ストレス ✕ 〇〇 = 幸せ

34歳、男性。

電話があり、仕事帰りに治療に立ち寄る。

「口内炎ができて、また気が上っているのかなって。」

「どれどれ、ああこれか、ホントですね。」

「実は会社でちょっとトラブルがあって…。50歳くらいの女性なんですけど、僕のほうが上司に当たるんですけど、まあ、常から言葉付きのきつい人で…。こないだ、ちょっとした仕事上のトラブルがあって、僕が自分の仕事を止めてその人のサポートをしたら良かったんですけど、そうせずに対処したら何か言い合いみたいになってしまって…。きつい言い方をしてこられたから、僕もつい強い口調でいってしまったのが良くなかったって反省してるんですけど…。」

「なるほど。やりにくい感じですね。」

「こっちから謝ろうとも思うんですけど、そうしたらまた向こうは言いたいことを言ってきそうで、そしたらまた言い合いになるかなって…。」

「うーん、それはどうしようもないなあ。」

「朝、僕は普通に挨拶しても、向こうはあからさまな態度なんです。」

「それは腹立つなあ。」

「今日も僕がいると知らないで、隣の部屋で僕の悪口を大声でしゃべってるんですよ。」

「うーん、きついなあ。」

「それから…」

「うん、ちょっと待って。ちょっと体を診ますね。」

顔面の気色に注目する。中等度に浮いている。怒りに呑まれている状態ではない。
太渕・列缺に注目する。実の反応がない。乗り越えられる壁がない。そう判断する。
太衝に反応がない。これだけのストレスがあるのに、太衝が反応しないのは却って治しにくい。

「……うんうん、これは〇〇さんは悪くないよ。できるだけのことが、ちゃんと出来てる。出来てないのは向こうやな。できてる人同士なら、こめんなさい、こっちこそごめんなさい…ってやれるけど、できてる人とできてない人同士だと、できてる人がしんどい思いをすることになりますね。ただ、〇〇さんはできるだけのことをやってる。だから、これでいいんですよ。そういう意味では、この調子です。この調子でいい。」

「僕としてはできるだけ…」

「うん、ちょっと待って、ちょっと体を診ますね。」

“この調子” という言葉で、体は反応する。それを見逃さない。太衝 (左右とも) が実で反応する。これだけのストレスがあれば、太衝が反応していて当然であり、それが素直な状態である。治す準備が整った。邪が浮いてきたのだ。この太衝の反応を取ればいい。

ただし機械的に取るだけでは、また復活してしまう。

最終の患者さんなので、時間に余裕がある。

話をして、太衝の反応を取ってみよう。

「いま話を聞いていて思うのは、どうしようもないなあってことです。このどうしようもない状況を聞いてて、思い浮かぶのは、ある禅問答があるんです。禅問答ね。どんな禅問答かって言うと… ある人が、虎の巣穴に落ちた。抜け出られない大きな穴である。そこには飢えた巨大な虎がいる。さあどうする。戦っても勝てない。逃げるにも逃げられない。食べられてしまうことは避けようがない。この状況で、救われる道はあるのか。どうですか? どうやったら救われると思う? 禅問答やから、トンチやで。」

「さあ、わからないっすわ。どっちにしても食べられるっすねー。」

「食べられない方法が一つある。それは、食べさせてやる。無駄な戦いを挑み、逃げ回り、もがき苦しみ虎のエサになってしまっては、つらさやぶざまさだけが残ってしまう。そうではなくて、食べさせてやる。飢えた虎の命を救ってやる。そうすることで、愛に生きるという “人間” としての誇りを最後まで貫くことができる。愛と誇り。だからこの人は救われた、と言うことらしいです。」

「はあー。なるほどー。」

反応がいい。これならいける。

「そもそも世の中って “虎の穴” ですよ。理不尽なことがいっぱいある。逃げたくても逃げられない。そもそも生まれた時からそう決まっていて、そういうもんなんです。僕の家って古くてね、たぶん飛鳥時代から続いてる総本家なんです。ぼくはその家の長男で、僕が12歳のときにおやじが亡くなった。おじいさんがいたので良かったんだけど、そのおじいさんも僕が19歳のときになくなった。すると僕が全部しなくちゃならなくなって、おばあさんの世話やら、親戚のことやら、地元の付き合いのことやら、…たかだか19歳で、首長や議員さんが居並ぶ前に立って挨拶もしたなあ。…おばあさんの姉の息子とか兄の嫁のお葬式とかね、そういうのに行って座っとかなきゃならない。知らないでしょ? そんな人。」

「はは、知らないですわ。」

「そんな環境で、そんなこんなで理不尽な目にたくさんあった。親のない子はコケても起こしてもらえない…っていうけど、ちっちゃい頃から心を許していた親世代から相当やられた。でも、そんな中で今までやって来られたのは、 僕をひどい目に合わせた人のために、その人の幸せを “祈る” ってことを覚えたからだと思ってます。すると、奇跡が起こるんですよ。たとえばね、僕が大学在学中、2年間ずっと無償で働いていた鍼灸接骨院があって、そこが経営難になって、アウトローが職業の “そのすじのひと” がコンサルタントとして入ったんですよ。で、その人が僕に無理な要求をしてきたんで、言い合いになったわけ。当時僕は23歳くらい、その人は40すぎで。仕事を終えた帰り道、どこかで殺されるかも知れないと思いながら。」

「へえ…」

「ある日、夜遅くまで口論になって、物別れで帰宅したんです。家に帰ってから、ああ、どうにもならないな…と。で、祈ることにした。その人の幸せを。…で、翌日顔を合わすわけです。向こうはこっちを見向きもしない。僕はツカツカと寄っていって、後ろからその人の肩をポンと叩いて、 “あんま怒らんとってくださいよ” って微笑みながら言った。向こうは少し驚いたような、でも鋭くこっちを見て、そのまま向こうに行った。それから数分後、めっちゃ仲良くなった。自宅マンションまで遊びに行ったくらいです。ずっと一緒に仕事して、楽しかったなあ。」

「へええ…」

「口論のあと帰宅したときは、震えるくらいに腹が立って仕方なかった。でも翌朝、肩をポンと叩いたときは、余裕あったんでしょうね。 “祈り” ってすごいなって実感した瞬間でした。それから今まで何度も “虎の穴” に落ち込みましたが、全部そうやって切り抜けてきました。いっつも奇跡。そうやって救われてきたと思う。」

「僕もやってみますわ! その人の幸せを祈ればいいんですね! 」

祈りって言ってもマネ事ですよ。心底そんなやつのために祈ることなんて出来ない。でも手を合わせて正座して、フィジカルをそういう形に持っていくことはできる。するとね、根気よくやると気持ちもちょっとそっちに引きずられるんです。その “ちょっと” が大きい。 “ちょっと” のことが、気持ちの大きな余裕につながるように思います。」

「わかりました!」

百会に5番鍼。

興奮で冷え上がっていた足が、みるみる温まってゆく。太衝の反応はとっくに消えている。

「どう? ちょっと楽になったのと違う? 」

「いやもう、めっちゃ楽になりました! いま鍼してもらいながら、さっそく祈ってたんですよ。いいことを教えてもらいました。帰ってからもやってみますわ!」

「うん、やってみて。ダメ元で。得にはなっても損にはならないから。」

翌日、電話があって来院。

顔面の気色はいい感じ。脈もほぼ平脈。かつてないいい状態だ。

「で、その後、どう? 」

「調子いいんです! あれから家に帰ってからも祈って、で、今朝、挨拶交わしたときからもう全然相手の雰囲気が違って、これなら行けると思ったから話してみたんですよ。自分もこうやれば良かったって反省してる部分とか、そしたら向こうも謝ってくれて、すごく雰囲気が良くなって、ほんまに楽になりました。いいことを教えてもらって、いい経験ができて、これで自分も一つ徳が積めたかなって。ほんま嬉しいです!」

僕の知らないところでも、当たり前のように「奇跡」が起こったようだ。

ユングの共時性 (シンクロニシティー) は祈りで誘発できるのだろうか。

「そうかー… よかっったなあ。… で、口内炎は?」

「え? 口内炎… ああ、忘れてました (笑) 」

テキストのコピーはできません。
タイトルとURLをコピーしました