膜原って何だろう

今般の COVID-19 は、東洋医学的には疫病すなわち「温疫」に該当します。これに対応するには「膜原」 (まくげん) という概念が重要であると言われます。

初心の方には難しい内容ですが、末尾の ▶予防 は参考になるので目を通してみてください。

温疫とは、温病学の中の概念です。温病のなかで強烈な伝染性と流行性を持つものを、とくに温疫と言います。

以前から、温病学を学ぶ中で、「膜原」という言葉は知ってはいました。ただし理解は浅いもので、

  • 膜原は温疫 (湿熱疫) の邪が入るところである。
  • 伏邪 (隠れた外邪) として膜原に潜伏する。
  • 膜原=少陽。

と理解しておけばいいのかな…という認識しかありませんでした。

もう少し具体的な理解が必要だと感じ、詳しく調べてみました。

温病とは

温病と温疫

温邪による病変を温病と言います。

温病 (広義) は以下のように分類されます。温病の分類◀温病って何だろう…六淫との関係 にまとめたものを引用します。

▶温病 (狭義)
 1.風温…風熱の邪。四季を通じて発症。春と冬が多い。冬の風温を “冬温” ともいう。
 2.春温…伏邪温病。冬に寒邪に犯され内陥潜伏し、春に化火して発症する。
 3.暑温…暑熱の邪 (夏至以降) に侵されたもの。病の悪化変遷が早い。
 4.秋燥…燥熱の邪。日本は湿潤気候なのであまり見られない。
 5.湿温…湿熱の邪。雨季に発症。軽症は衛分を犯す。重症は膜原を犯す。
 6,伏暑…伏邪温病。夏に暑邪 (暑湿の邪) に犯され内陥潜伏し、秋冬に発症する。

▶温疫
 1.温熱疫…温熱癘気の邪。四季を通じて発症するが春が多い。初期から気分証が即見される。楊栗山 “虽有表証,実無表邪.”
 2.暑熱疫…暑熱癘気の邪。干ばつ猛暑で多発。驚くほど早い展開で、激しい表裏内外にまたがる症状。悪寒・体痛・高熱・出血など。
 3.湿熱疫…湿熱癘気の邪。夏の暑湿多雨で発症する。特に強烈な伝染性を持ち、凶暴険呑。膜原に潜伏する。白厚膩苔、重度のもの積粉苔が見られる。

温病の分類◀温病って何だろう…六淫との関係

癘気 (れいき) とは強い感染力を持つ邪気のことです。新型コロナウイルスはこれに該当します。

湿熱疫と新型コロナ

今般のCOVID-19は、伝染性が長期に渡るという意味で温疫に相当します。
その分類の中では湿熱疫が最も近い概念となります。

湿熱疫の最も大きな特徴は、最初から湿熱の邪が「膜原」に侵入し、そこを本拠地として、上下・内外・深浅に行くということです。浅部では太陽病・陽明経証・少陽病に、深部では五臓六腑・営血分に波及します。浅部に出てそのまま外泄できればいいのですが、深部に邪が入ると重症化します。ほとんどが肺に邪が入ることによって重症化しています。

COVID-19は、発症して最初のうちは普通のカゼと変わらない症状で、それが何日か続き、突然重症化するという特徴があります。この時点で温熱疫・暑熱疫の急激な発症の仕方とは大きく異なります。感染と同時に「膜原」に入った邪が、最初はおとなしく浅部に支部隊を出し、多少の症状を出したり入れたりしながら、しかし、「膜原」の邪の本部隊は潜伏したままで力を保っており、機を見て深部 (肺) に向かって襲いかかるのです。

黄帝内経にみる膜原

“募原” とは

其間日發者.由邪氣内薄於五藏.横連募原也.其道遠.其氣深.其行遲.不能與衞氣倶行.不得皆出.故間日乃作也.
<素問・瘧論 35>

【訳】
日を隔てて瘧の発作を起こすのは、
① (上から入った) 邪気が (下にある) 五臓に肉薄したからである。五臓には、隣接して連なるように募原 (=膜原・横隔膜) が横たわっている。
② (外から入った) 邪気が (内にある) 五臓に肉薄したからである。五臓には、すぐ横に募原 (=膜原・腹膜・胸膜) が連なって隣接している。
邪気がそこまで到達するには遠く深く時間がかかっている。よって衛気は邪気をマークしきれず、すべてを追い出し切ることができない。

「募原」とは膜原のことです。

其作募者,之訛尔。<素問釈義・伊沢裳軒>

「募」は「幕」のことです。

膜本取義于帷幕之幕,膜間薄皮,遮隔濁気者,尤幕之在上,故谓之,因従肉作
<素問識・丹波元簡>

「幕」が「膜」の本来の意味です。膜は “帷幕” の幕に本義があります。

膈募之原系。<“膜原” 王冰注>

膈募とは膈幕 (膈膜) のことです。つまり横隔膜のことです。

膜とは

膜は「月 (肉) +幕」です。素問・瘧論では「幕」ではなく「募」をつかっています。

幕 (募) とは何でしょう。

「莫」は「艸 (草) +日+艸」で、 “覆われて見えない” という意味です。 “莫 (な) い” と訓読します。「暮」の原字でもあります。「墓」は「莫+土」でイメージしやすいですね。
「幕」は「莫+巾 (布) 」で、 “覆って見えなくする布” という意味です。
「募」は、寂寞さが「力」によって陰陽転化して “結集する” 意味があります。募金なんかそうですね。お金が莫 (な) いから募 (つの) る。

幕は帷幕 (本拠地) の幕です。 “幕府” などは将軍を見えなくするために幕を張ったことが語源です。本拠地には続々と、しかも暗々裏に味方が募 (あつ) まります。

「膜」とは、人体組織において幕のように覆うものです。それは指揮官の本拠地であり、隠れて見えにくく、攻め難い場所にあります。そこには同心の武士 (もののふ) が闇に紛れて集まってきます。古人は人体を解剖し、陣幕のようにおおう膜をみて、邪気の帷幕を連想したのかも知れません。

邪が暗々裏に募 (あつ) まる。

原とは

「原」は「厂+泉」です。
厂は崖です。
泉は「白+水」です。
白はどんぐり (白い顔料を取るのに用いられた) のことです。または頭蓋骨のことです。共通するのは “丸い” ということです。白には丸いというイメージがあります。
「泉」はつまり、こんこんと湧く丸い水たまりのことです。

また「原」は “高原” “高くて平らな地形” の意味もありますね。美しい湧き水は高原から発するという意味でつながります。

原者,平野広大之謂也。故能邪伏其中。<读医随笔・周学海 >

「原」は断崖で湧く泉、すなわち源流のことで、分水嶺のことです。東にも西にも流れていく可能性を秘めています。

ちなみに東洋医学では “原気” のことを “元気” ともいいます。原と元は意味がつながっています。

「元」は丸い頭の下に儿 (人体を示す) を置いたもので、頭を強調した人体の象形です。頭は丸いですね。つまり、これも「原」と同じく “丸い” のです。“泉”と “頭” はともに高い位置 (トップ) にあり、源流・元締めという意味で「原」と「元」は意味がつながっています。

「原」とはまるで小高い丘のように、人体組織のい位置にあり、くてらな場所、すなわち横隔膜の上面です。そこは高い位にある指揮官が、命令を四方八方に発信する場所です。邪気がそこにある限り、絶えることなく湧く泉のように、上下内外に向かってランダムに波及します。源流を絶たなければ治ることのない病気です。

邪が高い水源から四方に波及する。

難攻不落の高台に、陣幕を張りめぐらせて見えづらくし、同心の味方を暗々裏に募り、四方に部隊を派遣する。そういうイメージが「膜原」という文字から読み取れます。

膏肓とは

もう少し古籍を巡ってみましょう。

膜,謂膈間之膜。原,謂膈肓之原。<“膜原” 王冰注>

【訳】
膜は、膈の間隙にある横隔膜のことである。
原は、横隔膜の上っ面の丸い平面である。

「肓」という字が出てきました。

·心下有微脂為鬲上有薄膜為也。<素問識・丹波元簡>

【訳】
心筋下部 (心尖) には微かに脂 (あぶら) があり、これを膏という。
横隔膜の上部には薄い膜があり、これを肓という。

「肓」は「亡+月 (肉)」であり、亡は “見えない” の意味があります。盲はその例です。
「肓」とは、膈の上にある膜のことです。見えないところにあります。「原」の字源…高い位置の平らな場所…と重ねると、横隔膜の上面 (心臓側) がイメージできます。上から見ると丸いので、そこも「原」の原義と合致します。

病膏肓に入る

“病膏肓に入る” という言葉があります。病気が重くなって治療のしようがないものをいいます。
出典は「春秋左氏伝・成公十年」です。

晋景公疾病,求醫于秦,秦伯使醫緩為之,
未至,公夢疾為二豎子曰,
彼良醫也,懼傷我,焉逃之,
其一曰,居肓之上,膏之下,若我何,
醫至,曰,
疾不可為也,在肓之上,膏之下,攻之不可,
達之不及,藥不至焉,不可為也,
公曰,良醫也,
厚為之禮而歸之.

<春秋左氏伝・成公十年>

【訓】
晋の景公疾病なり。医を秦に求む。
秦伯、医の緩をして之 (これ) を為 (おさ) めしむ。
未だ至らざるに、公の夢に、疾二竪子と為りて曰わく、
彼は良医なり。我を傷つけんことを懼 (おそ) る。焉 (いずくにか) 之を逃れん、と。
其の一曰わく、肓の上、膏の下に居らば、我を若何(いかん)せん、と。
医至りて曰わく、
疾為むべからざるなり。肓の上、膏の下に在り、之を攻むるは不可なり。
之に達せんとするも及ばず。薬至らず。為むべからざるなり、と。
公曰わく、良医なりと。
厚く之を礼を為して之を帰らしむ。

【訳】
晋国の景公が病気になった。そこで良医を求めて秦国に依頼した。
秦の君主は、医者の「緩」という者を治療に向かわせた。
彼が景公のもとに到着するまでの間に、景公の夢に、病魔が二人の子供と現れて、こう言った。
「あいつは良医だ。僕たちを傷つけるのではないかと危ぶむ。どこに逃げたらいいだろう。」
一人がこう言った。「肓の上、膏の下にいれば、僕たちをどうすることもできないよ。」
ようやく医者が景公のもとに到着して、こう言った。
「この病気は治すことができません。肓の上、膏の下に邪気が入っています。これを攻めて追い出すことはできません。これに鍼を刺しても届かず、薬もここには到達しません。治療することはできません。」
景公はこう言った。「良く診立てる医者だ。」
厚く謝礼を尽くして彼を帰国させた。

この2人の子供は、肓 (横隔膜の上っ面) の上、膏 (心臓下部) の下、つまり膜原の上にいるのです。2人…というのが面白いですね。膜原に入る邪気は湿熱です。湿邪・熱邪という邪気がここに隠れたと言えるでしょう。

腹膜と膜原

寒氣客於腸胃之間.膜原之下.…寒氣客於小腸.膜原之間.<素問・擧痛論 39>

【訳】寒気が腸胃の間と膜原との間隙に客する (やって来てとどまる) 。寒気が小腸と膜原の間に客する。

(虚邪) 傳舍於腸胃之外.募原之間.<霊枢・百病始生66>

【訳】 (虚に乗じて邪気が) 腸胃の外、膜原との間隙に伝舎する (伝わってとどまる) 。

募原者,肠胃外之膏膜……肠胃之脂膜也.<霊枢集注・張志聡>

【訳】膜原は、腸胃の外にある膜である。

横隔膜だけでなく、腹膜も膜原である。

生命を上下のあるものと見た時、膜原 (横隔膜) を隔 (へだ) てて上 (心筋) は陽で澄んでおり、下 (腸胃) は陰で濁っています。

生命を上下のない球形と見た時、膜原 (腹膜) を隔てて外 (腹筋・背筋) は陽で澄んでおり、内は陰 (腸胃) で濁っています。

広義の膜原

素問から得られる発想

衞者.水穀之悍氣也.其氣慓疾滑利.不能入於脉也.故循皮膚之中.分肉之間.熏於肓膜.散於胸腹.
<素問・痺論 43>

【訳】
衛気は水穀の猛々しい気である。素早くなめらかで、脈の中だけに収まりきらない。皮膚の中・分肉の間を巡り、肓膜 (=膜原・横隔膜) を燻じ温めて胸 (上焦) と腹 (中下焦) に散布する。

  • 脈…気と血の境界。
  • 皮膚…外界と生命の境界。
  • 分肉之間…
    ・白肉と赤肉の境界。白肉 (白や肌色は気分の色) は肌肉、赤肉 (赤は営血分の色) は筋膜を指すか。「間」とは隔てるもののことであり、膜のことである。ここでの「間」は筋膜のことをさすか。 >> “膜,謂膈之膜”《“膜原” 王冰注》… 間を隔てるものが膜である。
    ・また、 “肉之大會爲谷.肉之小會爲谿.肉分之間.谿谷之會” 《素問・氣穴論58》とあるように、肉に水穀之精が流れ込むところが “肉分之間” でもある。谷の字源会の字源を見よ。
  • 肓膜…上焦と中下焦の境界。横隔膜 (膜原) のこと。

衛気は膜原に達して邪を散らすことが分かります。左氏伝にでてきた “良医” は、名医ではなかったということです。病が膏肓に入っても邪気を散じることができる、と痿論では言っております。

「分肉の間」は筋膜であり、膜であると言う仮説から、もうすこし話を広げます。

肺主身之皮毛.
心主身之血脉.
肝主身之筋膜.
脾主身之肌肉.
腎主身之骨髓.
<素問・痿論 44>

皮の中に毛根を蔵する。皮の下に毛根がある。
脈の中に血を蔵する。 脈の下に血がある。
膜の中に筋を蔵する。 膜の下に筋がある。
肌の中に肉を蔵する。 肌の下に肉がある。
骨の中に髄を蔵する。 骨の下に髄がある。

皮・脈・膜・肌・骨は、すべて広義の膜といえないでしょうか。

膜,筋膜也。原,肓之原也。<類経・諸卒痛>

膜とは、陰と陽つまり異なる性質のものを隔 (へだ) てる境界です。邪気はみな、 “広義の膜 ” に結集するということが言えるでしょう。

周学海<読医随筆>の説

同じような考え方を、清代の周学海が展開しています。 “膜原” を皮膚にまで普遍させています。

膜原者,夹缝 (すきま) 之処也。
人之一身,
皮裏肉外,皮与肉之交際 (接触する処) 有隙焉,即原也。
膜托※腹裏,膜与腹之交際有隙焉,即原也。
腸胃之体皆夹層※,夹層之中,即原也。
臓腑之系,形如脂膜,夹層中空,即原也。
膈肓之体,横隔中焦,夹層中空,莫非原也。
<読医随筆 (周学海) >

【訳】
膜原はスキマの処である。
人の一身は、
皮膚の裏、筋肉の外、皮膚と筋肉の隣接するところにスキマがある、これが原である。
膜は内蔵を包むように支え、膜と内臓の隣接するところにスキマがある、これが原である。
  ※托… (手のひらなどで物を) 支える・受ける・載せる。
腸胃の形体は、みな “はさみ層” になっており、はさみ層の中間部分、これが原である。
  ※夹層…はさみ層。いくつかの地層が重なり、他の二層に挟まれている層のこと。
      サンドイッチの中の具の層。
臓腑の系統は、形が脂膜のようであり、はさみ層の中間部分、これが原である。
膈肓の形体は、中焦を横に隔 (へだ) てており、はさみ層の中間部分、原でないはずがない。

膜原は、「三焦の門戸」「一身の半表半裏」と言われます。その意味が周学海の説を理解すると分かりやすくなります。以下に展開します。

三焦の門戸、一身の半表半裏

膜者横膈之膜、原者空隙之処、外通肌腠,内近胃腑,即三焦之関鍵,為内外交界之地,実一身之半表半裏也。<通俗傷寒論 (何秀山) >

【訳】膜は横に膈てる膜であり、原はスキマである。外は皮膚に通じ、内は胃腑に近い。すなわち三焦の関所の鍵であり、内外が隣接する境界の地である。まさしく一身の半表半裏である。

凡外邪每由膜原入内,内邪每由膜原达外。<通俗傷寒論 (何秀山)>

【訳】外邪は常に膜原から内に入る。内邪は常に膜原から外に到達する。

膜原者,外通肌肉,内近胃腑,即三焦之門戸,実一身之半表半裏也。<湿熱病篇 (薛生白) >

【訳】膜原は、外は筋肉に通じ、内は胃腑などの腹腔内の内臓に隣接している。よって “三焦の門戸” であり、実に “一身の半表半裏” である。

膜原は、外邪から生命を守るための重要な関所であることが分かります。
膜原は、内邪をそとに排出するための重要な関所であることが分かります。

その関所の “鍵” を誰が持つのか。外邪が持てば、平らで居心地の良い原の上に、上は膜という屋根に覆われた快適な居住区域に、外から自由に入られてしまいます。正気が持てば、その守られた居住区域のドアを開けて踏み込み、追い出すことができるでしょう。

そしてその関所は、生命の上下・内外のあらゆる場所に設けられています。敵が攻め入りにくい複雑な城郭、いやそれ以上の用意周到な多層構造で、敵の侵入を阻んでいるのです。

半表半裏の関所は一箇所ではありません。城郭でさえ、外堀・内堀・土塁・石垣・虎口 (城門) など、ありとあらゆる方法で、様々な位置に “関所” を設けています。敵がどの程度まで攻め込んできたかにによって、どこまでが “城内” で、どこからが “城外” かがコロコロと変わります。敵がどこに攻め込んできたかによって、味方を結集すべき場所が変わります。

その時々の状況によって、半表半裏の位置は変わります。
その時々の状況によって、三焦のどの部分に外邪が入るかが変わります。

三焦とは、本来一つの生命であるものを、上中下の3つに分けたものです。上中下は表中裏にも通じます。さらに、3つという分け方は、陽・境界・陰という分け方で、さきほど言うように、細分化すればきりがない、それこそ細胞の数が “兆” の桁であるように、無限に分けることができるのです。細胞の境界は細胞膜ですね。その “膜” の一つ一つが「半表半裏」であり「三焦の門戸」なのです。

膜原は境界

ここまで、かなり解剖学的な記述が多くなりました。

「膜」という概念は、 “隠れて見えない” “邪が集まる” などの機能的な意味もありますが、「膜」自体はモノであって、かなり物質的に寄せた概念です。

「原」も “丸い高台” という物質的な意味合いと、 “病の源流” という機能的な側面を両方兼ね備えています。

癘気 (ウイルス) という物質的なもの、湿邪 (水) という有形のもの、これらに対応するためであると考えられます。

陰は物質で、陽は機能です。東洋医学は、その「陰陽の境界」にアプローチすることによって、機能だけではなく、物質にまで切り込むことができます。黄疸…東洋医学から見た7つの原因と治療法 では、胆管閉塞によるビリルビンの血管内への逆流という物質的原因、これを取り去るメカニズムを境界へのアプローチによって説明しました。参考にしてください。

膜原は上下清濁・内外清濁の境界です。切腹して腸の内容物がもれると臭いそうですね。濁った腹腔内を仕切る「膜」は、まさに境界そのものと言えるでしょう。

陰陽の境界に、以下に切り込むか。

そのアプローチの方法は? それを知っているかいないかがポイントです。関所の門戸を開ける “マスターキー” 、この鍵さえ手に入れるならば、三焦のいかなる場所に病が入ろうとも、敵が潜伏する隠れ家を暴くことができるのです。

陰陽を知ること、これに帰着します。

傷寒論に見る膜原

清濁の境界

傷寒論141条に「膈」の文字が見られます。

太陽病、脈浮而動数、頭痛、発熱、微盗汗出、而反悪寒者、表未解也、
医反下之、動数変遅、
内拒痛、胃中空虚、客気動、短気躁煩、心中懊憹、
陽気内陥、心下因鞕、則為結胸、大陥胸湯主之、
<傷寒論>

【訳】
太陽病で、すでに動数…つまり滑数 (強い内熱) +短 (強い寒邪による気滞) となり、一部内陥しつつ、表は未解である。
先表後裏が原則なのに、医者が誤下し中下焦を虚寒にして、それは強い水邪を生んだ。よって脈は遅脈 (寒証:水邪による冷え) となった。
膈 (季肋部) は拒按で実証であり、なのに胃は空虚で虚証、もちろん陽明病ではない。これは邪気が膈に入り膈を動揺させたのだ。だから極端な虚寒証と実熱証が同時に見られるのである。膈が侵されると、上にある心臓に波及してハアハアして煩躁し心中懊悩する。
膈に火邪と水邪が内陥すると、水は有形邪なので心下は硬くなり、火邪の熱をますます激しくして、結胸を起こしてしまう。大陥胸湯が主治する。

【解説】
膈の上には心・肺・脳があり、天空のように軽く清らかです。
膈の下には腸胃があって、大地のように重く濁っています。

鬲肓之上,中有父母。<素問・刺禁論>

素問では、横隔膜の上っ面 (肓) の上には心臓があり、その中には、父母とも言える生命の根源がある、と言っているかのようです。横隔膜の上には尊い父母が住まいし、横隔膜の下は食べ物が腐熟して卑しく汚れています。上は陽で尊く澄んでおり、下は陰で卑しく濁っています。

膈は、清濁という陰陽の境界です。

湿と熱が募 (あつ) まる

この場所 (心下部・季肋部) は、熱と水の境界に位置し、これらが結集しやすい場所です。

熱は機能的で、清 (軽・昇) の性質があります。
水は物質的で、濁 (重・降) の性質があります。腸の内容物と同じです。

体というものは、悪くなればなるほど、寒熱 (水と熱) が同時に存在し、虚実が同時に存在し、表裏のケジメが無くなるものです。

この条文では、誤下によって起こった水寒の邪が、すでに膈のあたりで待機しているところに、内陥化火した火熱の邪が入ってきて、水ナベに焼け石を入れたときのように、激しく突沸したのでしょう。結胸証は水熱互結と言われます。

湿熱疫もよく似ています。湿邪と熱邪です。同様に膈 (膜原) に邪が入ります。違うのは、侵入する前から湿と熱は結びついていた、というところです。COVID-19は最初から激しい症状を起こさないと言われます。

そもそもこういう湿邪 (陰) と熱邪 (陽) は、仲良く結びつくとなかなか結束が固いものです。仲の良い夫婦のような陰陽になります。
気温が高ければ高いほど水蒸気はたくさん入れます。飽和水蒸気量です。
水があればあるほど熱は破壊力を増します。サウナでは90℃で平気でも、お湯の90℃は死んでしまいますね。医療で使う滅菌も湿熱で微生物を壊滅状態にします。

少陽病を熟知する

このような陰・陽で性格を異にする邪気が出会うのは「膈」です。つまり膜原です。清 (軽い火熱) と濁 (重い水寒) とを分ける境界部分だからです。こういう場合は必ず、虚実という陰陽も、表裏という陰陽も、同時に存在して錯雑になります。つまり、寒熱錯雑、虚実錯雑、表裏同病なのです。

湿熱疫が少陽病のような症状があるのは、こういう理由があるからです。

治療が難しいのは当然です。何がどう難しいかを分かっていなければ、治療にならないでしょう。少陽病がどれだけ複雑なものか、それを熟知していなければ治療にならないと思います。

こういう邪気としての陰陽がのびのびとできず、せせこましい膈に集まってくるのは、正気としての陰陽がもともとのびのびできておらず、せせこましい思いをしているからです。正気を補いつつ邪気を祛い、陰陽の幅をゆったりと大きく持っていく。そうすると、陰陽の振り子は大きく揺れだすに違いありません。

陰陽の振り子が揺れる。陰は陰らしく、陽は陽らしく。たとえば、夜は夜らしく熟睡し、昼は昼らしく快活に動く。これができれば治らない病気など無いでしょう。

予防

外邪としての湿熱を体内に入れないためには、まず体内に湿熱を溜めないことです。体内に湿熱があると、外の湿熱とどうしても くっつき合ってしまいます。

  • 腹八分目、間食せずにご飯時にお菓子を食べるようにすれば、内湿を溜めません。
  • 早寝早起き、これは暗い時間帯の睡眠時間を長くし、陰を養って内熱を溜めません。
  • 今の生活のスピードが10とすれば、8に落とす。これで気持ちが落ち着き、内風が起こりません。内風は外の風邪と連絡を取り合い、僅かなスキマから侵入し、僅かなスキマ (肓の上、膏の下) に流入します。その風邪の後ろについて、恐ろしい湿熱の温邪が入ってくるのです。

外邪って何だろう
湿熱とは◀浮腫 (むくみ) …東洋医学から見た5つの原因と治療法        
湿熱とは…邪熱のステージ◀正気と邪気って何だろう

食飮有節.起居有常.不妄作勞.故能形與神倶.而盡終其天年.度百歳乃去.
<素問・上古天眞論 01>

【訳】飲食の節度を守り、規則正しい生活を行い、無理をし過ぎない。だから肉体も精神もバランスが取れ、天寿を全うし、百歳まで命を長らえる。

無欲恬淡こそが根底にあるべきでしょう。

いまの地球温暖化は、我々の欲の行き過ぎが原因です。温暖化は間違いなく、外邪としての「熱邪」を強くしています。熱が強くなればなるほど、そこに挟む「湿邪」の量も多くなります。

湿熱の温邪をつくっているのは、疫病をつくっているのは、ほかならぬ我々自身だったのです。

恬惔虚無.眞氣從之.<素問・上古天眞論 01>

【訳】恬淡虚無、生命力はこれに従 (つ) いてくる。

今般の COVID-19 は、東洋医学的には疫病すなわち「温疫」に該当します。これに対応するには「膜原」 (まくげん) という概念が重要であると言われます。

初心の方には難しい内容ですが、末尾の ▶予防 は参考になるので目を通してみてください。

温疫とは、温病学の中の概念です。温病のなかで強烈な伝染性と流行性を持つものを、とくに温疫と言います。

以前から、温病学を学ぶ中で、「膜原」という言葉は知ってはいました。ただし理解は浅いもので、

  • 膜原は温疫 (湿熱疫) の邪が入るところである。
  • 伏邪 (隠れた外邪) として膜原に潜伏する。
  • 膜原=少陽。

と理解しておけばいいのかな…という認識しかありませんでした。

もう少し具体的な理解が必要だと感じ、詳しく調べてみました。

温病とは

温病と温疫

温邪による病変を温病と言います。

温病 (広義) は以下のように分類されます。温病の分類◀温病って何だろう…六淫との関係 にまとめたものを引用します。

▶温病 (狭義)
 1.風温…風熱の邪。四季を通じて発症。春と冬が多い。冬の風温を “冬温” ともいう。
 2.春温…伏邪温病。冬に寒邪に犯され内陥潜伏し、春に化火して発症する。
 3.暑温…暑熱の邪 (夏至以降) に侵されたもの。病の悪化変遷が早い。
 4.秋燥…燥熱の邪。日本は湿潤気候なのであまり見られない。
 5.湿温…湿熱の邪。雨季に発症。軽症は衛分を犯す。重症は膜原を犯す。
 6,伏暑…伏邪温病。夏に暑邪 (暑湿の邪) に犯され内陥潜伏し、秋冬に発症する。

▶温疫
 1.温熱疫…温熱癘気の邪。四季を通じて発症するが春が多い。初期から気分証が即見される。楊栗山 “虽有表証,実無表邪.”
 2.暑熱疫…暑熱癘気の邪。干ばつ猛暑で多発。驚くほど早い展開で、激しい表裏内外にまたがる症状。悪寒・体痛・高熱・出血など。
 3.湿熱疫…湿熱癘気の邪。夏の暑湿多雨で発症する。特に強烈な伝染性を持ち、凶暴険呑。膜原に潜伏する。白厚膩苔、重度のもの積粉苔が見られる。

温病の分類◀温病って何だろう…六淫との関係

癘気 (れいき) とは強い感染力を持つ邪気のことです。新型コロナウイルスはこれに該当します。

湿熱疫と新型コロナ

今般のCOVID-19は、伝染性が長期に渡るという意味で温疫に相当します。
その分類の中では湿熱疫が最も近い概念となります。

湿熱疫の最も大きな特徴は、最初から湿熱の邪が「膜原」に侵入し、そこを本拠地として、上下・内外・深浅に行くということです。浅部では太陽病・陽明経証・少陽病に、深部では五臓六腑・営血分に波及します。浅部に出てそのまま外泄できればいいのですが、深部に邪が入ると重症化します。ほとんどが肺に邪が入ることによって重症化しています。

COVID-19は、発症して最初のうちは普通のカゼと変わらない症状で、それが何日か続き、突然重症化するという特徴があります。この時点で温熱疫・暑熱疫の急激な発症の仕方とは大きく異なります。感染と同時に「膜原」に入った邪が、最初はおとなしく浅部に支部隊を出し、多少の症状を出したり入れたりしながら、しかし、「膜原」の邪の本部隊は潜伏したままで力を保っており、機を見て深部 (肺) に向かって襲いかかるのです。

黄帝内経にみる膜原

“募原” とは

其間日發者.由邪氣内薄於五藏.横連募原也.其道遠.其氣深.其行遲.不能與衞氣倶行.不得皆出.故間日乃作也.
<素問・瘧論 35>

【訳】
日を隔てて瘧の発作を起こすのは、
① (上から入った) 邪気が (下にある) 五臓に肉薄したからである。五臓には、隣接して連なるように募原 (=膜原・横隔膜) が横たわっている。
② (外から入った) 邪気が (内にある) 五臓に肉薄したからである。五臓には、すぐ横に募原 (=膜原・腹膜・胸膜) が連なって隣接している。
邪気がそこまで到達するには遠く深く時間がかかっている。よって衛気は邪気をマークしきれず、すべてを追い出し切ることができない。

「募原」とは膜原のことです。

其作募者,之讹尔。<素問釈義・伊沢裳軒>

「募」は「幕」のことです。

膜本取義于帷幕之幕,膜間薄皮,遮隔濁気者,尤幕之在上,故谓之,因従肉作
<素問識・丹波元簡>

「幕」が「膜」の本来の意味です。膜は “帷幕” の幕に本義があります。

膈募之原系。<“膜原” 王冰注>

膈募とは膈幕 (膈膜) のことです。つまり横隔膜のことです。

膜とは

膜は「月 (肉) +幕」です。素問・瘧論では「幕」ではなく「募」をつかっています。

幕 (募) とは何でしょう。

「莫」は「艸 (草) +日+艸」で、 “覆われて見えない” という意味です。 “莫 (な) い” と訓読します。「暮」の原字でもあります。「墓」は「莫+土」でイメージしやすいですね。
「幕」は「莫+巾 (布) 」で、 “覆って見えなくする布” という意味です。
「募」は、寂寞さが「力」によって陰陽転化して “結集する” 意味があります。募金なんかそうですね。お金が莫 (な) いから募 (つの) る。

幕は帷幕 (本拠地) の幕です。 “幕府” などは将軍を見えなくするために幕を張ったことが語源です。本拠地には続々と、しかも暗々裏に味方が募 (あつ) まります。

「膜」とは、人体組織において幕のように覆うものです。それは指揮官の本拠地であり、隠れて見えにくく、攻め難い場所にあります。そこには同心の武士 (もののふ) が闇に紛れて集まってきます。古人は人体を解剖し、陣幕のようにおおう膜をみて、邪気の帷幕を連想したのかも知れません。

邪が暗々裏に募 (あつ) まる。

原とは

「原」は「厂+泉」です。
厂は崖です。
泉は「白+水」です。
白はどんぐり (白い顔料を取るのに用いられた) のことです。または頭蓋骨のことです。共通するのは “丸い” ということです。白には丸いというイメージがあります。
「泉」はつまり、こんこんと湧く丸い水たまりのことです。

また「原」は “高原” “高くて平らな地形” の意味もありますね。美しい湧き水は高原から発するという意味でつながります。

原者,平野広大之謂也。故能邪伏其中。<读医随笔・周学海 >

「原」は断崖で湧く泉、すなわち源流のことで、分水嶺のことです。東にも西にも流れていく可能性を秘めています。

ちなみに東洋医学では “原気” のことを “元気” ともいいます。原と元は意味がつながっています。

「元」は丸い頭の下に儿 (人体を示す) を置いたもので、頭を強調した人体の象形です。頭は丸いですね。つまり、これも「原」と同じく “丸い” のです。“泉”と “頭” はともに高い位置 (トップ) にあり、源流・元締めという意味で「原」と「元」は意味がつながっています。

「原」とはまるで小高い丘のように、人体組織のい位置にあり、くてらな場所、すなわち横隔膜の上面です。そこは高い位にある指揮官が、命令を四方八方に発信する場所です。邪気がそこにある限り、絶えることなく湧く泉のように、上下内外に向かってランダムに波及します。源流を絶たなければ治ることのない病気です。

邪が高い水源から四方に波及する。

難攻不落の高台に、陣幕を張りめぐらせて見えづらくし、同心の味方を暗々裏に募り、四方に部隊を派遣する。そういうイメージが「膜原」という文字から読み取れます。

膏肓とは

もう少し古籍を巡ってみましょう。

膜,謂膈間之膜。原,謂膈肓之原。<“膜原” 王冰注>

【訳】
膜は、膈の間隙にある横隔膜のことである。
原は、横隔膜の上っ面の丸い平面である。

「肓」という字が出てきました。

·心下有微脂為鬲上有薄膜為也。<素問識・丹波元簡>

【訳】
心筋下部 (心尖) には微かに脂 (あぶら) があり、これを膏という。
横隔膜の上部には薄い膜があり、これを肓という。

「肓」は「亡+月 (肉)」であり、亡は “見えない” の意味があります。盲はその例です。
「肓」とは、膈の上にある膜のことです。見えないところにあります。「原」の字源…高い位置の平らな場所…と重ねると、横隔膜の上面 (心臓側) がイメージできます。上から見ると丸いので、そこも「原」の原義と合致します。

病膏肓に入る

“病膏肓に入る” という言葉があります。病気が重くなって治療のしようがないものをいいます。
出典は「春秋左氏伝・成公十年」です。

晋景公疾病,求醫于秦,秦伯使醫緩為之,
未至,公夢疾為二豎子曰,
彼良醫也,懼傷我,焉逃之,
其一曰,居肓之上,膏之下,若我何,
醫至,曰,
疾不可為也,在肓之上,膏之下,攻之不可,
達之不及,藥不至焉,不可為也,
公曰,良醫也,
厚為之禮而歸之.

<春秋左氏伝・成公十年>

【訓】
晋の景公疾病なり。医を秦に求む。
秦伯、医の緩をして之 (これ) を為 (おさ) めしむ。
未だ至らざるに、公の夢に、疾二竪子と為りて曰わく、
彼は良医なり。我を傷つけんことを懼 (おそ) る。焉 (いずくにか) 之を逃れん、と。
其の一曰わく、肓の上、膏の下に居らば、我を若何(いかん)せん、と。
医至りて曰わく、
疾為むべからざるなり。肓の上、膏の下に在り、之を攻むるは不可なり。
之に達せんとするも及ばず。薬至らず。為むべからざるなり、と。
公曰わく、良医なりと。
厚く之を礼を為して之を帰らしむ。

【訳】
晋国の景公が病気になった。そこで良医を求めて秦国に依頼した。
秦の君主は、医者の「緩」という者を治療に向かわせた。
彼が景公のもとに到着するまでの間に、景公の夢に、病魔が二人の子供と現れて、こう言った。
「あいつは良医だ。僕たちを傷つけるのではないかと危ぶむ。どこに逃げたらいいだろう。」
一人がこう言った。「肓の上、膏の下にいれば、僕たちをどうすることもできないよ。」
ようやく医者が景公のもとに到着して、こう言った。
「この病気は治すことができません。肓の上、膏の下に邪気が入っています。これを攻めて追い出すことはできません。これに鍼を刺しても届かず、薬もここには到達しません。治療することはできません。」
景公はこう言った。「良く診立てる医者だ。」
厚く謝礼を尽くして彼を帰国させた。

この2人の子供は、肓 (横隔膜の上っ面) の上、膏 (心臓下部) の下、つまり膜原の上にいるのです。2人…というのが面白いですね。膜原に入る邪気は湿熱です。湿邪・熱邪という邪気がここに隠れたと言えるでしょう。

腹膜と膜原

寒氣客於腸胃之間.膜原之下.…寒氣客於小腸.膜原之間.<素問・擧痛論 39>

【訳】寒気が腸胃の間と膜原との間隙に客する (やって来てとどまる) 。寒気が小腸と膜原の間に客する。

(虚邪) 傳舍於腸胃之外.募原之間.<霊枢・百病始生66>

【訳】 (虚に乗じて邪気が) 腸胃の外、膜原との間隙に伝舎する (伝わってとどまる) 。

募原者,肠胃外之膏膜……肠胃之脂膜也.<霊枢集注・張志聡>

【訳】膜原は、腸胃の外にある膜である。

横隔膜だけでなく、腹膜も膜原である。

生命を上下のあるものと見た時、膜原 (横隔膜) を隔 (へだ) てて上 (心筋) は陽で澄んでおり、下 (腸胃) は陰で濁っています。

生命を上下のない球形と見た時、膜原 (腹膜) を隔てて外 (腹筋・背筋) は陽で澄んでおり、内は陰 (腸胃) で濁っています。

広義の膜原

素問から得られる発想

衞者.水穀之悍氣也.其氣慓疾滑利.不能入於脉也.故循皮膚之中.分肉之間.熏於肓膜.散於胸腹.
<素問・痺論 43>

【訳】
衛気は水穀の猛々しい気である。素早くなめらかで、脈の中だけに収まりきらない。皮膚の中・分肉の間を巡り、肓膜 (=膜原・横隔膜) を燻じ温めて胸 (上焦) と腹 (中下焦) に散布する。

  • 脈…気と血の境界。
  • 皮膚…外界と生命の境界。
  • 分肉之間…白肉と赤肉の境界。白肉 (白は気分の色) は肌肉、赤肉 (赤は営血分の色) は筋膜を指すか。「間」とは隔てるもののことであり、膜のことである。ここでの「間」は筋膜のことをさすか。
    ▶膜,謂膈之膜。<“膜原” 王冰注>
  • 肓膜…上焦と中下焦の境界。横隔膜 (膜原) のこと。

衛気は膜原に達して邪を散らすことが分かります。左氏伝にでてきた “良医” は、名医ではなかったということです。病が膏肓に入っても邪気を散じることができる、と痿論では言っております。

「分肉の間」は筋膜であり、膜であると言う仮説から、もうすこし話を広げます。

肺主身之皮毛.
心主身之血脉.
肝主身之筋膜.
脾主身之肌肉.
腎主身之骨髓.
<素問・痿論 44>

皮の中に毛根を蔵する。皮の下に毛根がある。
脈の中に血を蔵する。 脈の下に血がある。
膜の中に筋を蔵する。 膜の下に筋がある。
肌の中に肉を蔵する。 肌の下に肉がある。
骨の中に髄を蔵する。 骨の下に髄がある。

皮・脈・膜・肌・骨は、すべて広義の膜といえないでしょうか。

膜,筋膜也。原,肓之原也。<類経・諸卒痛>

膜とは、陰と陽つまり異なる性質のものを隔 (へだ) てる境界です。邪気はみな、 “広義の膜 ” に結集するということが言えるでしょう。

周学海<読医随筆>の説

同じような考え方を、清代の周学海が展開しています。 “膜原” を皮膚にまで普遍させています。

膜原者,夹缝 (すきま) 之処也。
人之一身,
皮裏肉外,皮与肉之交際 (接触する処) 有隙焉,即原也。
膜托※腹裏,膜与腹之交際有隙焉,即原也。
腸胃之体皆夹層※,夹層之中,即原也。
臓腑之系,形如脂膜,夹層中空,即原也。
膈肓之体,横隔中焦,夹層中空,莫非原也。
<読医随筆 (周学海) >

【訳】
膜原はスキマの処である。
人の一身は、
皮膚の裏、筋肉の外、皮膚と筋肉の隣接するところにスキマがある、これが原である。
膜は内蔵を包むように支え、膜と内臓の隣接するところにスキマがある、これが原である。
  ※托… (手のひらなどで物を) 支える・受ける・載せる。
腸胃の形体は、みな “はさみ層” になっており、はさみ層の中間部分、これが原である。
  ※夹層…はさみ層。いくつかの地層が重なり、他の二層に挟まれている層のこと。
      サンドイッチの中の具の層。
臓腑の系統は、形が脂膜のようであり、はさみ層の中間部分、これが原である。
膈肓の形体は、中焦を横に隔 (へだ) てており、はさみ層の中間部分、原でないはずがない。

膜原は、「三焦の門戸」「一身の半表半裏」と言われます。その意味が周学海の説を理解すると分かりやすくなります。以下に展開します。

三焦の門戸、一身の半表半裏

膜者横膈之膜、原者空隙之処、外通肌腠,内近胃腑,即三焦之関鍵,為内外交界之地,実一身之半表半裏也。<通俗傷寒論 (何秀山) >

【訳】膜は横に膈てる膜であり、原はスキマである。外は皮膚に通じ、内は胃腑に近い。すなわち三焦の関所の鍵であり、内外が隣接する境界の地である。まさしく一身の半表半裏である。

凡外邪每由膜原入内,内邪每由膜原达外。<通俗傷寒論 (何秀山)>

【訳】外邪は常に膜原から内に入る。内邪は常に膜原から外に到達する。

膜原者,外通肌肉,内近胃腑,即三焦之門戸,実一身之半表半裏也。<湿熱病篇 (薛生白) >

【訳】膜原は、外は筋肉に通じ、内は胃腑などの腹腔内の内臓に隣接している。よって “三焦の門戸” であり、実に “一身の半表半裏” である。

膜原は、外邪から生命を守るための重要な関所であることが分かります。
膜原は、内邪をそとに排出するための重要な関所であることが分かります。

その関所の “鍵” を誰が持つのか。外邪が持てば、平らで居心地の良い原の上に、上は膜という屋根に覆われた快適な居住区域に、外から自由に入られてしまいます。正気が持てば、その守られた居住区域のドアを開けて踏み込み、追い出すことができるでしょう。

そしてその関所は、生命の上下・内外のあらゆる場所に設けられています。敵が攻め入りにくい複雑な城郭、いやそれ以上の用意周到な多層構造で、敵の侵入を阻んでいるのです。

半表半裏の関所は一箇所ではありません。城郭でさえ、外堀・内堀・土塁・石垣・虎口 (城門) など、ありとあらゆる方法で、様々な位置に “関所” を設けています。敵がどの程度まで攻め込んできたかにによって、どこまでが “城内” で、どこからが “城外” かがコロコロと変わります。敵がどこに攻め込んできたかによって、味方を結集すべき場所が変わります。

その時々の状況によって、半表半裏の位置は変わります。
その時々の状況によって、三焦のどの部分に外邪が入るかが変わります。

三焦とは、本来一つの生命であるものを、上中下の3つに分けたものです。上中下は表中裏にも通じます。さらに、3つという分け方は、陽・境界・陰という分け方で、さきほど言うように、細分化すればきりがない、それこそ細胞の数が “兆” の桁であるように、無限に分けることができるのです。細胞の境界は細胞膜ですね。その “膜” の一つ一つが「半表半裏」であり「三焦の門戸」なのです。

膜原は境界

ここまで、かなり解剖学的な記述が多くなりました。

「膜」という概念は、 “隠れて見えない” “邪が集まる” などの機能的な意味もありますが、「膜」自体はモノであって、かなり物質的に寄せた概念です。

「原」も “丸い高台” という物質的な意味合いと、 “病の源流” という機能的な側面を両方兼ね備えています。

癘気 (ウイルス) という物質的なもの、湿邪 (水) という有形のもの、これらに対応するためであると考えられます。

陰は物質で、陽は機能です。東洋医学は、その「陰陽の境界」にアプローチすることによって、機能だけではなく、物質にまで切り込むことができます。黄疸…東洋医学から見た7つの原因と治療法 では、胆管閉塞によるビリルビンの血管内への逆流という物質的原因、これを取り去るメカニズムを境界へのアプローチによって説明しました。参考にしてください。

膜原は上下清濁・内外清濁の境界です。切腹して腸の内容物がもれると臭いそうですね。濁った腹腔内を仕切る「膜」は、まさに境界そのものと言えるでしょう。

陰陽の境界に、以下に切り込むか。

そのアプローチの方法は? それを知っているかいないかがポイントです。関所の門戸を開ける “マスターキー” 、この鍵さえ手に入れるならば、三焦のいかなる場所に病が入ろうとも、敵が潜伏する隠れ家を暴くことができるのです。

陰陽を知ること、これに帰着します。

傷寒論に見る膜原

清濁の境界

傷寒論141条に「膈」の文字が見られます。

太陽病、脈浮而動数、頭痛、発熱、微盗汗出、而反悪寒者、表未解也、
医反下之、動数変遅、
内拒痛、胃中空虚、客気動、短気躁煩、心中懊憹、
陽気内陥、心下因鞕、則為結胸、大陥胸湯主之、
<傷寒論>

【訳】
太陽病で、すでに動数…つまり滑数 (強い内熱) +短 (強い寒邪による気滞) となり、一部内陥しつつ、表は未解である。
先表後裏が原則なのに、医者が誤下し中下焦を虚寒にして、それは強い水邪を生んだ。よって脈は遅脈 (寒証:水邪による冷え) となった。
膈 (季肋部) は拒按で実証であり、なのに胃は空虚で虚証、もちろん陽明病ではない。これは邪気が膈に入り膈を動揺させたのだ。だから極端な虚寒証と実熱証が同時に見られるのである。膈が侵されると、上にある心臓に波及してハアハアして煩躁し心中懊悩する。
膈に火邪と水邪が内陥すると、水は有形邪なので心下は硬くなり、火邪の熱をますます激しくして、結胸を起こしてしまう。大陥胸湯が主治する。

【解説】
膈の上には心・肺・脳があり、天空のように軽く清らかです。
膈の下には腸胃があって、大地のように重く濁っています。

鬲肓之上,中有父母。<素問・刺禁論>

素問では、横隔膜の上っ面 (肓) の上には心臓があり、その中には、父母とも言える生命の根源がある、と言っているかのようです。横隔膜の上には尊い父母が住まいし、横隔膜の下は食べ物が腐熟して卑しく汚れています。上は陽で尊く澄んでおり、下は陰で卑しく濁っています。

膈は、清濁という陰陽の境界です。

湿と熱が募 (あつ) まる

この場所 (心下部・季肋部) は、熱と水の境界に位置し、これらが結集しやすい場所です。

熱は機能的で、清 (軽・昇) の性質があります。
水は物質的で、濁 (重・降) の性質があります。腸の内容物と同じです。

体というものは、悪くなればなるほど、寒熱 (水と熱) が同時に存在し、虚実が同時に存在し、表裏のケジメが無くなるものです。

この条文では、誤下によって起こった水寒の邪が、すでに膈のあたりで待機しているところに、内陥化火した火熱の邪が入ってきて、水ナベに焼け石を入れたときのように、激しく突沸したのでしょう。結胸証は水熱互結と言われます。

湿熱疫もよく似ています。湿邪と熱邪です。同様に膈 (膜原) に邪が入ります。違うのは、侵入する前から湿と熱は結びついていた、というところです。COVID-19は最初から激しい症状を起こさないと言われます。

そもそもこういう湿邪 (陰) と熱邪 (陽) は、仲良く結びつくとなかなか結束が固いものです。仲の良い夫婦のような陰陽になります。
気温が高ければ高いほど水蒸気はたくさん入れます。飽和水蒸気量です。
水があればあるほど熱は破壊力を増します。サウナでは90℃で平気でも、お湯の90℃は死んでしまいますね。医療で使う滅菌も湿熱で微生物を壊滅状態にします。

少陽病を熟知する

このような陰・陽で性格を異にする邪気が出会うのは「膈」です。つまり膜原です。清 (軽い火熱) と濁 (重い水寒) とを分ける境界部分だからです。こういう場合は必ず、虚実という陰陽も、表裏という陰陽も、同時に存在して錯雑になります。つまり、寒熱錯雑、虚実錯雑、表裏同病なのです。

湿熱疫が少陽病のような症状があるのは、こういう理由があるからです。

治療が難しいのは当然です。何がどう難しいかを分かっていなければ、治療にならないでしょう。少陽病がどれだけ複雑なものか、それを熟知していなければ治療にならないと思います。

こういう邪気としての陰陽がのびのびとできず、せせこましい膈に集まってくるのは、正気としての陰陽がもともとのびのびできておらず、せせこましい思いをしているからです。正気を補いつつ邪気を祛い、陰陽の幅をゆったりと大きく持っていく。そうすると、陰陽の振り子は大きく揺れだすに違いありません。

陰陽の振り子が揺れる。陰は陰らしく、陽は陽らしく。たとえば、夜は夜らしく熟睡し、昼は昼らしく快活に動く。これができれば治らない病気など無いでしょう。

予防

外邪としての湿熱を体内に入れないためには、まず体内に湿熱を溜めないことです。体内に湿熱があると、外の湿熱とどうしても くっつき合ってしまいます。

  • 腹八分目、間食せずにご飯時にお菓子を食べるようにすれば、内湿を溜めません。
  • 早寝早起き、これは暗い時間帯の睡眠時間を長くし、陰を養って内熱を溜めません。
  • 今の生活のスピードが10とすれば、8に落とす。これで気持ちが落ち着き、内風が起こりません。内風は外の風邪と連絡を取り合い、僅かなスキマから侵入し、僅かなスキマ (肓の上、膏の下) に流入します。その風邪の後ろについて、恐ろしい湿熱の温邪が入ってくるのです。

外邪って何だろう
湿熱とは◀浮腫 (むくみ) …東洋医学から見た5つの原因と治療法        
湿熱とは…邪熱のステージ◀正気と邪気って何だろう

食飮有節.起居有常.不妄作勞.故能形與神倶.而盡終其天年.度百歳乃去.
<素問・上古天眞論 01>

【訳】飲食の節度を守り、規則正しい生活を行い、無理をし過ぎない。だから肉体も精神もバランスが取れ、天寿を全うし、百歳まで命を長らえる。

無欲恬淡こそが根底にあるべきでしょう。

いまの地球温暖化は、我々の欲の行き過ぎが原因です。温暖化は間違いなく、外邪としての「熱邪」を強くしています。熱が強くなればなるほど、そこに挟む「湿邪」の量も多くなります。

湿熱の温邪をつくっているのは、疫病をつくっているのは、ほかならぬ我々自身だったのです。

恬惔虚無.眞氣從之.<素問・上古天眞論 01>

【訳】恬淡虚無、生命力はこれに従 (つ) いてくる。

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