秋の養生… 容平とは

秋は “容平” の季節である。ここでいう秋とは、立秋 (8月7日ごろ) から立冬 (11月7日ごろ) 前日までをいう。

容平とは、一言で言えば「秋の落ち着き」である。
もう少し言えば、「粛正をも認する常心」である。

だが、これを暗記したところで使えない。これを目的地として、なぜそういう意味になるのか、旅を楽しむつもりで道程をたどってみよう。なにごともプロセスが大切である。

以下に、《素問・四氣調神大論02》に示された秋季の過ごし方を訳しながら、 “容平” について考察する。

まずは “容平” についての基礎知識からである。

▶容とは

容は「宀+谷」である。

宀 は蓋 (ふた) である。
谷はくぼみである。

くぼんだスペースに、フタが覆っている。たとえるならば「湯呑み茶碗」と「湯呑みブタ」が一体となったものである。

茶碗にはお茶が入る。中に受け入れるのは「受容」。
フタがされていて中には空間がある。「容量」。
中身であるところのものは「内容」。

茶碗は「容器」である。外から見ると茶碗の表面、つまり「外容」がある。外から見たもの。「容姿」「容貌」「全容」「形容」など。

詳しく説明する。

▶谷とは

谷とはどういうものだろうか。山がある。そこに川が流れる。長い年月をかけて、川が山を削って山が2つに割れ、谷ができる。

人々は好んで谷に住居を求めた。谷は山の勾配に沿っているので、水田をつくれば小川の水を引きやすい。谷川を下って谷の出口に出ると、平野部が広がっている。広大な平野部は大規模な稲作が可能だが、勾配が少ないため大がかりな灌漑工事が必要である。自然に流れてくる天水のみでの小規模かつ原始的な稲作を行うならば、谷が適している。山の中腹の谷に家屋が点在し、棚田 (たなだ) が連なる里山をイメージするといい。

中国では、谷 (コク) は穀 (コク) の書き換え文字としても使われる。たとえば穀物は「谷物」と表記する。命を育む「水」を水田に引き、それが穀物となって「口」に入る。それが谷 (穀) である。

以上のイメージをふまえつつ、「谷」の字源を見ていこう。

谷=「八+八+口」である。

「八八」は、水の流れる様子を示すという説がある。「口」は、谷の出口である。

また「八+八」は、連なった山々「Λ+Λ」が2つにわかれて「ハ+ハ」を示すとも言える。谷を挟んで山が2つに別れるのである。そこには小川が流れて、下流にいたると谷の出口がある。

「八」には、別れるという意味がある。

八.別也.象分別相背之形.《説文解字》

山と山とにはさまれた場所は凹 (くぼ) んでいる。よって谷は、凹地 (くぼち) ・凹み (くぼみ) を意味する。

▶容平

この凹地を大地と見る。そして湯飲み茶碗と見る。
それを上からドーム状に覆うのが天空である。それを湯呑ブタと見る。天空 (宇宙) には果てがあると考えるのである。

つまり、茶碗とフタで大自然だ。こういう考え方は《老子》の “道 (タオ) ” に見られる。

茶碗 (大地) からは生命が芽吹き成長する。生命とは森羅万象である。とくに、谷は穀に通じるので、稲をイメージして良い。

稲が右肩上がりに成長する。秋は、その成長が止まり横ばいになる。これが「平」である。

茶碗とは、大自然のキャパつまり「容量」でもあり、そこに存在する生命一つ一つのキャパでもある。そのキャパは茶碗の「くちべり」の高さである。その高さはその生命にとってのマックスであり、そこで成長が止まる。「くちべり」と生命の高さが揃い、「たいら」となる。「平」にはそういう意味も加味される。

「くちべり」の高さまで満たされた生命力は、とうぜんフタがされている。マックスの生命力は、湯呑み茶碗と湯呑ブタに包まれている。これを籾殻に包まれた米とも見ることができる。実りの秋である。

籾殻のなかにある米は、いったん実が詰まると増えたり減ったりしない (ただし田んぼから貯蔵庫へと場所の移動はある) 。上下のある波線ではなく、横に平らの直線である。これも「平」である。

以上を統合したものが、容平である。

▶急にして明

わかったようでわからないと思う。秋は肺金 (従革) だが、そもそも金性は難しい。金とは何かを理解しておかなければ容平は意味が分からない。だから分からなくて当然である。

さて、いよいよ《素問・四氣調神大論02》を紐解いてみよう。読み進めるにしたがって理解できる。

秋三月.此謂容平.天氣以急.地氣以明.

【訳】秋の3ヶ月、これを容平という。天はすでに寒気 (陰気) が入ってきており、急 (激変) の様相を見せている。そのような陰気のなかで、地はかえって明るくまばゆい。

▶急とは

「急」とは、激変・切迫・迅速・堅緊という意味がある。

▶堅緊

最も意外な意味は「堅緊」であろう。「急」が堅緊であるとは、 “筋急而攣” 《素問・痿論44》のような使い方に見覚えがある。筋が固くなって痙攣する。

寒気 (陰気) は凝固・収斂の性質をもっており、脈証は緊脈である。寒さで縮こまるような「堅さ」がイメージされる。寒=堅である。秋の天空を占拠する寒気 (陰気) は、夏の名残の温かさをもつ大地に「堅い湯呑ブタ」のように覆いかぶさり、急降下しようとする構えを見せている。寒気 (陰気) は重く、下に降る性質がある 。

よって「急」とは「急激な堅い寒気」を意味する。ただし、これはいまだ「天」の話であって、「地」には降りてきていない。

堅さが「地」に影響したとき、つまり天からの急な収斂の作用により、地にある稲穂は堅くなる。人体生命をふくめた万物も、この時期に「堅く」結実するのである。五行で秋は「金」だが、「堅さ」は金性の一片を示す。結実した稲穂の堅さと黄金色は、ともに金性である。結実とは完成である。

▶激変

また、「急」には「激変」という意味がある。これは馴染みがあるだろう。

上下に激しい波の「曲線」の変化である。容平の「平ら」とは真逆である。これらは一見矛盾するようだがそうではない。

稲穂を首根っこで切断して貯蔵庫に運ぶという「急」つまり稲にとっての激変があっても、「容」つまり稲穂のなかにある米の内容は変わらない。

堅い殻は、冬季の倉庫保存に適した形態である。「急」な温度の低下が訪れても、「内容」品質は一定つまり「平」に保たれる。この堅さを、秋に完成させるのである。

完成の秋。激変の秋。

「急 (不安定) 」のなかでも変わらぬ「平 (安定) 」がある。不安定を許容する安定力。

これが容平のイメージである。

▶明とは

急と明は、陰陽である。

“朙,照也” 《説文解字》
明とは、光明。照らす。

「明」は「朙」である。
「朙」は「囧+月」である。
「囧」は窓である。窓の象形文字である。

窓は、本来暗いはずの室内を明るくする。閉ざした雨戸を開くと、まばゆいばかりの光が差し込む。暗いので余計に明るい。トンネルを抜けた時の眩しさである。これは「月」にも同じことが言える。昼の月はただ白く浮ぶのみだが、夜の月は皓々 (こうこう) とまぶしい。そういう光が「明」である。

このようなイメージは、「陽明」という言葉の謎を解くうえで重要である。陽明は腸胃で、腸胃は深く暗いところにある。そこに差し込む光は目がくらむような明るさである。相対性は陰陽論の特徴である。

田園が黄金色に色づき、山林は黄や紅 (くれない) の色に染まる。目に眩しいこれらの景色 () は、急転直下 () の刈入れと落葉の寸前でもある。容平のイメージは「満ち足りた結実」だが、それはたわわに実った果実が首を切り落とされる「粛正」「秋刑 (後述) 」 のプロローグでもある。

秋桜 (コスモス) がひだまりに揺れるのどかさ () には、急激で「堅い束縛」の寒さをともなった気 () が、覆いかぶさるようにそこまで迫ってきている。

そんな様相が “天氣以急.地氣以明” である。

明るいかに見えて、実は暗いのである。秋は夕方と同じ。闇 (冬) の戸張が降ろされる。 シャッターが下ろされる。粛正の刀剣が振り下ろされる。予告もなく「急」に。ガラガラピシャン! はい、終了。

(見た目は) は穏に見えていても…。

しつこく続けてはならない。
油断してはならない。

おだやかな夕暮れ、闇は目の前に迫っている。

朝則爲春.日中爲夏.日入爲秋.夜半爲冬.
<霊枢・順氣一日分爲四時 44>

夕暮れは、秋と相似する。

▶早寝早起き

早臥早起.與雞倶興.

【訳】夜になったら早めに床に就く。朝は鶏の声とともに起きる。

「早臥」とは、夜になったら (暗くなったら) 早く寝る、ということである。秋の日の入がだいたい18時だとするとそれが「夜」の始まりとなる。どの程度早く寝たほうがいいかは自明で、できるだけ早く…ということになる。

それに対して、起床は鶏の声が目安となる。鶏が鳴く第一声は未明で、年間を通じて殆ど変わらず、午前4時くらいであるという実験結果がある。古代、目覚まし時計がない時代、鶏の声はその代わりだったであろうから、何度か鳴いてから目が覚めるとしても、少なくとも5時くらいまでには起床するべきだ…というのが《素問》では説かれる内容だ。秋の日の出が6時ごろだとすると、明るくなるまでにかなり時間がある。夏とそう変わらない時間に起きるという形になる。

正確な時間のことはさておき、未明 (明け方) に起床するべきだ…と言っていることは確かである。これは、秋はまだまだ活動が大切であるという意味を反映する。対照的に冬は、 “必ず日の出を待って起床せよ” といっているので、秋に比べて冬の活動量はかなり減ることになる。

▶心おだやかに

使志安寧.以緩秋刑.收斂神氣.使秋氣平.無外其志.

【訳】志を安寧 (心おだやかであるさま) ならしめ、もって秋刑を緩め、神気を収斂し、秋気を平ならしめ、その志を外泄しないようにする。

秋刑とは、秋の「天気の急」 (前出) である。「急気」と表現したほうがわかりやすいだろうか。

フタが覆いかぶさるということは、これよりも上に行けない、ここからは降るしかないという急転の「刑罰」を意味する。暗くて寒い「獄」 (冬) に向かう下り道の始まりである。

これを認容できない。素直に下向すればいいものを、歯向かってしまう。歯向かえば歯向かうほどに、秋刑のしめつけは「堅緊」となる。秋涼に薄着で歯向かってもカゼを引くだけである。

歯向かってしまう。
焦ってしまう。
急いでしまう。
調子に乗ってしまう。
しつこくやってしまう。

そこにこだわってしまう心の堅さ、がんこさ。

緩める必要があるのはこれ (人の急気) である。秋刑 (天の急気) の方ではない。

緩める方法、それが「志を安寧に保つ」。
つまり安心立命 (安らかな心) ・虚心坦懐 (淡々とした心) である。

秋は日が暮れるのが急に早くなり、気が (せ) くものである。そこを安寧に保つ。その日のうちにやりきろうなどと思わず、日が暮れればそれが一日の終わりと素直に鍬を置き、あきらめ (明らめ) て神気 (こころ) を制御する。秋の「急気」を和らげ、波のないらな状態とする。

火事場の馬鹿力を出さない。

その日のうちにやってしまおう、一度に片付けてしまおう、これが良くない。重いものがあるなら一度に持ち上げず、二つに分けて「八分」の力でやる。これを押して「よいしょ」っとやると “強力 (強いて力む) ”《難経・四十九難》となり、腎を傷 (やぶ) ることになる。つまり、腎が外泄 (外にもれる) してしまうのである。

これでは次の冬 (腎の主管) が立ち行かない。

外泄とは、実りが得られせっかく収穫した米を、冬の蔵にしまわず、秋に播 (ま) いてしまうことである。外泄しようとすると、
・堅い殻 (金性) を突き破れず気滞が起こる (疏泄不及) 。
・突き破って発芽してしまうと生命力が漏れて出てしまう (疏泄太過) 。

播くのは春である。

春やればいい。朝やればいい。

▶まとめ

使肺氣清.此秋氣之應.養收之道也.

【訳】このようにして、肺気を清ならしめる。これが秋気に応じたフィジカル・メンタルの保ち方であり、生長収蔵の「収」を養う方法である。

以上に述べたことが、秋独特のメンタルとフィジカルの持ち方である。秋はメンタルもフィジカルも肺気が主となる。よって肺気が清であるということは、心身ともに清々しいということである。

・早寝早起き
・安らかに、淡々と

これらは、それを強烈にバックアッブする。

逆之則傷肺.冬爲飧泄.奉藏者少.

【訳】これに逆らえば肺を傷 (やぶ) り、冬に飧泄 (ソンセツ・未消化の下痢) のような「外泄」して止まらない病気になる。蔵 (封蔵) を得ることができないからである。

以上、《素問・四氣調神大論02》からの引用である。訳は僕が付け足した。

外泄して止まらない病気とは、封蔵できずに気血が外に漏れてしまう病気である。飧泄 (ソンセツ・未消化の下痢) は、それを代表して分かりやすく言っているに過ぎない。

夏季は気を外泄することが大切であった。これは清々しい発汗である。ところが冬に外泄するのは季節外れなので病気として表現される。夏は葉が外に茂るべき時で、冬は葉を落とし内に保つべき時である。逆になってはいけない。

秋も、 “無外其志” である。気を外泄しようしてはならない。

何事も八分で、出しきらない。「急」…急ぎすぎてはいけない。外容の急変があっても内静を保つ。

落ち着き。落葉。稲穂のしなだれ。落日の充足。

fall (秋・落ちる) である。

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