きにするのである。一重で足りなければ二重に、二重で足りなければ三重に巻けばいい。これが服の重ね着である。皮膚から服の表面までの空気の層が厚ければ厚いほど保温性が高くなる。ピチッとした服をいくら重ね着しても、保温性は高くない。

もっと過激なものもあります。

例えば附子・乾姜 (乾燥した生姜) ・蜀椒 (山椒) ・呉茱萸などは、腎や脾胃を強烈に温めます。というか、熱します。寒証においては非常に重要で、大きく回復させる力があります。しかし、熱証には火に油を注ぐこととなり禁忌です。

乾姜 (かんきょう) とは
中医学では、乾燥した生姜のことを「乾姜」と言います。性味は、大辛・大熱で、“辛熱燥烈” と言われます。ひどく冷えに傾いたものを、強い力で元に戻します。ただし、陰虚・実熱には禁忌で、決して万能ではありません。

最近、呉茱萸で胃重感・腹満・便秘が一気に発症した例に出会いました。
もちろん僕が出したものではありません (僕は資格がないので使えません) 。

この患者さんは素体が軽症ではなく、大学病院ですら転院を勧めるレベル (原因不明の痿病;筋肉がなえて動かなくなる病気) なのですが、これがいま、鍼一本で驚異的な回復を見せています。初診からわずか3週間で、一人で入浴できるようになったのです。

ですが、こういう極端なものほど、また良くなりつつある経過中であるほど、少し変につつくとガタガタっと来やすい。

呉茱萸。百度百科より。

呉茱萸は厥陰病レベルの深い熱を取るためのものであると考えています。そのためには陽明の冷えを取って (魔法瓶ではなくして) 、熱が外泄するルートを開く必要がある。その熱が外に向かって移動する過程で、厥陰病ではなくなる。つまり病位が浅い部分に変わるのです。非常に大切な薬です。しかし用いるのは、もちろん診断が必要です。軽症ならさほど気にしなくても影響しませんが、重病になればなるほど明確でキメ細かい診断が必要です。本症例は重病で、痿病です。痿病は肌肉の熱 (陽明腸胃の熱) です。厥陰病ほど深くはない。そして、その陽明の熱が非常に激しいから筋肉が萎えるのです。激しい熱を激しく温めれば、何が起こるかです。本症例では、陽明腸胃を温めたためにもともとある熱を更にひどくし、熱で便が乾かされて硬い大便となり、便がうまく通じないために胃の内容物まで下がらない状態になりました。しかし、これくらいで済んで良かったのです。この腸胃の熱がもし、四肢の陽明肌肉 (筋肉) にまで達してしまったら…。奇跡的に動くようになった手足が、また動かなくなるリスクがあったことを思うと戦慄を禁じえません。僕の知らない間に呉茱萸を用いていることを、問診で聞き出せたことの大きさです。

とにかく八綱です。表裏 (浅深)・寒熱・虚実…。大筋が捉えられていないと間違えます。大筋が捉えられないのは、枝葉末節 (表面的なもの) しか見えていないからです。そして、重病になればなるほど、必ずと言っていいほど、寒熱が錯綜します。寒熱錯綜の場合の僕のやり方は、寒証を温めることはしません。温かいもののみを飲食し、無用の運動や外出を控えてもらいます。つまりカゼ (表寒) の養生ですね。

たとえば、ガンは火熱です。転移は火が燃え広がる姿です。しかも熱いという自覚がありませんね。これをさらに熱すればどうなるか。今ガンがなくとも、そういうことを知らず知らずにやっていると、この先どういう事になっていくか。ロジックで考える必要があります。

寒熱錯雑を治せなければ重病は治せません。その前に、寒熱錯雑を見破れるかどうかです。冬場になると、寒証ばかりに目が行きやすくなります。しかし、寒くなったからと言って寒証になるとは限りません。「証」は、変化する場合と変化しない場合があります。そこを見極めず、安易な一手を打ってはなりません。

寒熱錯雑の出発は表寒裏熱です。つまり魔法瓶 (表面は冷たく中が熱い) のようになっている。

この「表面」しか見えないのは、患者が訴える「冷え」しか聞き取れないからです。患者が発する声 (表面) だけではなく、患者の体が発する内なる声を聞き取る。これが優れた醫者です。「熱い、熱い」とうめく内なる声が聞こえないでしょうか。

いや、患者さんは口には出さないけれど、聞き出すことはではできます。実際、前出の患者さんは、体が冷えてしかたないのに、アイスクリームを好んで食べます。患者さんは体が冷えるということは聞かなくても言ってくれますが、 “アイスクリームが好きなんです” とは聞き出さないと言ってくれません。それでも、時間をかけて丁寧にやれば、聞き出すことはできるのです。

問診も、表面的になったらダメです。ぼくは昔は初診の場合、問診だけで2時間かけました。そのお陰で今はそんなに聞かなくても体を見れば分かるようになりました。その分、説明に時間をかけています。もちろん、問診を丁寧にやってさえいれば分かるようになるのではありません。問診と、切診 (切経) をつなげていくのです。切診 (切経) は、レントゲンや血液検査のようなもので、問診以外から得られる情報です。これがなければ話にもならない。

ツボの診察…正しい弁証のために切経を
ツボは鍼を打ったりお灸をしたりするためだけのものではありません。 弁証 (東洋医学の診断) につかうものです。 ツボの診察のことを切経といいます。つまり、手や足やお腹や背中をなで回し、それぞれりツボの虚実を診て、気血や五臓の異変を察するのです。

体が冷えるのに、アイスは食べたい。この矛盾する状態を、理論的に説明できなければならないのです。

患者さんの声を丁寧に聞く。
それは、患者さんの「体の声」を聞くという最重要事項かつ必須事項を会得するために、不可避のプロセスであると思います。忙しいから聞くヒマがないというのは言い訳です。それじゃ、結局は重病が治せない。楽しくない臨床に「堕落」することになるでしょう。

口から発する声を聞く (問診) から、体の声を聞く (切経) ことができるようになる。
体の声とはレントゲンや血液検査と同じ、西洋医学がこれらを必須とするように、東洋医学にとっても必須。

基本が大事。

八綱が大事。

患者さんに詳しく聞く。
患者さんに手を触れて診る。

患者さんに寄り添うことが大事。

患者さんと一体化することが大事。

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