人間は、もともとから悪意を持っているというほどのものではない。
人間と生まれてくるくらいの優れたものであるからには、他人を救おうとする性 (さが) をもっている。幼子が高いところから落ちそうになっていれば、我を忘れて助けようとする。こういうのは誰にでも (泥棒にでも) ある。性善説である。
ゆえに、なんとか他人を傷つけてやろう…と最初から考えるほど悪いものではない。
他人を傷つけるのには、理由がある。
パニクるのである。自分が予想したとおりにならない場面で、思い通りにならない場面で、慌てるのである。頭が真っ白になるともいう。この時、悪人に豹変する。そして敵対し、傷つける。
たとえばクマも、驚くと襲ってくるというではないか。
パニクると凶暴になるのだ。
ここでいう “パニクる” という表現は、パニック障害に見られるものとはまったく別のものである。
そして、極端に豹変する人ほど、パニクっているのに気付かない。頭が真っ白になりすぎて、真っ白になっていることにすら気付けないのである。
どんなことが起こっているのだろう。
女神の性 (さが) ・ 動物の性 (さが)
そもそも人間はみな「女神のような性」と「動物のような性」の両方を持ち合わせている。それが人間というものである。
女神のような性がステージに上っているときは、優しく穏やかで、ずっと一緒にいたくなるような落ち着きがある。
ところが、動物のような性がステージに上ってしまうと、ジコチュウで目障りなほど落ち着きがなく、一緒にいたくないような騒がしさがある。
動物のような性。
もし、この性がなければ、人間は死んでしまう。なぜなら、食べることを止めるからである。食べるということは、己が生きるために他の生命を奪うということである。他人は死のうが痛がろうが、自分の命さえ助かればそれで良い。これが性悪説である。
そして、この性こそが動物そのものである。
ジコチュウと弱肉強食
「動物の性」すなわち、他の生命を奪い貪る気持ちが完全に尽き果てたらば、米一粒食えるものではない。食わなければ、飢えて死んでしまう。動物の性は必要なのである。必要悪である。
持って生まれたその宿命の本質は、ジコチュウである。
さらにいえば、弱肉強食である。弱いものから命を巻き上げる。百獣の王ライオンをイメージするといいだろう。
命をつなぐ最低限をこの性に委ねるのはよい。しかし、その粋を超えてしまうと、美食の欲を満たすために動物を乱殺し、健康の欲を満たすために生肝を吸い取り、弱い者の命を奪って宝石をもぎ取り、頭の鈍い者をだまして金銭を巻き上げる…となる。
強者こそが正義、力の強いものは何をやっても良い。
怠惰・焦り
動物の性は、ジコチュウと弱肉強食だけではない。
動物は “怠惰” である。腹さえ満たされていれば、動物はそれ以上の努力をまったくしない。腹が減って、事が迫った時にはじめて動く。そこまでは、すべてを後回しにしてゴロゴロしている。糞尿も垂れ流しである。残飯も片付けるなどしない。
パニクったときに、どんな事が起こっているのか。
騒がしい。心が騒ぐ。
落ち着かない。あせる。
じつは、これは動物の本性でもある。
普段からコツコツと備えることをしない。怠惰である。
そして、空腹になると焦りだす。パニクるのである。
だから、ことの善し悪しを考えない。食い物と見れば、他人のものであろうが横取りし、窮地に追い込まれれば自分の子ですら殺して食べる。
パニクったときに、動物の性がステージに立つのである。動物の性がむき出しになるのである。
ジコチュウになる。人が傷つこうが病気になろうが死のうが、自分には関係ない。自分の言い分が通ればそれでいい。自分の正当性を認めさせることが、何よりも優先される。自分のほうがつらい。自分のほうが正しい。
そして、弱肉強食にのっとって暴力を振るう。だから、殺す。殴る。犯す。逆ギレする。
無法者となる。
“動物” がステージに立つ
パニクるとき、パニクったと気がつければ何の問題もない。しかし問題の多くは、パニクったことをその時に自覚できない。知らぬ間にパニクるので、知らぬ間にステージを獣 (けだもの) に乗っ取られてしまう。
軽症は、人を傷つけた後になって「いま思えばパニクっていた」と自覚できる。
重症は、その自覚すらなくなる。パニクった覚えもなくなるのである。
パニクったその時に、本人に “いまパニクっている” と自覚ができれば、おのずと制御が働くので問題は生じない。
パニクったその時、本人に自覚できなければ、本人はステージから引きずり降ろされ、変わりに「動物の性」がステージに立つ。本人も認めたくないほどの、傍若無人でジコチュウな行動、弱肉強食 (相手を打ち負かそうとする) の言動が展開される。
“動物” に乗っ取られやすい人
他人の子が、井戸に落ちそうになっていてもパニクらない。
もしくは、我 (われ) を忘れて助けようとする。
自分の子が、井戸に落ちそうになっていればパニクる。
助けようとしない他人を、我 (が) をむき出しにして責める。
後者は、利己心がくすぐるられている。
ジコチュウはパニクるのだ。そしてパニクればジコチュウが更にむき出しになる。
自分の命すら、自分のものではないと考えている人 (運命を天にまかせたと考えている人) は、動じない。利己が虚しいからである。利己心をどの程度制御できるかが、パニクるからパニクらないかを決める。
利己心とは、独占欲であったり、名誉欲であったり、金銭欲であったり、生存欲であったりする。
怠惰の欲も、利己心である。
利己を虚しくする方法とは?
解決策はどこに
日常的に「動物の性」にステージを譲っている人が、「殺す・殴る・犯す・逆ギレする」などの暴力を無くしたい、治したいと願うとする。虐待やDVを治したいと望むとする。
しかし、それを願ったからといって、それが治ることはありえない。
願うのは、そこではない。
パニクらないようになりたい、そこを願うのだ。
では、パニクる原因は何だろう。
パニクるのは、想定できていないことが起こるからである。想定できないというのは、人生経験が未熟だからだ。自分の思いどおりにならなかった時に、それを解決できたならば、それは貴重な経験となる。しかし、その経験がないのである。
思い通りにならない。その最も根源的なものは、命をつなぐために行う食事である。無我夢中で食べる。ここまではいい。食べ終わった後、そこには想定外の光景が映し出されている。片付け物がいっぱいなのである。食べたらライオンみたいにグースカ寝たいのに…。ああ、いやになる。
思い出してほしいのは、前出の、動物の性である “怠惰” である。
今やるべきことを、今かたづける。
その経験が人生において足りない。
だからパニクるのである。
その場その場で片付ける
今やるべきこと、これは人によって様々である。様々ではあるが、もっとも一般的に言えるのは、後片付けである。食器・生ゴミ・家の整理整頓。これを毎日やる。出しては片付け、使っては片付ける。一度にやろうとしない。こんなわずかな片付けなど、やっても意味がないと思えるものほど、意味を持っている。
ただし、人目を気にしてキレイにしているようでは逆効果である。猜疑心 (他人の目を来にする) から、利己心につながる。
自分の目 (女神の目・神様の目) を気にして、キレイにするのである。
物だけではない。人もである。
“ごめん” と “ありがとう” は後片付けである。
話し合いの途中で “もういい!” “どうせ無駄!” は放ったらかしである。怠惰である。
親や子供やパートナーに対する気持ちをも、きちんと片付ける。
自己に対する気持ちをも。きちんと片付ける。
感謝。
反省。
祈り。
毎日片付けるのは効率が悪いと考えてはならない。ゴミをイッパイになるまで放っておくから、イッパイイッパイになるのである。心も同じ、イッパイイッパイになるからパニクるのである。
まとめ
片付けるとは、その物なり、その人なりを大切にしている証しである。
それを大切にすることは、利己を虚しくし利他を強くするトレーニングとなる。
きちんと片付ける。少しずつでいい。
すぐには何も変わらない。1年かかるかもしれない。10年かかるかもしれない。絶望的なほど時間がかかっても何も変わらないかもしれない。
それでもやる。信じてやる。そんな “祈り” にも通じる行動は、やがて落ち着きのある、穏やかな性を作っていくだろう。そこに、動物の性は付け入る隙がない。かわりに御入来いただけるのが女神の性である。
動物の性は、騒がしさである。それは自己中心的で残酷な行為になっていく。
女神の性は、落ち着きである。すべてを愛おしみ受け入れる静かな心である。
いま、人に危害を加えない約束をしても、それは叶わない。
パニックを起こさない約束をしても、果たせない。
しかし、目の前のゴミを片付けることなら、叶えることは可能である。
その小さな約束を果たし続ければ、不可能と思われることが可能になる。
いま果たしつつある「その行動」は、「いまの願い」と「さきの現実」をつなぐ架け橋なのだから。