胆が虚すことを胆気虚怯 (たんききょきょう) という。ぼくが初めてこれを認識 (運用) できたのは、体表観察 (切経) の技術が進んだ10年くらい前のことだった。
インフルエンザにかかってから夜驚症がおこった小学生を治療したときだ。お母さんといっしょでないと寝られなくなった。「怯える」のだから「胆」になにかの反応が出ているはずだ…と診ていくと、左胆兪に虚の反応が大きく出ていた。治療していくと胆兪の反応がだんだんと小さくなり、小さくなるにつれて怯えがましになって行き、ツボの反応が消えるとともに怯えなくなった。
疲れることがあるとツボが少し復活してしまい少し怯えが復活する。鍼をしてツボが消えるとまた元気になる。そうやっているうちに完治した。
野球少年だったが、以前は引っ込み思案なところがあったが、治療に通うようになってから “積極的で勇敢になった” と監督さんからほめられるんです… とお母さんが喜んでおられた。ちなみに胆兪には直接鍼はしていない。
それ以来、他の患者さんでも胆兪は注意して診てきた。だが、そんなにひんぱんに反応が出るわけではなかった。
ところが今年 (2023)、この「胆の病証」が多かった。年明けに持病の類天疱瘡ルイテンポウソウ が出た患者さん (胆の調整でプレドニンを増やすことなく治癒) で気づき、その後も他の患者さんで同様の状態がつぎつぎ見られた。半数とまではいかないが、「胆が弱っているので、強くしていきますね」という説明を聞いた患者さんは多いと思う。秋が深まる頃まで続いただろうか。
▶胆とは
こんな風に、僕の臨床はその年その時期によって捉え方が異なる。患者さんのお体を教科書として読み解いていくと、去シーズンとはまた違うものに変わっていく。それに次々と対応していくのである。イチロー氏が現役のころ、 “バッティングは生き物なので、どんどんフォームも変化していく” と言っておられたことがあったが、治療もまさにそうである。完成形などないのだ。
この変化でうごめく臨床像を、一定のもので制御していく。それが診断力である。どのツボに鍼をうつとか押さえるとかではなく、またどの漢方薬を出すとか何を食べるとかではなく、地盤を一定に支えるのは診断力 (病態把握能力) である。これを少しずつ進歩させることに努めねばならない。
今年、胆の病証を多く診ていく中で、いろんな学びと進歩があった。
大きかったのが陽陵泉である。背候診でうつ伏せになって、胆兪でしか診断できなかった胆気虚怯が、右陽陵泉 (虚) でも診断できることに気づいた。いちいちうつ伏せになってもらわなくても一瞬で診断できるため変化が見やすくなった。
そのおがけでさらに進歩があった。患者さんに胆が弱いことを説明し、胆とは何かを説明しているうちに、陽陵泉の反応が消えてしまうことに気づいたのである。もちろん胆兪も同時に消えることを何度も確認した。
いろいろ説明しているうちに、最終的に一番いい説明方法が確定したのでそれを以下にご紹介する。
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【胆を強くするための説明】
胆 (たん) とは、胆嚢 (たんのう) の胆です。しかし西洋医学で言うところの胆嚢とイコールではありません。東洋医学の言葉はすべて生命のもつ機能の側面側面を表すので、西洋医学の臓器のククリでは考えないんですね。ここをゴッチャにしてしまったのが杉田玄白で、意味の違う言葉なのにその言葉を臓器に当てはめてしまった。それが解体新書です。このせいで、西洋医学が主流となった現在、もともとあった東洋医学の言葉がデタラメのように思われるようになったのですね。
胆の元々の意味は、胆嚢とは少し違います。胆を訓読みにすると “キモ” と読む。キモと読む字は他にもあって、肝臓の肝です。肝の方のキモは、「この話の肝 (キモ) はこの部分だ」みたいに、肝心要 (かんじんかなめ) という意味で使われます。一方、胆の方のキモは、「キモッタマ母さん」「肝が座っている」「あの武将は胆力 (たんりょく) のある人だ」みたいな使われ方をします。
織田信長って人がいますね。この人はもともと尾張の弱い武家さんだったのですが、桶狭間の戦いで勝利し、それを機に一気に天下に号令をかけるような立場に駆け上ります。桶狭間で戦った相手は、今川義元。次に天下を取るのは誰か…という話になると必ず名前が出るほどの実力者です。
その義元が信長の若造をねじ伏せようと、二万の軍勢を引き連れて攻め込んでくる。対する信長軍は数千。ケタがちがいます。誰もが義元の勝利を確信していました。その予想に反して、信長は勝ってしまうんです。それには、信長の秘策がありました。その秘策とは…。
“ねらうは義元ただ一人”
これを部下たちに徹底させます。
今川義元くらいの実力者ともなると、その配下の武将もまた名だたるツワモノが揃っています。昔は一騎打ちを好みましたので、義元配下のツワモノが、
「やあやあ我こそは〇〇なるぞ、いざじんじょうに勝負!」
と言ってきたはずなんです。ところが信長配下の武士たちは、それに相手にならなかったんですね。でないと、それに一々相手になっていたら、数にまさる義元軍にあっさり負けていたと思うんです。で、たぶん逃げた。これってすごいことなんですよ。逃げたら「やい、逃げるか卑怯者!」とそしられてしまう。これは武士にとっては死んだほうがマシなくらいの恥辱です。そこを耐えた。これはね、胆力があるからできることです。
そして、みごと義元にたどり着き、打ち取ります。
すると、たった一人の今川義元を仕留めただけなのに、その配下の数万の武将たちが一気に信長に「ははー!」とひれ伏す。従ってくるんですね。
いま、気になる要素があちこちにある。それらそれぞれに生命力を注ぎ、一つ一つに相手になっていると、生命力が分散されて、どれもうまくいきません。だから、それらに相手にならず、生命力を胆に集中させる。すべて胆に集める。
胆は「決断」を支配します。たとえば部屋を片付ける。これを、捨てようか捨てずにおこうか。悩んでいるうちに一日が終わった。これは胆力がない、キモがすわってないんですね。キモがすわっている人は、 “もう二年も使ってないんだから捨てよう。捨ててもし入りようになったらまた買えばいい” …という決断が早い。つまり、燃費がいいんです。余計なことに生命エネルギーを浪費しない。必要なことを短時間で一つ一つ片付けていく。
凡十一藏.取決於膽也.《素問・六節藏象論09》
【訳】 (胆以外の他のすべての臓腑である) 十一臓は、すべて胆によって「決」を取る。
肩も気になる、腰も気になる、家族も、仕事も、気候変動も…。そうやって生命力を浪費せず、コントロールできる部分に努力を集中し、コントロールできない部分は相手にせず捨ててしまう。それがテキパキできると、生命力の燃費が浮いてきます。その浮いた生命力を、体を治すことに充てることができる。問題を解決することに充てがうことができる。
つまり、胆が強くなれば、気になる要素がすべて「ははー!」って従ってくる。
胆が整えば、的確な意志決定ができるので、やることなすこと何もかもが上手くいく。
もし胆が弱いと、その逆になってしまう。それほど胆というのは大切なんです。病気を治すうえでも、生きていくうえでも、胆を強く持っていくということが不可欠なんですね。
そういう知識を持ってください。ただし、胆を強くするのは僕の仕事です。〇〇さんは無理に自分で胆を強くしようとしなくていいです。そもそも胆が弱いのに、自力で強くするなんてできません。強くなれば自分で強くしていくこともできますがね。だから僕に任してください。ただし、僕が何をしようとしているかは、ちゃんと知っておいてほしい。それを知った上で、僕のことを全力で応援してください。それで十分です。知っておいてくださることで、効果がスッと胆に向かいます。
ほら、こう話をしているだけで、もうすでに胆が強くなりました。ツボの反応が取れた。これでいい。
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と言いながら、鍼を打って、治療終了である。
これで急速に胆が強くなる。その一例が以下のリンクである。
この、幻覚・幻聴におびえる統合失調症の患者さんは、僕の話を聞いているうちに幻が薄れ、鍼を打ってもらい帰るときには完全に消えていた。リンク本文では省略したが、実は上記の話をした上で治療しているのだ。だからスムーズに効いたのである。
胆の弱りが原因で出た症状ならば、統合失調症に限らず、どんな卑近な症状でも同様に緩解が得られる。
胆の怯えを整えてから、その上さらに治療をするのである。よく効くのは当然といえば当然である。
ただし、胆気虚怯であれば必ず「おびえ」「おそれ」が出るかというと、そうとも限らない。おびえがなく、ただ神経質だったり優柔不断だったり自覚がなかったりする場合もある。そういう場合は問診のみでの診断は不可能である。
だからこそ、典型例を丁寧に診ることが必要なのだ。上記の夜驚症は胆気虚怯の典型例である。こういう典型例からツボの特徴を見出す。特徴が分かったら、それを多くの患者さんで長い間かけて検証する。そういう中で、診断力はついてくる。胆気虚怯であるかないかの診断力である。
診断力。
かえすがえすも、病気を治す上で最も重要なものはこれである。
西洋医学であろうが東洋医学であろうが、そこに変わりはない。
診断力を養うことなく、やみくもに症状だけを取ろうとするならば、それは点だけを取ろうとする点取り虫と同じである。
点取り虫の末路は誰もが知るところだろう。