「もしもし、初診のご依頼ですね。高知県からですか。」
受付の電話応対する声が聞こえている。ぼくはせっせと診察中である。
「大丈夫ですよ。遠方からの患者さんは、1日で2〜3回治療をされている方が多いですね。ホテルで宿泊される方もおられますし、そういう形で定期的に来ておられます。…化学物質過敏症ですか。診させていただきますよ。いろんな患者さんが来られていますので。…治るかですか、それは診てみないと分からないです。ええ…はい、…それも診てみないと…そうですね、じっくり考えて、またいつでもお電話くださいね。失礼します。」
迷っておられるのだな。遠方だし無理もない。
ワラをもすがる思いなのだろう。
と、すぐまた電話がなった。
「ああ、さっきの方ですね。…えええっと…ああ…では…しばらくお待ち下さい…。」
カーテン越しに受付さんが待っている気配が。
「ん? どうした。」
「高知からお電話なんですけど、さっきはお母さんだったんですけど、こんどは息子さんからお電話で、先生に質問があるっておっしゃるんですが…。」
数名の患者さんが治療を待ってスタンバイしておられる。分刻みの診療中。
うーーーん。
しかし、すげなく突き返すのも可愛そうだ…。
患者さんに迷惑をかけるが、しかたないな。短時間なら。
「もしもし。お電話変わりました。」
「お忙しいのに申し訳ありません。僕、化学物質過敏症だと診断を受けたものです。お聞きしたいことがあるんですが、先生は化学物質過敏症の患者さんを診たことがありますか。」
「うーーーん。そーですねー。まあ、あります。しかし、これ以上このご質問に答えることはできません。病気は人それぞれです。こういうことは聞いても仕方ないことなんです。遠方なんでね、治るのか治らないのか、確証を得ておきたい気持ちは分かりますが、そんなこと確認しても、結局は「信じる」しかないでしょ? だから無意味なんです。化学物質過敏症はアレルギーの一種ですが、アレルギーという病気がそもそも、免疫細胞が無意味な攻撃をする病気で、こういう無意味なことをやればやるほど、無意味なことを考えれば考えるほど、聞けば聞くほど、病気は治らなくなります。病気を治りにくくする手助けを、僕がするわけ無いですね? だから答えません。治りたいと思うんであれば、まずはいったん僕のことを信じてください。」
無意味なことを考えると、脳で血を消耗する。血とはガソリンのようなもので、治癒力も血が土台となって発動する。血の消耗が止まらない人は、病気が治らない。考えても意味のないことをゴチャゴチャ考える人は、病の渦から抜け出せない。病気を治したければ、素直かつ淡白でなければならない。
「母があまり心配するものですから、じゃあ僕がすると言って電話したんです。あの、もう一つ聞きたいんですが、化学物質過敏症になる前に〇〇したんですが、〇〇が原因で過敏症になったんでしょうか。」
「これは電話でするお話ではなく、初診当日にゆっくりお伺いすべきものです。僕のことを信じてみようと思われるならば、初診のご予約を取ってください。そもそも信じていないのなら此処に来る意味はないです。電話で言えることは以上です。受付に戻しますね。」
結局予約は取られなかった。ぼくが厳しい言い方をしたからではない。質問に丁寧に答えても、こういう人は予約を取らない。取ったとしても治療が続かず、治療が続いたとしても意味のない議論をする羽目になるだけで、治ることはない。
つまり、追い返したのである。
仮に、こういう厳しい言い方をされても、「いや、それでも受診しよう!」と乗り越えられる人ならば、きっと良くなる。
つまり、そこに賭けたのである。
たとえ診療時間中であったとしても、電話なら出るだろう。
そうやって呼び出すということ自体、自分のことしか考えられていない。
そんな気持ちで、どうして「この病んだ体」のことを考えられるだろう。
なぜ病気になったかを考えることは、体という「他人」の気持ちを考えることと同じなのである。
そして、何よりも大切なのは「信じる心」である。この心がなければ、永遠に安心することができない。安心とは「まかせる」ことによってしか生み出されない。世の中に確約できることなどないからだ。今日、対向車線の車がセンターラインをはみ出して僕の車に衝突しないという確約が、はたしてできるだろうか。
命はつねに危険と隣り合わせである。そんな中、安心を得るためにはどうしたら良いのか。
まかせるしかない。運を天にまかせるのである。それがたとえウソであろうと。
まかせている間は安心していられる。信じることによってのみ得られる安心。
この命 (心と体) は、大自然が生み出したものである。母の子宮という臓器は大自然の一部なのだ。そして空気や水などに、生まれてからも養われている。この命は大自然のものであり、大自然という前提の上にある。生かされている。だから大自然にまかせる、それが「安心立命」である。しかし、大自然という漠然としたものに任せるのは難しいことである。だから、まずは実体ある人間にまかせる。信頼できる人だと思う人にまかせる。それがたとえば僕だったとしたら、僕にまかせたらいい。しかし大自然と比べて僕は不完全極まる人間なので、そんな者にずっと任せていたらいずれ裏切られる。だから段階的に、ぼくを離れて大自然にまかせていくのだ。この段階的なものが成長である。此処へ来て、此処で成長する。僕がまかせている大自然というものをいっしょに見てくれたらいい。その成長の過程で、かならず病気は改善していく。成長する草木が生き生きとしているように…。それは裏切られることのない真実である。
安心とは、最高の医療であると言っていい。
あらゆる医療のなかで、一番効くのである。
治る人は、奇跡を起こす人は、これを何処かに持っている。
だからこそ我々医療人は、まかせていただくに値する努力を怠ってはならないのだ。
「先生、この病気を治したことがありますか。」
「先生、この病気って治りますか。」
「先生、この病気が治るのはいつですか。」
この質問に、ぼくは答えない。
その人は、治らない。
この質問は、タブー。
そもそも病気治しとは、ダメ元の覚悟がないとすべきものではない。
これから醫者と患者が協力して、出来るだけの努力をするのである。
「失うものは何もない」「やるだけやってみよう」「やらない理由はない」
ダメで元々、やってみな。
そもそも「生きる」とは、そういうものではないか!
化学物質過敏症など、治るわけがない。どこに行っても治らない。
だから高知からわざわざ奈良まで来ようと思ったのではないのか?
そもそも肩こりですら、治ったら奇跡である。ちがうか?
その奇跡を、これから起こそうというのではないのか ! ?
「いつ大リーグでホームランが打てますか」
「いつプレミアム企業の社長になれますか」
「いつケンブリッジ大学に合格できますか」
「先生、それじゃ奇跡はいつ起こりますか」
そんな愚問に答えられるわけなどない。
奇跡を起こす人は、奇跡をねだったりしない。
治る人は、そんなことしない。
ただ信じて、ただただ任せて。そして今の努力を惜しまない。
こんな僕のことを、だだ好きで頼りに思って、此処まで来てくださるのである。
診察をしている僕という「他人」の邪魔をしていい…そういう人であってはならない。
良くなろうとしている「この体」の邪魔をしていい…そういう人であってはならない。
懸命に奇跡を起こそうとしている僕に奇跡をねだる…そういう人であってはならない。
懸命に奇跡を起こそうとしている体に奇跡をねだる…そういう人であってはならない。
あってほしくないのである。
治る人を、奇跡を起こす人を、数多く診てきた僕が、そう思うのである。
治る人とは「真逆の人」であってほしくないのである。
もちろん、診療時間中であっても僕にしか対応できない重要な内容はある。それはそれ、これはこれ、である。通院中の患者さんまで電話をしたらいけないということではないので、注意していただきたい。