心房細動…依存と養生そして治療

東洋医学は原因療法 (対症療法ではない) である。
それは、どんな場合にでもそうあるべきである。
たとえ心臓発作であっても。

もちろん心臓は「死ぬ恐れ」がある。

「死ぬ恐れ」がリアルな時は原因などどうでもよく、目下の急務は西洋医学 (対症療法) で死を回避することである。
しかし回避した後は、原因を改善すべきであることを忘れてはならない。それを忘れるから、「死ぬ恐れ」がいつまでも付きまとうのである。

原因療法だけが正しいのではなく、対症療法だけが正しいのではない。仲の悪い夫婦と同じで、「オレ (ワタシ) だけが正しい」という考え方がとても幼稚なものであり、医療もそれが原因で「治せていない」という現実を直視すべきである。

67歳。女性。2025/10/26初診。

50歳 不整脈
60歳 心房細動と診断。薬服用。
62歳 アブレーション手術。左心房の肺静脈を焼いて異常な電気信号を消す。
64歳 アブレーション手術 (2回目)。まもなく右顔面けいれんを発症、現在に至る。
現在67歳。その後も心房細動は1ヶ月に1回起こる。発作時は薬 (ピルジカイニド50㎎) を服用。
軽い動悸 (1度だけドクン) は毎日 (1日1回) ある。朝に布団の中で起こることが多い。

10/26 初診である。心臓の反応が第2肋間に達している。心臓に異変があると診断する。
10/31 29日に心房細動発作 (19時) 。薬服用。原因はその日の午前中に衣装替えで無理した事であると診断 (豊隆の反応) 。
12/6  毎日あった動悸 (1度だけドクン) がなくなってきた。調子いい。
12/30  27日に心房細動発作 (3時) 。薬服用。いつもは服用後、おさまるのに2時間かかるが、30分でおさまった。脈が乱れていてもしんどくなかった。子供のことを話し涙される。泣いてスッキリした。
1/30 26日に軽い不整脈 (朝食後すぐ) 。不安だったので薬服用。朝食はパン・卵・コーヒー、食べすぎた。
2/17 15日に心房細動 (朝と夜の2回) 。薬服用 (2回) 。13〜16日まで発熱があったにも関わらず15日は仕事に行った。
3/11 今朝から心房細動 (8時)。薬服用。2時間後おさまる。友人と外食が続いていた。

初診時は心臓に問題があった (僕独特の診察法によって診断) 。
初診時は反応が第2肋間に達していたのである。心臓そのものの異変があることを示す。

そもそも発作というものは、発作時に問題があるのではない。発作を起こしていないときに、ためてためて、そして発作が起きるのである。ためているときに問題がある。しかしその時は自覚がない。地震を発作と考えるとわかりやすいだろう。地震の前の数ヶ月、プレートの軋轢は最高潮に達しているが、何事もない静かな日常ではないか。その軋轢を緩めることができれば、地震は永遠に起こらないのである。

究極の「一病息災」
「一病息災」とは、なにか一つ持病があれば、それを悪くしないように体をいたわるため、結果として健康でいられるという意味です。 しかし、もう少し意味を広げた解釈を試みます。 分かりやすく、地震に例えてみましょう。

普段が大切だということがよく分かる。普段から、生活習慣を改善することが大切なのだ。

当該患者は、10月の初診以来、熱心に治療に通われ、生活習慣に目を向けだしている。第2肋間まで達していた心臓の悪い反応は第6肋間まで後退し、だんだんと落ち着いた日常が送れるようになってきた。

この日 (5/12) 、前回発作 (3/11) から2ヶ月ぶりに発作が起こった。

朝から心房細動。今もしんどい。心臓の悪い反応は第4肋間に達している。ここはボーダーラインで、軽い発作が起こってもおかしくない。

「ずっと大丈夫だったのに、久しぶりで出ちゃったのでショックです。朝食、ちょっと食べすぎたかも知れません。」
「たしかに、朝食後からしんどいということは朝食に問題があったということが考えられますね。どんなものを食べましたか。」
「ご飯と、煮豆と、コロッケ半分と、味噌汁です。その後、笹だんごを食べました。これが多かったかなあ。」
「そうですね、朝からかなりのご馳走だと思います。僕なんか朝は粗末なものですよ。ご飯と味噌汁とお漬物くらいですかね。たまに煮干しとか。」
「あ、それからパン (チーズ入り) を食べました。そのあとイチゴを4つ…。」
「たしかにそれは食べ過ぎですね。」

百会3番、5分置鍼。

第4肋間に達していた反応は、第6肋間まで後退した。これなら大丈夫だろう。

「危険な波打ち際から、いま安全な場所にまで移動させたつもりです。で、今はどうですか?」
「今は落ち着いています。」
「今日はこれで様子見ましょか。」
「 (いつもなら発作後に飲む) 頓服を飲んでないんです。」
「そうですか。」
「飲まなくてもいいでしょうか。」
「そうですね。 (食べ過ぎに気をつけようという) 今の気持ちでいれば、大丈夫でしょう。」

その不安も、頓服を使用せぬままに昼頃には消え去って落ち着いた。

また落ち着いた日常が始まる。その日常に油断が潜み、その隙をついて病邪が生まれる。発作のない日常を油断しなければ、病邪は生まれない。こういう失敗を何度も繰り返しながら、やがて病邪を生まないコツ (習慣) を身に着けていくのである。

そうなれば完治である。

楽に事を済まそうとしてはならない。

それは依存である。

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