君主・相傅・将軍…十二官における臓腑観

先輩の先生から、含蓄のあるコメントを頂きました。

疲労と疲労感は違う世界だと思います
疲労感は肺
疲労は脾
日常的には肺が肝に指令を出す関係です
非常の際は分業体制か 関係は逆転します
ただ 肝は単独で行動するのでなく 心に依頼されて働きます

ここでは、

“疲労感” とは、精神的あるいは身体的な苦痛が蓄積する感覚を言います。
“疲労” とは、それら蓄積が存在するにもかかわらず自覚することができない状態を言います。

疲労が取れなければ、早かれ遅かれ、いずれ疲労感として現れます。これから行う分析は、疲労や疲労感がどうやって生まれるのか…を知ることによって、それをどうやってなくしていけばいいか…を考察するためのものです。

先生のコメントを一つ一つ噛み砕いて説明し、僕なりの補足を付け加えます。

五臓を国家に例える

そのまえに、最初から難しいんですが、以下の前提を踏まえないと理解できないので、それを挙げておきます。初心の方は、「解説」以下の読みやすいところから読んで、分からなければこっちに戻っていただいてもいいです。

人体を国家に、五臓を政府に見立てたものです。組織図ですね。人体も組織です。

  • 心…君主。自覚できる意識 (心神)。自我。
  • 肺…宰相。首相。政務のトップ (肺魄)。 疲労感・痛みなどの感覚を自我に伝える。君主と宰相は一体。
  • 肝…将軍。軍部・土木のトップ。遠方に出向する現場指揮官であるため、その行動は心神・肺魄には把握しきれない。自覚できない意識 (肝魂)。無意識。
  • 脾…財務省。古代は米が主要な財産であった。米の備蓄・貯金 (脾営) 。もう少し深くいうなら、脾は国民である。国民は米の作り手・国の財産であり、税を納める。国民は財務の大本である。
  • 腎…技術部門。国力すなわち国家の繁栄は技術 (農業・建築・工業・軍事などの技術) にかかっている。これだけは世代が変わっても減ることなく絶えることなく、変わらず受け継がれていく (腎精)。

心者.君主 (国王のこと) 之官也.神明 (国の向かうべき方向) 出焉.
肺者.相傅 (宰相のこと) 之官.治節 (政務の執行) 出焉.
肝者.將軍 (現場指揮官のこと) 之官.謀慮 (現場での采配) 出焉.
脾胃者.倉廩 (米の倉庫のこと) 之官.五味 (国の富) 出焉.
腎者.作強 (国力のこと) 之官.伎巧 (技術のこと) 出焉.
<素問・靈蘭祕典論 08>

他にも、胆は中正之官、膻中は臣使之官、大腸は傳道之官、小腸は受盛之官、三焦は決涜之官、膀胱は州都之官、とあり、これらをまとめて十二官といいます。

心者.生之本.神 (自我のこと) 之變也.※正確には “神 (真実) 之変 ” が自我
肺者.氣之本.魄 (疲れなどを感じる働き) 之處也.
腎者.主蟄封藏之本.精 (生命そのもの) 之處也.
肝者.罷極之本.魂 (無意識のこと) 之居也.
脾胃…者.倉廩之本.營 (食物からのエネルギー) 之居也.
<素問・六節藏象論 09>

重広補註黄帝内経素問

解説

疲労と疲労感は違う

≫疲労と疲労感は違う世界だと思います

自覚できる疲労と、自覚できない疲労があるということです。つまり、疲れていないと思っていても、実は疲れている場合がある。ぼくはこれを “押し入れに疲れが入ってるよ” と患者さんに説明します。押入れって意識しないと片付かないですよね? 床の上とか、目につく所は気になるのですぐに片付きます。

“押し入れに疲れが入ってるよ” と声をかけるだけで、患者さんの体の反応が鮮やかに変化するのが特徴です。意識するって大切なんですね。

このように患者さんに “意識させる” ということは、肺を鼓舞し心を覚醒させることです。体の反応に良変化が現れるということは、その言葉が心神に届いたということです。

疲労感は肺

≫疲労感は肺

肺は感覚神経的なもの支配します。つまり痛みやつらさを感じる。それを心が自覚して疲労感になり、自覚できます。

肺が感じ取った疲れを心が自覚することによって、 “疲れた” と感じるのですね。宰相 (肺) が君主 (心=自我) に報告するのです。

宰相は君主に報告せずに事務処理をすることもあります。すなわち、肺は反射的行動をも支配する。脳を介さない脊髄反射をイメージすればいいいでしょうか。つまり、
・熱い (感覚) ものに手を触れる→反射的に手を引っ込める (行動)  
・寒い (感覚) →服を着る (行動)  
・疲れた (感覚) →寝る (行動)  
などです。このようにして反射的に疲労を回避している側面があります。感覚神経から受けた刺激を反射的行動に変えるのは、肺なのですね。

こういう反射的行動は、原始的な行動です。マニュアルがすでにあるんですね。このパターンにハマったら、いちいち心 (君主) に確認を取らなくても、肺 (宰相) の事務的レベルでお役所的に処理するのです。

肺にはこういう “表面的” で “お固い” 側面があります。五行の「金」です。

また、肺は人体で一番高いところにある “大空” です。ピュアで公明正大、私心というものがありません。ただし臨機応変は苦手。

こんなふうに型にはまったマニュアル通りの人生なら病気になることなどないんですが、それじゃつまらないし、成長することがないですね。

疲労は脾

≫疲労は脾

貯金の残高が減ってきても、それを自覚せず、知らずに使うことがありますね。キャッシュレスは恐いとかいいます。これが自覚できない疲労です。

国家で言えば、国民の声は国に届きにくいですね。最も底辺 (土) にあるその声を拾うのは、上にいる宰相 (肺) の仕事なのですが…。国民の塗炭の苦しみは国家存亡の危機です。これを、国が自覚できない。非常に良くない状態です。君主も宰相も宮殿で安心してしまっている。それのみか、栄耀栄華にやってしまっている。自覚症状なしで進行する病気ってありますね。これがやばいやつです。

“疲労と疲労感は違う世界である” というのはこういうことです。政府と国民とでは住む世界が違う。ほんとうは同じ世界でないといけないのですが…。

肺は上官

≫日常的には肺が肝に指令を出す関係です

平和な日常のもと、国が一つにまとまっていれば、将軍 (肝) は宰相 (肺) の言うことを聞きます。将軍は遠くの現場に出向し、現場監督を責任を持って努めます。もし現場で変わったことがあれば、その情報はいちいち宰相のもとに届きます。宰相は国家レベルでその解決に当たります。肺肝一体となって心を守る。

こんなシッカリした宰相と将軍を部下に持つ君主 (心神) は幸せですね。宮殿の奥深くで安心していられます。しかし、それもこれも君主に “徳” があるからです。「三国志」の劉備玄徳 (君主) と、諸葛孔明 (宰相) と、関羽 (将軍) の関係を思い出します。

玄徳 (心) は徳の人ですね。
孔明 (肺) はクール、
関羽 (肝) は情の人です。

我々の日常でも国家と同じです。いつもより仕事が多すぎた日は疲れや眠さを自覚します。自覚があるから夜は早く体を休め、それで元気になれるのですね。これは肺の反射的行動です。こうして体がすぐに回復する時は、気持ち (心神) 的にも安定しています。肺と心とは大空 (肺) と太陽 (心) のような関係で、ワンセットです。心肺一体です。

非常時は肝

≫非常の際は (肺と肝は) 分業体制か (肺と肝の) 関係は逆転します

国が一つにまとまっていれば、正しい臨機応変がありえます。

火事のときにとっさに “無意識 (肝魂) で” 子供を助ける、という状況を想像してください。意識とは関係なく、体は勝手に動いて子供を助けに向かっています。これは予測できない非常事態ですね。マニュアルにはありません。

・とっさ (肝魂) に子供を助けつつ、火の “熱い感覚 (肺魄) ” も感じる。…分業体制。
・とっさ (肝魂) に子供を助けつつ、火の “熱い感覚 (肺魄) ” を感じない。…関係が逆転。

火事のような非常事態が起こった時、将軍はいちいち宰相に連絡せず、臨機応変に采配を振り、現場を対処します。宰相には、火の熱さ・やけどの痛み・疲れなどが伝えられないため、君主はそれを知ることができません。

つまり、火事だっ! となったときから記憶がハッキリせず、疲れや痛みを自覚できません。気がついたら子供を助けていた。

非常事態がおさまった時、その連絡がやっと宰相に届きます。ここで疲れ・やけどの痛みを自覚します。

たとえば将軍 (肝) が、宮殿から離れて兵隊 (国民つまり脾を肝の支配下においたもの) を引き連れ現場まで出向し、災害後の治水工事 (病気の修復) に追われているとします。 心 (君主) も肺 (宰相) もその情報は知ってはいますが、具体的な細かいことまでは分かっていません。これが “無意識” の世界です。

その工事中に、隣国から攻撃 (寒邪などの襲来) を受けたとします。肝は自分の判断で治水工事を止め、応戦に全力を傾けます。これに関しては、心も肺もまったく うかがい知るすることができません。肝魂 (無意識) です。

場合によっては、兵隊や兵糧がたりないと将軍 (肝) が判断すれば、宰相 (肺) を通すことなく補充することがあります。本来の権限は宰相にあるのですが、非常時は宰相を上回る権限を発揮します。これが “関係は逆転します” という部分です。

感覚 (痛み) を感じない…無意識が感覚の上に立つ姿です。 “火事場の馬鹿力” です。

病気になって、それを修復するのも無意識ですが、その途中に寒さでやられそうになっていても、その寒さを感じぬまま、知らぬ間に体が防いでくれている。すべて無意識です。肝魂 (無意識) が部下 (脾気=正気) を引き連れて修復・防御にあたってくれているのです。

心も肺もそのことを知りません。陰でみんなのために戦う肝…。“情の人” でなければできないことでしょう。

心が支配する

≫ただ 肝は単独で行動するのでなく 心に依頼されて働きます

国が一つにまとまっているときの体制です。基本的には心が肝を支配します。将軍が君主に従うのは当たり前ですね。

細かくいうと、例外もあります。心の依頼を承けずとも、肝 (無意識) が単独で “とっさに子供を助ける” ことがあります。ただしそれは、普段から心の “意向” を汲み取っている肝だからです。これも “依頼されて” と表現できますが、 “忖度 (そんたく) ” という表現の方が適当でしょうか。将軍は宰相の命令を聞く側面がありますが、君主と直接の信頼関係があって、非常事態のときは宰相との主従関係はくずれ、君主の意向を忖度して自由に行動します。

玄徳 (君主) と関羽 (将軍) のような関係ですね。孔明 (宰相) よりも、玄徳との「心」のつながりは関羽の方が強い。心肝一体です。「三顧の礼」よりも「桃園の誓い」の方がエモーショナルなのです。

ちなみに、関羽は “関帝” として中国人の信仰の対象になっているそうです。天満宮の天神さま (菅原道真) と似ていますね。

もちろん、将軍は一人で行動するわけではありません。兵隊 (国民つまり脾を肝の支配下においたもの) とともに動きます。肝脾一体、将軍と兵隊は信頼関係で結ばれているのです。当然、兵隊には傷つくものも現れますが、このとき、兵隊 (脾) の疲弊と、将軍 (肝) の疲弊はまた違うものです。本当につらいのはどっちでしょうね。部下思いの関羽を想像します。それぞれのつらさがあります。そういう意味で、疲労は脾にも肝にもあるのです。

子供が高熱を出して母親が看病している。ハッと気づいたら朝まで看病していた。これなどは将軍が君主の意向を忖度して、マニュアルを無視した “無意識 (=肝魂)” の行動に出たものです。将軍は君主と心の底深くつながっているのです。

こういうとき、お母さんは体調をくずさないですね。宰相に “疲れ” の情報が行かないから、自覚できないのです。疲労は脾の弱りとして存在しますが、肝 (将軍) は疲れた脾 (兵隊) を支配しています。その肝が肺より上位に立つ “関係が逆転” の緊急時体制にあるため、その疲労を肺も心も自覚できません。肝が疲労の鍵を握るのです。

しかし、子供が回復したら疲れを感じ (肺の感覚) 、ゆっくりします (肺の反射行動) 。少し寝込むこともあるかもしれません。こうして疲れを自覚して体調をもどしているのですね。疲れた→寝る…マニュアルどおりの反応です。肺が肝よりも上位に立つ平常時の体制に戻ったからです。

病気になる過程には、こういうマニュアル外のことがあり、また、治っていく過程にはマニュアルどおりのパターンがあると考えられます。

つまり、
予期せぬ事態が起こる
→疲労 (自覚なし) がたまる
→事態が落ち着く
→疲労感 (症状) が出る
→原因となる行為をひかえる
→疲労 (自覚なし) が取れる
→疲労感 (症状) が取れる

国が一つにまとまり組織がキチッと秩序立つかのように、人体もそうであるならば、病気になったとしても自然に治ります。

ちなみにもし、朝まで子供の看病をしていなければ、子供は重体となって、お母さんにはもっと大きな疲労が降りかかるのです。肝と肺が共同で、最悪の事態を回避したのです。

補足… 虚実錯雑と大酒飲みの肝硬変

肝と疲労

“国が一つにまとまっていれば” という表現を何度も使いました。つまり、国が一つにまとまっていないことがある、ということです。これが “治りにくい病気” です。

歴史的に、将軍 (軍部のトップ) は君主よりも力を持ちすぎることがあります。たとえば源頼朝 (将軍) が開いた武家の時代は、明治維新で天皇 (君主) が返り咲くまで続きました。

将軍は君主よりも力を持ちやすい (実) 。もともとマニュアルの無視や臨機応変が、君主から認められているだけに…。強烈な権力と武力を発揮しようと思えば発揮できるだけに…。君主に徳がないのも大きな原因です。だから君主は将軍に見下される (虚) ようになる。

ここに虚実錯雑の骨組みが見えます。

第二次世界大戦にいたる過程で、軍部 (将軍) が力を持ちすぎ、犬養毅 (宰相) などが暗殺されています。これは国家が病んだ状態で、その結果が戦後の荒廃です。

将軍が力を持ちすぎると、国は乱れます。

東洋医学ではこのような軍部の独走のことを、肝気偏旺・相火妄動・疏泄太過などの概念で匂わせていると思います。

戦後の荒廃は、結局国民 (脾) の負担になりましたね。

疲労も、結果として土であるところ脾がすべてを受け入れ、消化しようとします。消化吸収できれば筋肉 (肌肉) になります。戦後の困窮をバネにして、日本人は飛躍的な国家の発展を遂げましたね。消化吸収ができなければ邪気となり、脾虚 (正気の弱り) となります。正気の弱りとなれば、最終的に土そのものが痩せて実りが得られなくなります。このように疲労は脾に帰着します。

しかし、疲労の原因をつくるのは肝です。第2次世界大戦時、軍部 (肝) は財務 (脾) を完全に支配しました。その結果、国民 (脾) は大変な目にあっています。土とは実りを生み出すもとで、国民です。軍部の横暴は、国民に労役や兵役を課したり、国民の衣食住を奪い取ったりしましたね。

ただし、あの時代の軍部をおとなしくさせ、「和をもって尊しとなす」と説いた聖徳太子以来の国家統治の精神 (真実=神→君主の意向) に立ち戻らせるには、軍部だけをどうにかしようとしてもできるものではありません。要するに、君主 (心) も悪かった、宰相 (肺) も悪かった、国民 (脾) も悪かった。だから軍部 (肝) だけを治せばいいという問題ではありません。しかし軍部 (肝) が問題の中心であることは確かです。

肝は罷 (疲労感) と極 (疲労) の本 (根本原因) なのです。

肝者.罷極之本.
<素問・六節藏象論 09>

「罷」とはダラッとして、疲労感 (自覚できる) がある状態のこと。
「極」とは緊張して、疲労はあるがそれを自覚できない状態のこと。

蛮補がこわい

もし、脾を回復させ、財政を豊かにしたならばどうなるでしょう。ますます肝はそのお金を使って兵器を作り、誤った戦争を際限なく続けることでしょう。

もし、腎を回復させ、伎巧 (技術・スキル) を高めたならば、軍部はそれを利用して核兵器を開発したことでしょう。

お金や技術は、もっと良い使い道があるはずです。

正気を足せば足すほど、変なことに使ってしまう。 “大酒” が原因の肝硬変で、体が弱って酒も進まなくなってきた。ところが正気を補うと元気になって、また大酒を飲みだした。こういうのを “蛮補” と言います。補法は安全というわけではなく、元気になったからと言って良くなったわけではない。

食欲のなかった人を治療する、食欲が出る、間食を始める、悪化する。
動けなかった人を治療する、動けるようになる、動きすぎる、悪化する。

何かが欠けています。

変な方向へアクセルを踏んでいる。

よくないですね。

いやいや、こうやって悪化してくれていればまだいいのです。先生のおっしゃるように、目に見える “疲労感” ではなく、目に見えない “疲労” となって、見えないところで疲労が蓄積したならば…。後戻りできない、恐ろしい病名を告げられることになる。

虚実錯雑

暴走し狂った肝には届かないように、蛮補にならないように、正気を補う必要があります。脾腎ですね。ここに正気を充実させたい。

これには僕は奇経を重視しています。奇経はダム湖、正経は用水路に例えられます。

源平合戦のときに、両軍 (正気と邪気) の力が拮抗している時 (虚実錯雑) 、兵糧 (補) を戦場に投げ込めば、義経軍 (正気) だけではなく、平家軍 (邪気) も元気付いてしまう。これが蛮補です。だから直接義経 (正経) を補うのではなく、頼朝 (奇経) を補うことで間接的に義経を補う。そうすれば平家は元気づきません。これはきれいな補法ですね。

補法ができたら瀉法ができるようになります。最終的には肝の瀉法です。肝の瀉法は見落としなくやる必要があります。でないと、追い詰められた邪気が暴れやすい。リスクのない治療は、邪気が自信満々で居座っている証拠です。だから効きもしないし悪化もしない。

章門と井穴がポイントになります。章門や井穴に出た邪気を残さないようにします。そういうふうに鍼を操作します。それでも井穴に残る場合がありますが、その時は直接井穴で取ってやると非常に症状が楽になります。

しかしそれだけではうまくいきません。やはり肝硬変なら「なぜ “大酒” がよくないか」という理由をわかりやすく説明し、それが腑に落ちる、ということが大切です。こういう知識は、人生という道を照らします。照らすのは太陽です。火です。心です。神です。真実です。治療家の心神は、患者の心神を照らす “大きな太陽” でなければなりません。心を動かすのです。心神を正すのです。

心神 (自我) の強く鮮やかな光は、肝魂 (無意識) という影を明確なものにします。光と影は陰陽です。

正しい心神の強い光は、明確に正しい肝魂 (無意識) の影を作るのです。

とっさに人を助ける。
知らぬ間に体に良いことをする。

また、誤った心神の強い光も、明確に誤った肝魂 (無意識) を作ります。

とっさに人を殺める。
知らぬ間に体に悪いことをする。

治療では、こういう知識を持ち、こういう事をやりながら、少しずつ少しずつ、邪気となってしまった肝を、正気としての肝に変えていく。邪気を正気に置き換えるのが本当の瀉法です。

真の瀉法

こうして正気が補えれば、邪気を瀉すということを繰り返します。あるいは平補平瀉です。瀉す対象は、気滞・邪熱・痰湿・瘀血などいろいろで、これらの邪気を取って肺をピュアにし、正しい反射を呼び覚ますことが大切ですが、そうこうやりながらも最終的には肝が目標です。邪気を作っているのは肝だからです。邪気をいくら取っても取っても、肝が次から次へと生み出してゆくからです。無意識に体に悪いことをしてしまうのですね。

肝を弱らせるのが目的ではありません。自分勝手な肝に反省を促すのが目的です。反省とは、邪気を正気に変えること (真の瀉法) 、失敗を成功に変えることです。

本当の安心は、反省なしには得られません。

最も高い位置 (地位) にある肺に従う。これが順序です。きまりです。きまりを破るのは悪いことなので、肝には反省してもらう必要がありますね。反省し、肝は肺 (宰相) を助けるのです。人間最大の徳とは謙虚さです。

関羽には徳があったのですね。孔明 (宰相) と関羽 (将軍) がうまくやってくれれば、玄徳 (君主) は安心していられる。君主 (心) の安心…これこそが最終目的です。病気を治すには、安心立命が最も大切なのです。

肝を弱らせるのではなく、反省を促す。反省している人は元気がなくなったかに見えますが、そうではありません。反省とは、正しい道に進むための一歩を踏み出す直前の状態です。東洋医学的に言えば、精の状態まで立ち戻った状態です。ここから “命” が生まれるのです。

すると、肺が本来の高い位置に戻れる。本当に、ホッと息がつける。肝が下焦にへりくだる。深い息が吸える。

肺者.氣之本.<素問・六節藏象論 09>

瀉法も補法も、命を生むためのものです。気 (いき) を生むためのものです。

効果

例えば大きなストレスがある。それを肺魄は感じ取っていて、自覚がある。その時たまたま甘いものを食べる。そのストレスの “自覚” は、それを上回る “味覚” によって取って代わられる。ホッとした充足感 (誤った充足感) が得られる。この一連の感覚 (肺魄) は、心神 (自我) が把握し、そして心神から肝魂 (無意識) に “意向” が伝えられ、肝魂はそれを “忖度” して、「甘いものが好き」という無意識が生まれる。

以降、ストレスを感じるたびに、無意識に甘いものが欲しくなり、無意識に店で買い、無意識にそれを口に運ぶ…という一連の行動パターンが身につく。

治療がうまくいくと、「先生、甘いものを間食していたのが過去の話になりました。なんであんなに食べていたんだろう?って。いまは体が軽くて、ご飯がおいしくて、それが楽しみなんです!」…これは実際の患者さんのお言葉です。

肩こりを治すにしても、アトピーを治すにしても、ガンを治すにしても、どんな病気を治すにしても、誤った無意識からくる “体に悪い習慣” があり、その生活習慣を正すことが必要になります。

間食だけではありません。夜ふかししかり、運動不足しかり。

末期癌で食欲が増すという現象があります。がっついて食べる。しかし、白米には手をつけない。おかずやお菓子など、うまみの強いものだけを食べる。巻きずしなら中の具だけを食べる。 “ガンが食べるんです” …これは医師の方から聞いた言葉です。ここを治さなければ治らない。

まとめ

あの手この手があります。これを一本の鍼に込めています。この口から発する一言一句に込めています。患者さんとの一期一会に込めています。

君主 (心) に徳があり、将軍 (肝) に情があるならば、宰相 (肺) の公明正大さだけが主役となって物事が箱差すようにうまく運ぶのです。マニュアルにはまり、健康になってゆくのです。

マニュアルにはまったのがさっきの言葉です。

「先生、甘いものを間食していたのが過去の話になりました。なんであんなに食べていたんだろう?って。いまは体が軽くて、ご飯がおいしくて、それが楽しみなんです!」

うまくいかないことはいくらでもあります。人の心を動かすのは難しい。心と体はつながっている。だから病気を治すのは難しい。先生も、肺と肝と脾の関係で疲労を説明されていますが、最終的には “心” に言及せざるを得ない…というところでしょうか。

治療家の徳が、患者の心を照らす。患者の心に徳が映る。

結局、ぼくの徳が足りない。だからこうやってコツコツ勉強している、ということですね。

 

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