ねがいはかなう… 良い願いも悪い願いも

肝硬変。
原因は、お酒の飲みすぎ。

「このまま飲み続けたら、1年の命です」

しかし、 “死んでも酒はやめない” と。

41歳。自営業。趣味はゴルフ。しかし借金があり、土地家屋は抵当にはいっている。妻と二人の子供がいる。

“もっと生きたい”
そういう「願い」はもちろんあった。

酒を飲みたい。
もっと生きたい。
この2つの願いは矛盾する。よってどちらかしかかなわない。
こういう場合、自分でコントロール可能な方がかなう。

生きるか死ぬかは、自分ではコントロールできない。
酒を飲むか飲まないかは、自分でコントールできる。

よって酒を飲みたいという願いがかなった。

酒を飲む = 死ぬ
つまり、
酒を飲みたい = 死にたい
となる。

そして、その恐ろしい願いがかなう。

42歳でこの世を去る。

種をまく。発芽する。成長する。そして刈り取る。
原因と結果 (因果) である。

願う。
それは、まいた種がいつか刈り取られるように、「結果」として必ず現実化する。

ただ、それがいつ「結果」として現れるかは分からない。
かいわれ大根のようにすぐ収穫できることもあれば、
米のように半年かかって収穫となることもあり、
柿のように何年もかかって収穫というものもある。

それだけに、いま現実として現れた「結果」が いつまいたものなのか、それがハッキリしない。

しかも、われわれは間断なくたくさんのことを願う。
矛盾しようがしなかろうが、お構いなしに願いまくる。

“酒を飲みたい”  
“生きたい”

だから、
自分の願ったことがかなった… とは気づけない。
偶然に良いことが起こった、偶然に悲劇が起こった。そう勘違いする。

心に兆したこと…願ったことは、すべて形にならずには済まない。

さても恐ろしい因果律。心得るべきである。

良い種 (作物の種) を今まけば、秋に実りが得られる。
悪い種 (雑草の種) を今まけば、いずれ刈り取るのみの苦労が待っている。

その理をよく心得たうえで…。
良い種をまいていきたい。

人間は常に何かを「願う」。
どうせ何かを願うなら…
良い「願い」を持ちたい。

かないそうになくとも願うのだ。願うだけでいい。それはいずれかなうからだ。

“酒を少しでもいいから減らしたい!”
その結果は…。
生きる。

そう願っていたならば、きっとそうなっていた。

祈り…母親にも効いた小児鍼
鍼治療を行う中で体験した「ユングの共時性」 (シンクロニシティ) について。呼ぶよりそしれ、噂をすれば影、などの言葉があるように、相手のことを強く思うことによって、偶然とも思える事象の一致が見られるというものである。

幸せになりたければ、幸せを願えばいいのである。
ただし、自分だけの幸せを願うのは誤りだ。
「自分だけ」は孤独である。孤独は最大の不幸である。
他人の幸せをも願うならば、ともに自分も幸せになる。

この体を健康にしたければ、この命を大切にすればいいのである。
ただし、この命だけを大切にするのは誤りだ。
「自分さえ」助かれば、他の命はどうなってもいい。
そんな気持ちで飲食物 (命) をむさぼるならば、この命すらむさぼる結果となる。

あらゆる命はつながっているからである。

一つ一つの食材 (命) を大切にし、感謝しつつ味わっていいただく。
そういう意識がだんだん薄れてきた。
他の命は自らを犠牲にして、我々に組織や栄養をささげてくれているのである。

生きた命をフルイにかけて粉末にし、無感情に機械的に水で流し込む。
そういう健康法が流行っている。
他の命から抽出した組織や栄養を、我々は便利な道具くらいにしか考えていない。

命をモノ扱いにしたい。
この誤った願いを持てば、ゆくゆくこの命もモノ扱いにされる。
人間は、モノ扱いにされるのが一番こたえる。命だからである。
他の命をモノ扱いにする。だからこの命も他人からモノ扱いにされる。
こうして心も体も蝕 (むしば) まれてゆく。

すべての命を大切にしたい。
この正しい願いを持てば、ゆくゆくこの命も大切にされる。
人間は、感謝され尊重されるのが一番うれしい。
他の命を大切にする。だからこの命も他人から大切にされる。
心も体も活き活きするのである。

この「基本」を忘れて、健康などありえようか。

夜は早く就寝したい。
間食を減らしたい。
腹八分目にしたい。
身体を動かし汗を流したい。

そして、感謝したい。

自分でできる4つの健康法 …正しい生活習慣を考える
健康とは自然な現象です。病気は不自然です。病気はして当たり前…などと思わないでください。健康が当たり前なのです。 生活習慣が健康をつくり、また病気も作ります。夜更かしが続けば体調を壊すでしょうし、そうでなければ何も起こらないでしょう。 では...

これらはすべて、
良い願いである。
良い種である。

学問なしに、こういうことに気づくのは難しい。
学問なしに、正しい種を手に取ることは難しい。
学問なしに、誤った種を見極めることは難しい。

良い願いとは何か。悪い願いとは何か。
それを学ぶのが学問である。

願うとは、種をまくことなのだ。

いずれ大きく育たざるを得ない。
形として現れずにはいられない。

そういう「種」を、今この瞬間もまいているのだ。

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