小児鍼。金製あるいは銀製の太い鍼を用いる。あるいは夢分流打鍼術を行うこともある。
こういう鍼を「鍉鍼 (ていしん) 」という。鍼はツボに軽く触れるか、かざすだけである。あるいは夢分流打鍼術を行うこともある。だから、子供はみな怖がらない。何も感じないからだ。お母さんが子供を抱っこした状態で行う。
これで治療した例を挙げておく。
乳児アトピーの症例
2時間での解熱 (2歳)
10分おきにトイレ?
赤ちゃんの便秘
野球肩
発熱 12歳…営血分の熱
猫の白内障
鍼を刺すのが恐いという大人にも使用できる。酔っぱらいの治療 をご参考に。
こんなことがあった。
「先生、この子に鍼をしてもらったら、私にも効くんですか?」
「え? お母さんも楽になる?」
「ハイ、気のせいかとも思ってお伺いするんですけど…。いつも診てもらうとそうなんです。」
「あー、それは初めて聞く話ですけど、あり得ることですね。ユングの共時性っていうんです。〇〇ちゃん、いいお母さんをもったなあ…。タイムリーで楽になる?」
「そうなんです。先生がこの子に鍼をして下さると同時に、この辺 (頭の辺を示して) がスーッと…。それで体が楽になります。」
「いいですねえ、二人同時に治療できたら効率的で (笑) 。 それはお母さんが〇〇ちゃんのことを真剣に思う力が強いからだと思います。つながりが強いので、だからお母さんにも効くんでしょうね。まあ、今は別々だけど、もとは一つだったんですからね。今日も楽になったの?」
「そうなんです。」
左脾兪に金製の鍼をかざす、それだけである。
ユングの共時性 (シンクロニシティ) とは、例えば、下駄の鼻緒が切れたとき、親が危篤に陥る。ある人のうわさをしていると、その人が現れる。呼ぶよりそしれ、噂をすれば影。その家の主人がなくなるとき、大切にしていた庭木が枯れる…などである。
これらに共通することは、物質・肉体・空間などに大きな隔たりがあるにもかかわらず、偶然ともいえる時間の一致性があることである。娘の体と一体化した下駄 = 父親の体の重症化。これが同時に引き起こされる。…時間と空間の一致性の論理的考察として「体考…人はなぜ葬るのか」と題して展開したので参考にしていただきたい。
ぼくにも経験がある。もう20歳になる娘が2・3歳のころ、高熱を出し一晩中、咳をした。このころのぼくは本当に未熟で、手も足も出なかったのだ。翌朝、小児科を受診し、そのまま入院となった。肺炎だった。
病院食はおかゆだった。しかし、娘はそれを食べようとせず、妻が売店で買った弁当を欲しがる。結局、それを食べてしまった。あたりまえだが、看護師さんに叱られたらしい。心配して僕が見舞いに行くと、ジュースが欲しいというので、それなら作ってやろうと、スーパーに走り、リンゴと包丁とおろし器を買い、リンゴジュースを作ってあげた。しかし、缶ジュースしか嫌だとタダをこね、一口も飲まなかった。夕食は、やはりおかゆを嫌がり、しかたなく弁当を少し食べさせたようだ。その夜は、点滴が効いたのか咳はましになったが、一晩中まったく寝なかった。妻にお絵かきしろとか、ずっとダダをこね続けていたようだ。朝になっても高熱が続いていた。その日の朝もおかゆを食べようとせず、ぼくも妻も疲弊しきっていた。
妻に付き添いを任せ、家で一人になって考えた。どうして娘はこんなにワガママなんだろう。いやいや、まだ自分で何も判断ができない子供、そういう年代の子が病気をするということは、親が悪いというではないか。だとすると、ぼくの何が悪かったんだろう。そうだ、ぼくはイライラしている。イライラするのは悪いことだ。そういえば、最近、娘に優しい気持ちで接してあげられていただろうか。そうか、そうだった、ごめん、パパが悪かった、ごめん、ごめん、ごめん…。声をあげて詫び、泣いた。
1時間ほどたって、妻から明るい声で電話がかかってきた。おかゆを食べたというのだ。それが、ちょうどぼくがそうやって泣いたのと全く時を同じくして、急に「おかゆ食べる!」と言い出したというのだ。午後3時ころだった。
その夜、娘はよく寝た。翌朝には熱は下がり、ほどなく回復した。
人間には、人を動かしたり、現実を動かしたりする力があるらしい。しかもその力は、かなり幅広いものであって、ユングの共時性はその一形態と考えられる。
その力の起点は、祈りである。
祈りとは、願いを行動に表すことである…と僕は定義している。たとえば、行きたい高校があるとする。合格したいと願っているだけではだめだ。その願いが強ければ、毎日勉強するという行動となって表れる。つまり勉強は祈りなのだ。その祈りを介して、願いは現実となる。こういうトレーニングを繰り返すことで、願いを強く持つことができるようになる。願う力が強くなるにつれて、現実化する力も強くなる。イチロー選手などはその好適例である。手を合わし唱えるということも、願いを行動に表しているが、こればかりが祈りなのではない。
ぼくは思いを声に出してわびた。当該患者のお母さんは、忙しい中、手を引いて、あるいは抱っこして、車を運転して、僕のところに連れてくる。顎の筋肉、舌の筋肉、手の筋肉、足の筋肉…。強い願いを持ち、フィジカルを動かしている。これらはまさしく祈りなのだ。そして、祈りは届く。願いはかなう。物質的・空間的な隔たりなどとは無頓着に、奇跡は起こる。