冬は閉蔵、これは《素問・四氣調神大論02》の言葉です。 “閉蔵” とは何か、これを深く理解することは、冬を健全に過ごす方法を得るだけでなく、「元気はつらつ」の起点を得ることに等しいと言えます。
つまり、この養生なしに健康は語れない…ということです。
冬三月.此謂閉藏.水冰地坼.無擾乎陽.早臥晩起.必待日光.使志若伏若匿.若有私意.若已有得.去寒就温.無泄皮膚.使氣亟奪.此冬氣之應.養藏之道也.
逆之則傷腎.春爲痿厥.奉生者少.
《素問・四氣調神大論02》
深く閉ざし深く蔵す
冬三月.此謂閉蔵.
冬の三カ月間を閉蔵と言う。
閉蔵というのは、読んで字のごとく「冬眠」「冬ごもり」のことです。春に芽吹いた稲の苗が、夏に成長し、秋に穂を結実させて下へ下へとしなだれ、冬は地中深く沈んでジッと春を待つ。深くしゃがむから春に飛躍ができるのです。春の苦手な人、多いですね。自分自身によく向き合い、冬に発芽してしまってはいないかを注視してみましょう。
水冰地坼.
水は凍って地面を裂く。
特に昔は暖房器具もなく、冬の寒さにどう対処するかは死活に関するものでした。 “地を裂く” という表現はこういうイメージから来るものでしょう。
早く就寝する
無擾乎陽.
陽を乱さないようにせよ。
ここは今も昔もおなじ、冬にヘタに芽吹いてしまうと、陽気を大きく損ないます。陽気とは春に芽吹く力です。春に樹木が芽吹けなかったら、どうなってしまうでしょうか。
早臥晩起、必待日光.
早く就寝して、日が昇るのを待って起床せよ。
早い就寝はとても大事です。《素問》が書かれた昔は、照明器具がありませんでした。ですから午後5時ごろから暗くなり、夜となります。そういう環境下でなおかつ「早く就寝せよ」と言っています。
太陽が昇るのを待って起床せよ…というのは、かならずしも現代に適合しません。昔は衣服も粗末で暖房器具もなく、早朝の暗い間に外に出て農耕をやると、凍った夜露 (霜) が降って頭部や体が冷え切り、強い寒邪に犯される心配があります。現代はそんな時間に農耕をする人はいないし、防寒具が優れているので対策さえ万全であれば大丈夫です。早朝にウォーキングするのであれば、耳あて・マスク・ネックウォーマーはとてもおすすめです。暑くなったら外したりポケットに入れたりできます。
発散するのはまだ早い
使志若伏若匿.若有私意若已有得。
志 (正しい信念) を伏せ隠すかのごとく、かつ自分の意 (正しい知識) を持っていて、すでに悟りを得ているかのごとく…。
>>志と意については、 信は意志 (知識と信念) をご参考に。
発散させるのはまだ早い。のびのびするのは春を待て、ということです。意識の上でも謙虚で控えめを心がけます。しかし、心中深くには期するものがある。
去寒就温.無泄皮膚.使気亟奪.
寒くないよう温かくし、労働しすぎて皮膚から汗を漏らすことのないよう、気を張りすぎたり奪われたりすることのないように…。
寒さに強い体などないと思っていいです。ただし動いていれば温かいので、その体力があれば寒さに強い。というより体が強いのですね。元気に動き回っているから薄着なのであって、薄着だから元気なのではありません。薄着にしているうちに寒さに強くなるなどという考えは《素問》には存在しません。
体を動かして、汗が出てきたなと思ったら、少し休憩してクールダウンするのがいいでしょう。そしてまた始める。もう少しだからといって無理にやり遂げようとすると、腎を傷 (やぶ) ります。コツコツは真理です。砂漠のような土地に苗木を植えたら、翌日はジャングルになっていた…なんてことは、自然の理法に存在しません。少しずつ、少しずつ。
此冬気之応.養蔵之道也.
これが冬に応じたやり方、蔵 (陰) を養う方法である。
「蔵」がたっぷりある。これは燃料がたっぷりあるのと同じです。車も燃料が満タンだとゆったりとした気持ちになれますね。「落ち着きが無い」のは冬の養生 (夜の養生) ができていないからです。
活動の土台
逆之則傷腎.春為痿厥.奉生者少.
これに逆らうと、腎 (陰) をやぶり、春に痿厥などの「立ち上げ」できない病気を起こすのである。生長収蔵のうち、春は「生」の状態であるべきだが、冬に冬らしくできないと「生」を受け取ることが困難になる。
痿厥とは足に力が入らず立てなくなる病気のことです。 “足痿弱不収為痿厥”《張氏医通・巻六》
腎は土台です。土台がないと「砂上の楼閣」になってしまいます。土台を冬の間に作れないと、立ち上がれなくなるのです。
これは痿厥に限らず、さまざまな心身の機能が、春に立ち上がらなくなるということです。春のスタートダッシュがうまく行かなければ、夏にバテバテになります。
まとめにかえて… 一休さんの和歌
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
【訳】正月かざりの門松はあの世に行く通過点の目印のようなもの。めでたいようではあるが、それが本当にめでたいだろうか。
一休さんが詠んだと言われる歌です。
一休さんには、ドクロの飾りのついた杖をついて正月に賑わう町を歩いた…という逸話もあります。
昔の年齢の数え方は「かぞえ」といって、正月が来ると一歳増えます。
正月が来るたびに年を取るのに、それがそんなにめでたいのか?
そういう問いかけです。
それでなくても冬は行事が多いですね。クリスマスもあります。ハロウィンもあります。ダメを押すのが正月です。
もうすぐ正月だから気ぜわしい。掃除も気になって仕方ない。おちつかない。
正月だからご馳走を食べよう。夜更かししよう。いっぱいしたい。
そんな地に足つかない状態を、大きな寒波が襲ってくる。
こうやって、年明けや立春以降に体調を崩す人は少なくありません。
正月だからと言って浮かれていると、普段の生活ではありえないような「心の波風」が立ちます。
一休さんは、「死に一歩近づいたんだぞ」と脅かすことで、その波風 (興奮) を静めようとしたのかもしれません。
そこに段差があるかもしれない。そう警戒し、落ち着いている人は段差でコケません。
段差のことなど考えてもいない。そう油断し、浮かれている人は段差でコケますね。
冬は陰 (おちつき) を養う時期。
興奮はよくありません。
正月に大切な事は、忙しくすることでも、はめを外すことでもありません。
初心に戻ることです。
年の初めの節目に、ういういしい清らかな雰囲気のなかで、今日という日を迎えられた有難さ、不断の努力の決意、それらを再確認する日です。
旧正月は立春前後でした。今の正月は西洋歴に合わせて冬のど真ん中になっています。
冬の養生は「蔵」。
深く深く足元を顧 (かえり) みる。
脚下照顧の季節です。
夜はできるだけ早く床につきます。蛍光灯を持たない古代人は、14時間を超えるこの時期の長い夜を、眠りについては覚醒したことでしょう。床にいながらに目覚めているその時間は、自分と向き合うための豊かな時間であったにちがいありません。そのなかで多くの悟りを得たことでしょう。
食事は控えめな気持ちでいただきます。みだりに間食せず、食事の最初の一口目と最後の一口は、白米をおかず無しでいただき、目を閉じてほのかな甘味を探してみましょう。ありふれた日常のなかには、溢れんばかりの恩恵が秘められていることを悟り、落ち着きを得るにちがいありません。