
下がり続けた腎機能 (eGFR) が急上昇した。鍼灸治療開始から6ヶ月後 (59診目)のことだった。追加オーダーで調べたeGFRcysにいたっては74.1 (60以上で正常) だった。eGFRcrよりもeGFRcysの方が正確と言われるのだが、奈良医大病院 (特定機能病院) が “良い数値なので通院の必要はありません” と指示したほどである。いったん失われた腎機能はもう二度と回復しないと言われる常識から見て、本症例は奇跡の範疇にあると言っていい。
こういう「極端な症例」からは、多くのことが学べる。すなわち、当該患者を含む患者さん全員において僕が追いかけてきた邪気の反応、その意味がようやく解けてきたのである。
よってその反応が示すものを「中期邪気スコア」と呼びたい。以下に詳しく説明する。
数値は悪化、でも改善に向かっていた
そもそも僕は結果を意識しない。結果よりも原因やプロセスが大事なので、今できるだけのことを精一杯やる。本症例でもeGFRのことは気にはしていたが、そんなことよりも気にしていたのは、体が示す反応だった。そういう意識で臨床に向き合ったからこそ得られた学びであると思う。
72歳。女性。2024/10/12初診。
当該患者は帯状疱疹 (頭部から頸部) で当院の初診を受けられ、その夜はよく眠れたという。帯状疱疹は、薬 (アメナリーフ) を服用しつつ程なくして後遺症も残さずに治癒した。その後は脳動脈瘤の悪化防止のために治療を続行された。
「だんだん元気になってきている感じがする」と、経過は良好だったが、2025/1/25 (鍼治療から3ヶ月後) の検査で腎機能の低下が明らかになり、かなり動揺された。「結果など気にしなくていい、今できるだけの努力をしていることにこそ目を向けるべきである」という話を何度もした。
ところが2025/4/4 (鍼治療から6ヶ月後) の検査で、腎機能に異常なしとの数値結果が出たのである。そういう結果になることがわかっていれば、当該患者も取り乱すことはなかっただろうが、世の中そうはいかない。そんな中、僕は一度も取り乱さなかった。もちろん未来の結果に自信があったわけではない。冒頭にも言ったように、僕は結果を気にしない。では何を気にしていたのか。
邪気がどのくらいの大きさ (面積) で出ているかという診察、これに集中していたのである。そして、そのとき感じ取っていた「仮定」」が、見事に的中したのである。いま思えば、数値が悪くなった過程も含めて、理想的な回復をたどっていたのだ。まさに「人間万事塞翁が馬」である。見た目の現象は悪くとも、それは良い前触れであることはいくらでもある。
邪気の移動が意味するもの
この邪気、最初は頭部に出ていた。帯状疱疹がこの部位だったし、脳動脈瘤もこの部位にある。ところが治療経過の中で頭部の邪気は消え、代わりに上腹部 (中脘) に出るようになった。ちょうど数値が悪化する2025/1/25の手前ごろであった。
最初頭部に出ていたのは、生命のもつ治癒力 (正気) が、最優先で整理整頓しなければならないと判断した場所が頭部だったからである…そのように分析した。正気は頭部に集結して整理整頓を行なっていたのだ。
しかし、本来整理整頓しなければならないのは上腹部 (脾=中央) である。脾 (飲食物を人体に作り変える) が、頭部も含めた体全体を作っているからだ。上腹部という本来の持ち場を離れて、頭部に正気が集結したということは、頭部に大量の邪気が蓄積するという緊急事態 (頭部帯状疱疹・脳動脈瘤) が起こったからである。その後、本来の持ち場である上腹部に正気が集結したのは、緊急事態が収まり、本来の「気血生化の源」つまり、人体を作る作用に重点を置いてもよい状況に落ち着いたからである。

人体を「家」にたとえる
一軒の家で例えてみよう。家が片付け物 (ゴミ) で一杯になってしまうのは、まず外から要らないもの (ゴミ) を新たに持ち込んだからである。
その新しいゴミを片付けきれず、とりあえず押し入れに放り込んでおけ…と、過去に押し入れに詰め込んだものを誰でも持っている。詰め込めば、とりあえず部屋は片付いたかに見える。
詰め込めば急性症状は終息する。この押入れのゴミが長期邪気スコアである。いったん収納したこの邪気は、すぐには発動しない。

しかし、ほったらかしにしておくと、いずれ人生の後半で後戻りできないことが起こる。だから体は、この押入れの片付け物を片付けようとするのだ。その方法は言わずと知れている。押入れの中から片付け物を放り出すのである。
だが、そのまま詰め込みっぱなしよくない。だから折を見て、押し入れを開いて片付け物を引っ張り出す。当然の成り行きとして部屋は片付け物でゴチャゴチャになる。そのゴチャゴチャしたものを、「これは要らないから捨てよう、これは取っておこう」とやるのが片付けである。
ただし、その片付けを行うためには条件があって、新しいゴミを生んでいないことである。新しいゴミを生んでいれば、当然押入れの前にある部屋はすでにゴッチャゴチャになっているのであって、そんなゴチャゴチャの部屋にさらに押し入れから出してきたら、片付け物で部屋は埋もれてしまう。つまり、押入れの片付け物を整理整頓するためには、新しいゴミを生んでいない (短期邪気スコアがゼロである) ことが必要条件なのである。
さて、その押し入れから出した片付け物を、整理整頓できているかどうか。
整理が進んでいなければ「部屋の片付け物」が増えていくことになる。ただし「家全体の片付け物」は増えも減りもしていない。
整理が進んでいれば部屋は小綺麗にまとまっているということになる。もちろん体は押し入れからどんどん「これも片付けてね、あれも整理してね」と出してくるので、完全に綺麗になるということはないのだが、この状態こそ、家の整理整頓が進んでいる状態と言えるのである。
家の整理整頓が進んでいる状態が長く続くと、もちろん家のゴミ (要らないもの) はどんどん減ってくる。これは、体がどんどん綺麗になっていくということである。当該患者はこの状態にあったと推察される。だから腎機能が回復するという奇跡が起こった。そう考えるのがセオリーだろう。
中期邪気スコアのみが手がかり
本症例はいい意味で極端な変化 (数値の劇的改善) が起こっている。つまり、邪気が大きく減ったのだ。
だが、邪気を減らすとは難しいことである。なぜなら腎機能は自覚症状には現れない。ましになったとか悪くなったとかという自己申告は、まったく当てにならないのである。体全体としての邪気、これが減っているのか減っていないのか? その指標として、問診は全く役に立たない。
問診だけを頼りにする漢方家がいるならば、ここのところをよく熟考する必要がある。痛い所頼みであったり硬結頼みであったりの鍼灸家も同様である。
切診がそこそこできたとしても、腎機能は難しい。本症例でもそうだ。養生指導をできるだけ守っているので新しい邪気は生んでおらず、短期邪気スコアには反応がない。長期邪気スコアは大雑把で、そこまでの数値化はできない。こんな状態で、どうやって当該患者の病態 (腎機能の推移) を把握せよというのか。もう、患者さん自身の自覚症状は改善されて何もないのである。そんな状態でどうやって僕自身が「治療を続行して良くしよう」という信念が続くだろうか。
そんな中で、僕が唯一の指標としたのは、この「中期邪気スコア」だった。後述するが、これを示す反応が、良いと思われる面積で推移している。それを信じ抜いたのである。そして、数値の結果が出た。この瞬間、信じてきたことが確信となった。だからブログにまとめる気になったのである。
正気はどこを治そうとしたか…数値の変遷からの推測
初診当初は、中期邪気スコアが示す邪気の位置は頭部にあった。この現象は、正気は頭部に集結し、腎臓を含めた「全体」を支配する脾には正気が集結していない…という仮説を立てた。これに従えば、頭部の帯状疱疹や脳動脈瘤を優先的に片付け、腎臓の片付けは二の次になっていた…ということが言える。eGFR (腎機能) が2025/1/25 (鍼治療から3ヶ月後) の検査で激しく低下したのは、これを反映したものであると考えられる。
しかし治療を重ねるにつけ、生活習慣も整うことも相俟って、頭部の片付けは落ち着いた。よって正気は全体を見渡せる中央である脾 (中焦) に集結することができるようになったのである。当然、腎臓にも十分なバックアップを始めた。eGFR (腎機能) が2025/4/4の検査で急回復を見せたのは、これを反映したものであったと思われる。
経過中のカルテを見返してみると、邪気の直径 (あるいは正気の直径) で計測するところの中期邪気スコアは、全て10 (cm) 以下となっている。これが、「押入れの片付けがドンドン進んでいる状態」すなわち、体の邪気がドンドン減っている状態を意味する… という評価となった。その評価の裏付けは、何度も言うが「よい結果」が出たと言うことである。
ガンなどの重症 (初診時) では、中期邪気スコアは50 (cm) に達することもある。
重症を治すには、本当にそうである。ツボではない。病態把握能力である。僕も昔はツボが確定できない診察法は物足りない気がしたものだった。しかし臨床は甘くない。ツボさえわかれば上手くいくと言う人がいたなら、それは軽症しか治せていないと自ら告白するようなものである。
本症例はすべて百会一穴しか鍼をしていない。こういうやり方で治せるのは、なにも特別な能力を使っているからではなく、ただただ病態を把握しようと一生懸命にやっているからだと思う。患者さんに納得していただきたい。そのためには僕自身が納得せねばならないのだ。その努力を惜しまないのであれば、病態を、その趨勢を把握するしかないではないか。それは西洋医学的な病態のみでは不可である。東洋医学的に把握できねばならない。分からねば動かせない。
僕が言う短期邪気スコア・中期邪気スコア・長期邪気スコアは、使いこなせれば非常に便利なものである。ただしこの診察は、そう簡単に運用できるものではない。すべて肉眼で物質的に判別できるものではないからだ。すなわち、感じ取るものである。
これを感じ取るには、肉眼のみに頼ってはならない。喜んでいる人を肉眼のみで評価すると、歪めたその顔を「泣いている」と受け取ってしまう場合だってある。喜んでいるか悲しんでいるかは、肉眼以外の情報…例えばどういう言葉を発したか、状況 (喜びそうか悲しみそうか) はどうかなどの多面的観察が必要となる。気の世界とはそもそもそういうものだ。短い文章だと誤解を生じる。批判したい方はリンクの冒頭文 (さらにそのページ全体) を読んでからにしていただく。
熟練すれば、一瞥しただけで「感じ取る」ことが可能となる。そこまで観察力を磨いてほしい。つまり望聞問切である。特に切診 (切経) 、これを10年以上真剣にやらないと無理だろう。そういう努力をしていない人は勉強不足なので、批判したくて仕方がなくとも、それはおとといにお願いしたい。
この反応の正体は何かをまとめておく。まず、優先して片付けるべき片付け物 (邪気) の存在である。さらに、邪気を片付けるために集結した正気の存在である。すなわち、闘争する邪気と正気である。 片付けものと、それに向き合い奮闘する家主。それが正体である。直径が小さいということは、その奮闘のレベルが小さいということである。
まとめ
邪気を数値化しようという試みは、世間を見渡せば、あるにはある。
ただし、短期・中期・長期の邪気の形態に目をつけ、それを数値化するという試みは、単純に過ぎる数値化よりもはるかに臨床的である。
ここで臨床的だというのは、ただ補助的に役に立つという意味ではない。
臨床で奇跡を起こすほどの「決め手」になるという意味である。
人体で言えば、新しい邪気を作ってしまうことである。この邪気が出来たか出来ていないか、そしてさらに出来た量はいかほどか、これが短期邪気スコアである。この邪気が生まれると、急性症状が起こる。緊急入院になるほどの症状悪化は、多くは短期邪気スコアが急上昇したからである。
こういう新しい邪気を生まないことが大切で、それは家自体にゴミが増えていないことと同じである。ゴミさえ増えなければ、片付けははかどりやすい。次々ゴミが増えていたら、その片付けのみに明け暮れてしまうではないか。