画像でみる気の動きと「生きたツボ」

中国伝統医学は「気の医学」と言われる。

鍼灸と湯液 (漢方薬) を二本柱とするが、気の医学の真骨頂は鍼灸、ことに鍼にある。

鍼には気を集めたり散らしたりを、自由に操作する力がある。
よく効くツボには、生きた反応がある。

気を動かす

下の画像で用いた鍼は、鍉鍼 (ていしん) と呼ばれる鍼である。一般的にはツボに接触して用いるが、僕はかざして用いる。

かざしたくらいで効くのか? という疑念を持つ方は、
2時間での解熱 (2歳)
乳児アトピーの症例 (画像あり)
などをご参考にしてください。これらの症例はかざす鍼で治したものです。

補法 (気を集める) には金製を、瀉法 (気を散らす) には銀製をそれぞれ用い、その違いを明確にした。金は暖色で温める作用を得やすい。銀は寒色で冷やす作用を得やすい。

補瀉って何だろう
正気が「味方」だとすれば、邪気は「敵」です。補法は味方である正気を増やす方法です。瀉法は敵である邪気を追い出す方法です。どういうイメージで補法・瀉法を行えばいいのか、字源・字義にさかのぼって本質に迫ります。

これは以下の画像からもうかがい知ることができる。

生きたツボ

こうしたことはどのツボでも出来るが、全身に影響力を出すことの出来るツボは限られている。つまり、よく効くツボである。これを、ここでは「生きたツボ」と表記する。生きたツボは、その時その時でそれがどこに出ているかが変わる。決まったツボではないのだ。

生きたツボを探し出す方法としては、
・指先でツボを軽く叩いてリスポンスを感じる
・手掌をツボにかざしてリスポンスを感じる
・望診で感じる
などがある。

この内、望診によるものは、実際のツボを見るのと画像で見るのと大差なく判別することができる。これも以下の画像からうかがい知ることができる。

それ以前に重要なことは、ただしく弁証して導き出したツボは、生きたツボであることが多いということである。弁証と臨床は一致する。それをより一致させるためにも、生きたツボとはどういうものかを知っておく方かいい。

ツボの診察…正しい弁証のために切経を
ツボは鍼を打ったりお灸をしたりするためだけのものではありません。 弁証 (東洋医学の診断) につかうものです。 ツボの診察のことを切経といいます。つまり、手や足やお腹や背中をなで回し、それぞれりツボの虚実を診て、気血や五臓の異変を察するのです。

補法の鍼

まずは補法の鍼である。気を集める。それが補法である。
集めるのに適当な穴処を選ぶ。今回は陽池に「生きたツボ」の反応があったので、それを用いた。

①は、陽池に鍼をする直前の状態である。この被験者の陽池は「生きたツボ」の反応があり、ここに鍼をすれば効く状態にある。すぐ隣の外関と比較すると陽池が明らかに反応していることがよく分かる。陽池に正気が虚ろで、それが原因で気の流暢な流れが得られていない。陽池は上焦 (浅部) に属し、急性の比較的浅い表在の冷えを温める作用がある。表在を温めることで深在の熱を発散させることも可能である。ただし、ここに虚ろとなった正気をうまく補うことがこの作用を得るための条件である。

②は、金製の鍉鍼をかざした瞬間である。この時すでに気が陽池に集まってきていることが画像から見て取れる。①の陽池と比較すると分かりやすい。「比較」というのは大切で、陰陽である。陰陽は中国伝統医学で最も重要なものである。

③は、② (鍼をかざす) から1〜2秒後である。気が究極まで集まってきている。

④は、③の直後である。究極まで集まると、こんどは散る。散るのは四方に散るのではなく、経絡にそって流れていくのである。 “陰極まって陽となる、陽極まって陰となる” …という陰陽転化の法則が見られる。
・集まる…陽。 散る…陰。
・収縮…陰。 拡散…陽。
気を散らすのは瀉法である。補は瀉に通じる。

鍉鍼の補法の場合、気が流れればすぐに鍼を去り、穴処に軽く指で蓋をする。気が流れているのにひつこく鍼をかざし続けると、再び気が集まってしまい、流れが滞ってしまう。

瀉法の鍼

つぎに瀉法の鍼である。気を散らす。それが瀉法である。
散らすのに適当な穴処を選ぶ。今回は少沢に「生きたツボ」の反応があったので、それを用いた。

①は、少沢に鍼をする直前の状態である。この被験者の少沢は「生きたツボ」の反応があり、ここに鍼をすれば効く状態にある。すぐ隣の関衝と比較すると少沢が明らかに反応していることがよく分かる。少沢に邪気が充実しており、それが原因で気の流暢な流れが得られていない。少沢は浅部に集まった邪熱を散らす作用があるが、この邪気をうまく瀉すことがこの作用を得るための条件である。

②は、銀製の鍉鍼をかざした瞬間である。この時すでに少沢を満たしていた気が散り始めていることが画像から見て取れる。①の少沢と比較すると分かりやすい。「比較」というのは大切で、陰陽である。陰陽は中国伝統医学で最も重要なものである。

③は、② (鍼をかざす) から1〜2秒後である。気が究極まで散ってきているのが分かる。究極まで散ると、今度は集まろうとする。その集まろうとする直前に、鍼尖を少沢からパッと離し、散った状態を維持する。

④は、③の直後である。邪気が散り、気が流暢に流れているのが分かる。

補法の場合は鍼を垂直にかざしても水平にかざしても目的が達せられるが、瀉法は鍼を垂直に当てなれれば目的が果たせない。垂直だとカメラの位置がツボと被ってしまうので、瀉法の画像は角度に苦労した。そんな理由で手の角度が④だけ異なるので、④と同じ角度の瀉法の治療前の画像を下に加えておく。比較しやすいと思う。

気の動き方

虚則實之者.鍼下熱也.氣實乃熱也.
滿而泄之者.鍼下寒也.氣虚乃寒也.
《素問・鍼解54》

虚のツボを実する (気を集める) ということは、鍼をしたところが熱のように集まるのである。気が実する (集まる) とは熱である。
実のツボを瀉する (気を散らす) ということは、鍼をしたところが寒のように散るのである。気が虚する (散る) とは寒である。

この文章は臨床的な価値がある。

寒熱は八綱弁証で軸の一つをなすが、これを問診だけに頼ると誤診になることがある。真寒仮熱や真熱仮寒というケースがあるからである。そういう場合、ツボの反応を参考にするのが上級者のやり口であるが、寒の場合はツボの反応が散る。熱の場合はツボの反応が集まる。

もちろん、ツボの熱さ冷たさで判断しても良いのだろうが、僕的にはそれでは明確な基準にならないと感じた。よって気の動き方によって寒熱を判断している。

たとえば、

  • 神闕に「寒の気の動き」があれば寒証、「熱の気の動き」があれば熱証と判断でき、八綱を確定する有力な情報となる。
  • 三陰交に「熱の気の動き」があれば営血分の熱、それがなければ瘀血と、証の確定に必要な有力情報となる。
  • 天突に「熱の気の動き」があれば温病、「寒の気の動き」があれば傷寒と、外感病の寒熱の判定が容易にできる。

改めて《素問・鍼解54》を紐解いてみると、僕が臨床で見たことが書いてある。
熱は集まる。
寒は散る。
僕が独自に得た感覚が、二千年前の書物にすでに書いてある。時空を超えた合致である。

ただし、一部の人にしか見ることのできないものでもある。

気が通じているか

以上、補法と瀉法の気の動きを、鍉鍼 (ていしん) を用いて画像で示した。やり方は、ここに示したものに限らない。要は最終的に気が流れればよい。

毫鍼 (刺す鍼) を用いる場合は、鍉鍼とは気の動きがいくらか異なる。しかし、要は通じればよい。そこは同じである。

術者において、このような気の動きが感じられない (見えない) ならば、気が通じているかどうかを知らぬまま治療を行っていることになる。むろん初心のうちは感じられないが、感じようとする事が大切である。ただ単にやり方を形式的に真似るだけではなく、何を目当てにその操作を行うかを明確にしようとしなければならない。明確にしようとしているうちに、だんだん明確になってくるのである。

気の動きが明確になれば、治療技術も格段に上がってくる。治療効果が出やすくなる。僕はこれが分からなかった頃は、雲をつかむような治療であった。

目を閉じて何も見えぬままにペンを取ろうとするよりは、目を開いて明確に目で見て取ろうとした方が、ペンを取りやすいに決まっているのである。

余録

僕がかつて所属していた勉強会の先輩からご質問をいただきました。

お尋ねします
生きた反応と表現されていますが
私の感じとしては 何方も集まる散るの違いは有りますが 働きを見失い停滞している状態で 生き辛い感じです
ツボの内に生きたい強い何かを感じておられるのか
何方様な背景での表現か教えて頂きたいです

Facebookより

「何方」「何方様」の読み方がよくわからないので、的確に回答できるかどうかわかりませんが…。
僕の場合は、 “働きを見失い停滞している状態” のツボは、鍼が下手なので使えません。
画像に示されたような反応がある場合は、下手な鍼でも効いてくれる印象です。生き生きしている反応 (少し触れただけで躍動しそうな反応) です。効きそうな感じしかしません。

どちら 双方と言う意味です
失礼しました
更にお聞きしますが
生き生きとしている反応に
少し触れるのはどの様な触れ様なのでしょうか
生き生きとしているのだけど 一部生き生きしていない
生き生きしているけどベールの様なモノに阻まれている
生き生きしている状態をもっと生き生きする
生き生きしているけど周りと合っていない
生き生きしているけど 全体として鈍い等
しつこくでごめんなさいね🙏

Facebookより

いえいえ、そもそも内容が内容ですので伝わりにくくて当然です。
軽快でホッとするようなものです。診ていても苦しくなるようなものではなく、浮き浮きするようなものです。新芽のような溌剌さがあります。
しかし、鍼で少し触れるだけでシャボン玉のように消えてしまいます。
診るときはシャボン玉の上から触れるのではなく、内側から触れるように感じ取ります。これは脈診でも同じことが言え、脈の外側から触れるのと、脈の内側から触れるのとで、脈状が大きく変わるのと全く同じです。
ですから、生きたツボの見方を、向きを変えて、上から見ると、やはり停滞しています。
こういう見方は、脈診と全く同じようにツボを見ることで得られた感覚だと思います。ぼくの脈診はもしかしたら特殊かもしれません。
https://sinsindoo.com/archives/pulse.html

何か分かる気がします
私も基本 内側からの見方を大切にしています
唯 治療後その溌剌としたモノもシャボン玉の様消えしまうのでしょうか
勿体無い!と思ってしまいました
又又しつこいですが
内側から触れるのは
ご自分の気だとは思いますが
其れは手で触れる感じに近いのでしょうか
其れとも 又別の処の感覚なのか
又何処の部位を使うのとも違う感覚なのか

Facebookより

シャボン玉は、画像の4コマで、その後どのような動きをするのかを見ていただければと思います。消えはせず、推動力になります。
さすがするどいですねー。
手で触れる感じは、脈診です。でも脈は手で触れていたらわからないと思います。手はキッカケにすぎず、手の触覚とはちがうもので診るから見えてくるのだろうと思います。脈診を訓練していると、いつのまにかもう触覚を使っていないことに気づきました。その感覚を使ってツボを診ると、脈診で診るなみの自信のもてる基準が得られていた…という感じです。

おはようございます☀
触覚でない感覚とは
私の場合 全身感覚と言う感じですが如何でしょうか
又 生き生きとしたツボの印象と合わせて
例えば血分の熱が有るとして
その存在は 余分な物 悪い物
上手く生かされていない状態
停滞を作っている邪魔者
何か別の芽吹き等
どの様に捉えておられますか
又皮膚病の際の表証も
同じ捉え様でしょうか

Facebookより

>> 触覚でない感覚とは
脈診をしていると、上っつらの脈が邪魔になって、下っつらの脈や水平方向の脈が見にくくなります。そこで、上っ面の脈を感じなくするトレーニングが必要になります。それを繰り返しているうちに、触覚として感じていたものを感じなくなり、そこに残ったものが勝手に見えてくるという感じでしょうか。どちらかというと引き算です。余計なものを消していく感じです。全身全霊という感覚は僕には無く、むしろ軽くしていくという感じです。

>> 例えば血分の熱が有るとして
生きた反応は、虚でも実でも出ます。虚ろな反応や邪気の反応とは別に生きた反応を感じ取っています。例えば三陰交に邪熱の反応かあるとすると、それは邪悪なもので手の出しようがないものです。ここに生きた反応がなければ、本当に手を出しません。しかし、他の穴処でうまく扶正すると、左右ともに出ていた邪気が左右どちらかに集まり、そこに生きた反応が生まれます。これに鍼をすると、大した技術がなくとも通じさせる事ができるという印象です。邪気の見方と生きた反応の見方は、下っつらの脈を診るときと上っらの脈を診る時のような違いがあります。

>> 又皮膚病の際の表証も
自覚症状に乏しく脈も浮いてこない表証は天突などで判断していますが、ここは生きた反応とは違います。生きた反応を脈診の浮位だとすると、天突は中位くらいで反応してくるという印象です。

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