東洋医学とは「気の医学」である。気の医学とはどんな医学だろうか。
気とは「機能」である。

機能とは?
車で言えば「スピード」は機能である。 “ちょとそのスピードこの机に置いといて” ということが出来ないのが特徴である。そういうものが機能である。なぜ出来ないか。モノ (物質) ではないからである。モノとは? たとえば車体やガソリン。これらは “ちょっとそのガソリンこの机に置いといて” ということが可能である。
ちょっとその人体、このベッドの上に乗せといて。
モノ扱いにするとこうなる。断っておくが、モノ扱いは必要なケースがある。交通事故で大怪我をしたとき醫者は、「俺が骨を接いでやる。皮膚も縫ってやる。お前はここに黙って寝てろ。」とやる。強制的にやるのである。それで命は救われる。
だが、どんな場合にも「お前は黙って寝てろ」はダメだ。モノ扱いしてはならない、その場合はモノとして見ては治らない。人間として見なければならない。そんな患者さんはあふれかえるほどいる。つまり「人間臭い病気」である。現代病は皆これが関わる。夫と喧嘩したとか、お菓子を食べすぎちゃったとか、夜遅くまで動画を見たとか、そういう人間臭さが原因となる病気が、どれほど多いことか。
たとえば夫婦仲や親子仲が悪いというのは、モノ扱いしたからである。これも立派な病因であり、人間臭さである。夫と全く喋らない、目も合わせないという言う人がいるが、相手を人間として扱うならそんな事はできるはずがない。人間は、モノ扱いを最も嫌う。
相手が人間ならば、モノ扱いしてはならない。

モノ扱いしない医学、それが「気」の医学である。
「気」とは? 先程説明した。機能である。あれ?
なんだかよく分からなくなったぞ。機能といえば、機械にも機能はある。AIも機能だ…。
そうである。気とは機能…という表現では言い尽くせていない。
なにか足りない。
たとえばエビデンスという概念がある。エビデンスは大切、それに異論はない。そもそもエビデンスとは多くの人に当てはまる法則を言う。大多数の人において言えることなのだ。効率的に多数の人を益する。では、少数の人は? それは無視される。
効率的、機械的、機能重視…。
そうだ、それらは「気」の性格ではない。
気とは、温かみがある。手の温もりがある。その温もりは、大多数のみを迎合するものではない。少数派であろうが関係なく、さしのべられる温もりである。病める人、大切な家族、たとえそれらのために大切なこの時間が奪われようとも、それでいい。それが愛だ。温もりだ。
そんな手を差し伸べる手を持つ醫者とは、どんな人だろう。
徳のある人。これを、エビデンス至上主義者の多くは真っ向から否定する。 マジョリティの効率のことしか考えない、人間をアタマカズとしてしか見なくなるのは、「正論者」の陥りがちな落とし穴である。まるで点取り虫。本当の醫者であるならば、大勢の患者さんを抱えつつも、この大切な一人のために我を忘れる。
マイノリティにこそ、救いを差し伸べる。
その愛は、普遍化する。広がる。大勢 (マジョリティ) に波及する。それで矛盾がない。
効率だけを求めてはならないのだ。
そもそも徳を持たない人は醫者とは言えない。「醫は仁術」であるとするならば。
悪口や陰口を好む醫者などもってのほかだ。この時点で人をモノ扱いにしているため、人間を救うことなどできない。短期では救えても、長期的に見れば地獄に引きずり込むだけとなる。効率さえ良ければそういうことも許されると勘違いしているなら一からやり直したほうがいい。知識が豊富、技術が卓越、それしかもたない “So cool” 。…そういうものではない。
モノ扱いではない。人間扱い。
そこには必ず愛がある。
人体を人間として扱う。
それが「気」の医学である。
さしずめ気とは、「患者さんを人間としてみる」という言葉の「人間として」という部分であると言えよう。
人間は「モノ」でありつつも、「気」だからである。
効率化を推し進めつつも、「大切なもの」がそれに飲み込まれてしまわないように守り抜く。
医療全体としては効率化を進めつつ、なお「気の医学」を忘れてはいけない。
温かみのない医学では、人は救われることはないからである。

