東洋医学の「空間」って何だろう

ここでいう空間とは、前後・上下・左右・内外のことです。東洋医学には、これらの概念を用いた「空間弁証」というものがあります。近年生まれたばかりの概念で、藤本連風という日本人が提唱したものです。まだ東洋医学の中で定説とはなっていませんが、いずれ中医診断学の中で説かれるべき内容です。

前後・上下・左右・内外というと、身近な言葉でもあり、漠然と理解してしまいがちです。しかし、突き詰めると非常に不思議な世界であることが分かります。さあ、どこまで踏み込めるのか。やってみましょう。

概論

空間は物質

そもそも東洋医学には各種の弁証があります。八綱弁証・臓腑経絡弁証・六経弁証・気血弁証・衛気営血弁証・正邪弁証・三焦弁証などがありますが、これらはすべて、病根はどこにあるかを様々な角度から立体的に分析するためのものです。病根とは、正気の弱りと邪気の強さ、のことです。

さきほど、「病根はどこに」という表現を使いましたが、「どこ」といっても具体的な物質的場所は示すことはできません。それができるのは物質を基礎にした医学である西洋医学のみです。東洋医学は機能を基礎にした医学です。機能は、目に見えず写真にも取れません。たとえば、
●脳 (物質) と心 (機能) の関係、
●砂糖の白い粉 (物質) と甘さ (機能) の関係
を考えると、機能が理解し難い概念である事と、機能が非常に重要な概念である事がお分かりいただけると思います。

機能とは、目に見えない、写真に撮れないものであるゆえに、東洋医学的な分析である各種弁証で、病根はどこかという理解は、機能的な考え方によってなされなければなりません。指で指し示せるものではないのです。

そういう側面から見て、空間弁証は異質です。病根は「どこ」という概念を方向 (前後・上下・左右・内外) によって示すことができるからです。さりとて、西洋医学のように「ここ」と物質的解剖学的に指し示すことはできませんが、空間は非常に物質的側面の濃い概念であると言えます。

空間は機能

人体には前後・上下・左右という方向 (空間) があります。これは当たり前のことではありません。河原の石に前後があるでしょうか。

たとえば、樹木。樹木には上下という概念はありますが、正面がないため、前後・左右がありません。例えば家。玄関が正面なので、前後・上下・左右ともにそろっています。例えば自動車。前後・左右・上下・内外という空間がすべてそろっています。河原の石は、もちろん前後・左右はありませんし、上下も仮のものならありますが、大雨で何時ひっくり返るか分からないので、厳密には上下もありません。

例えば動物。原始的なものは空間がそろっていないものもありますが、脊椎動物・昆虫は、前後・上下・左右・内外の空間がすべてそろっています。

いきなりヒトのような高等生物を論じるのは難しいですから、例えば自動車のような人間が作ったもので考えてみます。自動車は前に走るために存在しますね。この存在目的は人間の主観によるものです。人間が利用するための概念として前が位置付けられます。また家は住むため・客人を迎えるため…などの存在理由があります。だから正面があるのですが、ネコから見ればどこが玄関かなどはどうでもよいことなので前後は存在しません。

このように空間 (方向) は、誰かの主観によって位置づけられていることが見えてきます。これが生命においても同じであると考えてみましょう。

存在理由 (意味)  のあるものに空間は備わるのです。つまり、人体は存在理由があるからこそ、前後・上下・左右・内外が完備されているのです。命には意味があるのです。これはまさしく機能です。空間は機能的側面も兼ね備えていると言えます。

このように、空間は機能と物質を兼ね備えた概念と言えます。東洋医学が機能を基礎とした医学、西洋医学が物質を基礎とした医学であると、本ブログでは幾たびもご説明してきましたが、東洋医学の中に兼備の概念がある、それが空間です。この概念を通して東洋医学を見つめなおしたとき、どんな世界が見えてくるのでしょうか。

空間の誕生

人体生命の空間がどのように生まれるのか。受精卵は生命のはじめですが、この段階では前後・上下・左右は存在しませんね。空間の誕生とは…。それを考えるため、そもそも生命がどのようにして生まれたのか、という最大の謎に踏み込み、そこから話を展開したいと思います。

かつて、「けいれん…東洋医学から見た6つの原因と治療法」で、生命誕生の謎に言及しました。それをここに要約を掲載します。

『さて、水穀の精微は体液とつながり、体液は境界であり、物質的側面があります。栄養や水といった実体のあるものに生命は支えられているのは当然のことです。そもそも境界は物質的側面の色濃い概念です。陰陽が相対概念であり機能であるのとはすこし趣を異にします。

たとえば、左と右は物質ではなく機能 (実用) ですね。しかし、それらを決定づける境界は、「ここ」という実体のある場所 (物質) です。「ここ」が確定しなければ左右は存在しません。しかも、「ここ」は左右のもとに絶対的に確定した位置であるが、「ここ」をどこにするかは無限の選択枝があり、これは主観によってなされます。このように境界は、ただの物質ではなく、機能を生むための物質です。機能は主観によって価値づけられます。生命誕生の神秘を解くには、このような概念を理解することが方法の一つとなると思います。

「ここ」とはなにかというと、宇宙空間という物質の一部と、「われ」という主観 (機能) がここと定めた部分が重なる点です。つまり、「ここ」とは主観によって命 (機能) を吹き込まれた物質と言えます。その物質 (精) が実用 (機能) を生み、機能が実体をより高度なものにし、またその実体が実用を生む。受精卵が細胞分裂するさまは、この過程をたどります。精を解く難しさは生命誕生の謎を解く難しさにつながっています。

主観がなければ機能は生じません。例えば甘さ。これは甘さを好しとする主観があってこその機能 (実用) ですね。

もう一つ例を挙げて考えましょう。河原に大きな石が転がっているとします。そのままでは何の意味もない石ころですが、「漬物石にちょうどいいな」という主観が入ると、その時点で実用が生まれ、命が吹き込まれ、使命が生じます。ただの石ころのときは「物質」であったが、漬物石にちょうどよいという主観が入った瞬間に「精」が生じたのです。そして実際に漬物石として使われたとき、物質に「機能」がそなわるのです。この場合、石 (物質=陰) と漬物の重し (機能=陽) という陰陽の境界は「使おう」という主観と言えます。ただし、「使おう」はまだ使ってはいません。動に変化する寸前の静といえます。精は陰陽ともに生み出しはしますが、精そのものは陰静的で物質的と言われるのは、この部分だと思います。

ところで、機能の最も高度なものは「こころ」つまり意識です。もし漬物石の機能が高度化して意識となり、「自分は自分の力で漬物を漬けているのだ」と勘違いしたらどうでしょう。人体を、東洋医学では小宇宙と見ます。大自然と人は相似関係にあるのです。ツボが365個あり、天・地・海・雲・山・沢・谷などの文字を付した名称が多いのも、そういう哲学を反映しています。となれば、人に命があり意識があると同様、大自然にも命があり意識があると考えるのが当然です。東洋医学的な生命観です。精という命の根源について、かなり踏み込んだ説明を試みました。

このように考えると、命や機能・実用などというのは、自然発生的にできるものではなくして、誰かから与えられるものだと言えます。自分の力で生きていると考えるとそのうち行き詰まるが、生かされていると考えるとうまくいく…と言われるのも、それが真実を突いているからなのかもしれませんね。

易学では、天地開闢 (かいびゃく) 前の河図をみると、万物は水から生ずることになっています。しかも、この水は陽であるとされます。水とは本来は陰であり物質を象徴するものなのに、です。精は動を生む直前の静だと言いましたが、通じるものがあると思います。また、鍼灸で境界を動かすという意図で用いる督脈・任脈は、いずれも奇経です。奇経は生命を空間という実体と考えたときの輪郭となるもので、漬物石にしようと決めたときの石と同様の意味があると思います。』

生物学 (物質科学) を参考に展開

さて、このようにして生じた生命の原型 (精) ですが、これがどのようにして空間を持つ高等生命に発達していくのか、これを解いてみたいと思います。その際、道しるべにしたいのは西洋医学的な発生学です。受精卵や胚という物質には命という機能が備わっています。いま、解きたいのは命という機能の発生学ですが、細胞という物質における発生学を参考にするという方法を取りたいと思います。

このようなスタンスをとりながらも、ここで展開したい発生学は、あくまでも陰陽の発生学、つまり機能がどのようにして生まれていくかという過程である、ということから遠ざかってはなりません。生物学的な発生学は細胞という物質がどのように分裂して形体がどのように変化していくかという過程であるとすると、ここでの発生学は、見るという視点ではなく、感じとるという視点の方が正しいです。機能は見ることも写真にとることもできないという前提を離れず、展開していこうと思います。

その過程の中で、衝脈・任脈・督脈のなぞ、陽明のなぞ、陽蹻脈・陰蹻脈・少陽のなぞ、陽維脈・陰維脈のなぞ、奇恒の府のなぞにも触れたいと思います。

まず、生命の機能的形体について、2つのパターンを紹介し、そこから話を進めます。

陰陽の発生学 (前編)

球形とみた生命

たとえば、生命を地球や受精卵のような球形と考えてみます。

地球でコアに当たる部分がとなり、地球で地表や海面に当たる部分がとなり、いちおう内外は備わっています。しかし、上下・左右・前後はなく、内外という陰・陽の境界線も明確ではありません。

中心点であるコアには求心力があり、形体が維持できています。ハッキリと陰と言えるのは中心点、陽と言えるのは表面のみで、数学でいう「点」と概念が似ています。

筒状とみた生命

たとえば、生命をバウムクーヘン (輪切りにする前) のような筒状のものと考えてみます。

バウムクーヘンの穴は口から肛門につながる穴です。口と肛門ができた時点で、上下が生じます。同時に内外もハッキリします。しかし、この状態では顔や臍のような正面がありません。ですから、前後左右は存在しません。この筒の外側を太陽といい、内側を陽明といい、内外を分ける境界を少陽と言います。さっきの球形では陰と陽はざっくりと存在したものの未だカオス状態でしたが、この状態では、生命は複雑化・細分化・明確化されていることがよく分かります。

求心力は肝・脾・腎

球形の生命では、求心力が中心点にあると言いました。ハンマー投げを想像すると分かるように、求心力は遠心力を生むもとになります。そういう意味での求心力は、精と同義です。

精とは「動になる寸前の静」です。精は中心点であり境界です。

求心力は以下の3種に分けられます。これらが正に「三位一体」となって、精を形成するのです。先天・後天の両精を包含するところの精です。

腎臓

まず、腎臓です。腎臓は先天を主り、いまだ生命が内外・上下・左右・前後に分化していない、球形の生命において、球形のコアに相当します。球の中心はこれから上下・左右・前後が確定するための起点となるもので、いわば境界の卵です。

腎臓には封蔵機能がありますが、これは球形と見たときの求心力のことです。

脾臓

つぎに、脾臓です。脾臓は後天を主り、バウムクーヘンのような消化管をもった生命において、「中」に相当します。

内側の管があるので内外 (バウムクーヘンの内側と外側) が確定します。口と肛門があるので上下があります。そして上下という陰陽を分ける境界である「中」が脾臓です。

もっといえば「中」は、前後の中、左右の中をも意味し、すべての「中」はコアと重なり合います。「中」が存在して初めて上下・前後・左右が発生します。

脾臓には制水機能・統血機能がありますが、これらはすべて求心力のことです。

肝臓

求心力は上記の腎臓・脾臓が典型的ですが、他にもあります。肝臓です。腎臓・脾臓の力によってうまれた前後・上下・左右・内外という機能をもった生命において、肝臓はそれら機能を発揮させる力に相当します。

肝臓は陰中の陽を主ります。もともと肝臓は風雷に例えられるような猛々しい性質を持っています。しかし、平生はこの性質を深く深く秘め、容易に表には出しません。このように、外見上は陰静の性質にみえるが、内面深く陽動の性質を蔵しています。これも求心力と言えます。厳密には遠心力に変化する直前の求心力です。

疏泄を制御するのは蔵血機能といわれますが、肝臓の蔵血機能は求心力と言えます。

着床の瞬間

くわしく陰陽の発生学を展開します。

宇宙空間の中で、大いなる主観が「ここ」 (これ) と定めた点は、活用を起こす前の静の状態である。この点は球形でコアという求心力 (陰) で形体を維持している。そのコアを先天の精と言います。これは受精卵の機能に相当します。

卵管から子宮内を浮遊していた受精卵は、やがて子宮内壁に着床します。その瞬間、母体から栄養分 (後天の精) を受け取り、細胞は真の生命を得ます。先天の精が後天の精とドッキングした姿です。

「前後」の誕生

この時、球形が壁にくっついた部分が臍 (へそ) となり、必然的に前後 (前面と後面) がこの時点で確定します。陰陽と境界が完全に備わったこの瞬間が、生命の誕生と言えると思います。衝脈 (境界) ・任脈 (前) ・督脈 (後) は一源三岐と言われますが、コアから衝任督が生まれるのです。

上図のでっぱりは将来臍となるもので子宮壁と接触している部分です。青の半球は前面で陰 (任脈) 、赤の半球は後面で陽 (督脈) となります。その境界面は衝脈です。受精卵が着床した瞬間、任・督・衝の三脈が現れ、機能し始めます。

着床したということは、子宮壁から栄養分 (後天の精) を得られるということです。つまり受精卵 (先天の精) が後天の精と合致したのです。

このように考えると、着床で後天の精と出会うことによって任・督・衝が生まれるということが言えます。この三脈は胞中に生じると言われるのは、この部分をも指し示すと思われます。

ただし、この時点では球形には前後が生まれたのみで、上図に示した黄色の点は、どこが上・下・左・右になってもおかしくありません。上下左右の境界は「中」なので、まだこの時点では脾臓は発生していません。

「上下」の誕生

着床して後天の精を受けると、気球の黄色の点のいずれか一点がくぼみ始め、穴が生じます。

このくぼみはコアに向かって穴をあけ、次第に穴は深くなって、反対側に至り球形を貫きます。このくぼみで上下が確定します。すなわち、くぼみができた点は口となり、反対側は肛門になります。これらを貫く管が陽明です。陽明が機能し始めたのです。

口と肛門が確定したとき、上下が生まれ、その境界である「中」が生まれます。脾臓が機能し始めます。

先天の精が後天の精と出会うことにより、ただの点にすぎなかった精が多方面でダイナミックに展開しますね。

本来の生物学的な発生学では、原口が口になるものを旧口動物、原口が肛門になるものを新口動物といい、くぼみが口になるとは言い切れません。しかし、陰陽論 (機能論) では、口が主 (陽) であり肛門が従 (陰) です。当たり前のことでが、口は肛門のためにあるのではなく、肛門は口のために存在します。肛門あっての口ではなく、口あっての肛門なのです。だから口と肛門の陰陽関係は、先・さき (陽) が口で後・あと (陰) が肛門です。だからくぼみは口となります。

もう一つ注意したいのは、前後の陰陽です。普通に考えて前は陽で後 (うしろ) は陰です。なのに人体では前が陰、後が陽です。人体の前 (臍) は母体のもつ後天の精 (純陰☷) と合わさるところだからです。

口を形成する球の一部分は生命の上部になる運命にあるのですから、非常に陽の強い場所です。上は後よりも陽的性質を完備しています。その陽が球の内部 (陰) に入り込みます。この姿が陽明であると思います。

事実、腹部の経絡の流注を見ても、肝脾腎の陰経の中に陽明が入り込んでいます。球形のコアを貫く管とそっくりです。陰を貫くほどの力のある陽が陽明なのです。

陽明とは

陽明とは口から肛門までの管のことを言います。胃は狭義には小腸や大腸と区別されますが、広義には陽明 (口から肛門) =胃となります。

さて、口を中心とした顔面部は陽明が支配すると言われますが、非常に陽の強い場所であるのは、さきに説明した通りです。冬でも顔だけは水で濡らしても平気ですね。顔が寒いということはまずない。そのくらい陽が強い場所なのです。顔面部は陽明の支配といわれています。バウムクーヘンでいえば上面の円形の面が顔面となり、その真ん中に穴が開いています。

「左右」「内外」の確定

前後と上下が確定すると、左右が発生します。左右とは変化の根本で、活動力を生み出します。左右を支配するところの肝臓が機能し始めます。

また、この管により、陽明は今までおぼろげであった「内」を明確にします。球形の外面もここにおいてはじめて「外」が確定し、太陽と名が付きます。折り紙を丸めて筒状にすると、やはり内と外ができますね。これを元の平面に戻すと表と裏になります。明確な内はイコール裏です。表裏が機能し始めたのです。

もう一つの求心力…胃

陽明と、太陰・厥陰・少陰の三陰が渾然一体となって裏を形成するというイメージが具体化されるようですね。陽明と三陰は持ちつ持たれつの関係にあるのです。子宮壁と受精卵が後天の精と先天の精の関係であったように、肝脾腎と陽明の関係でもあります。

つまり胃は、肝・脾・腎と並び立つもう一つの求心力です。胃の気がなくなると生命が散ってしまうのです。

さて、経絡学では背中を陽とし腹を陰とします。腹部は肝脾腎の各経が流注しているうえ、陽明 (胃経) が流注しています。また、背部は太陽 (膀胱経) のみです。これを形体から説明してみましょう。

まず、我々の感覚として、食道・胃・腸はお腹つまり前にあります。肛門は後ろにある感じがしますね。食べ過ぎた時は手で腹部をさすります。決して背中をさすろうとはしません。肛門を除いて、陽明は明らかに前面を支配しています。

上図のように、口から肛門までの管 (陽明) は、前に移行しています。前は陰です。そこで、以下のような分析ができます。

球形に生じたくぼみは、陰を貫きたがる強い陽気です。球の段階では中心点のみが陰でした。まず、それに向かってくぼみは掘り進みます。

くぼみが上となり、そこから下という陰の強い点に向かってさらに掘り進み、肛門として開口します。

それでは飽き足らず、その管はさらに陰をもとめ、陰である前面に移動します。

執拗なまでの陰の求め方です。このあくまでも陰を求め貫こうとする力、僕は農業の経験からある作物を思い出しました。ヤマイモ (自然薯) です。自然薯は土のより深い部分を求め、貫き通そうとします。

深くなると硬い土になりますが、石が邪魔をしていてもそれ避けて、少しでも隙間があればそこを突き進み、長い芋になります。陰を、まださらに陰を、執拗なまでに求めるのです。ヤマイモは山薬と呼ばれ、陽気も陰気も補える生薬ですが、陽明と重なる部分があり、土気の非常に強い生薬だと思います。

陰を強く求める姿は、陽明が陽でありながら求心力を示すことの説明となります。

陰陽の発生学 (後編)

胎児のポーズとみた生命

さて、肝脾腎・陽明という求心力は生命の前を支配し、その求心力はバウムクーヘンという形体を変化させます。それが下図です。

いわゆる胎児のポーズです。着床によって前面が陰となったため、求心力によってこの形に変化します。求心力は収縮力でもあります。

図を見ると、肝脾腎・陽明の求心力は、臍のあたりを中心としていることが分かります。輪の中心部分 (臍) に、地球が引力のような力でひきつける力が働いているのです。

この力によってバウムクーヘンはチューブの輪のように曲がり、再び球形に近い性質をもちます。胎児のポーズを球形と同等に考えると、臍こそがコアになることがよく分かります。

病気に瀕したとき、あるいは年をとったとき、この形に戻ろうとするのは不思議ですね。求心力を全力で守ろうとする姿に見えないでしょうか。

直立二足歩行としてみた生命

出生すると、まもなく直立二足歩行になります。人間の特徴は直立二足歩行です。C字型に丸まった胎児の姿ではなく、まっすぐ直立したI字の姿は、臍を中心とした輪の求心力が弱まった姿と考えられます。求心力が弱まるとその分、遠心力が強くなります

生命は、求心性の力を蓄えた状態で生まれ、遠心力で生命力を散らして生きていきます。散り切ったらそこで寿命です。ですから、胎児のポーズから、生まれて直立姿勢になった時点で、生命の拡散ははじまっているのです。宇宙の星もコアの求心力が失われると拡散して宇宙の塵に戻ってしまうそうですね。

直立二足歩行は、厳密にはI字型ではなく、ややS字となります。すなわち、口は前方を向き、肛門は後方を向きます。それが下図です。

なぜ口が顔面の下部になるかということもよく分かりますね。肛門に太陽膀胱経が流注するのも理解できます。

上下を一直線に貫いていたバウムクーヘンの管と比べてみると、上図での管は、上部が前方に曲がって口となり、下部は後方に曲がって肛門となり、横から見るとS字型を描きます。背骨の生理的湾曲もこれに沿ったS字となります。

前に屈曲した顎のあたりは陽明の求心力を示しており、後ろに反った腰臀部は太陽の拡散力を示しています。実際、口は飲食物を求心的に引き込む力、肛門は飲食物を拡散的に押し出す力です。気持ちが引き締まると自然と顎が引けますね。求心力が充実しているからです。

腹部を中心とした身体の前部は、肝経・脾経・腎経・胃経という求心力によって支配されています。背部を中心とした身体の後部は太陽膀胱経が支配しており、ハムストリングスという活動に最も必要な筋肉がある部位です。活動は拡散です。

陽明 (胃の気) が求心力 (肝・脾・腎) を支え、太陽が拡散力 (活動) を支配し、少陽が横からそれを調節するという構図が見て取れます。

臍から陰部への移動

求心力は生命の成長とともに移動します。

臍の緒によって胎児は成長し、大人になって性器が発達すると、それを活用して受精卵を作り、新たな求心力 (次世代の命) が生まれます。それはまた臍の緒を介して成長します。このように臍と前陰部は生命の入力と出力であり、生命の根源となります。

受精卵が着床し胎児の形となるまで、臍は非常に発達していますが、それは母体を出るとともに無用化し残骸を残すのみとなり、その代わりに性器が現れ、これが成長とともに発達します。

このように、生命を生み出すエネルギーは、胎児では臍にあり、成人では前陰部に移行します。臍にあったときはそのエネルギーを充実させる段階であり、前陰部に移行した時点でそのエネルギーは散らす段階となり、次世代のエネルギー (求心力) となります。

射精や月経は外に出すという意味で拡散ですが、次世代の求心力をつくる…つまり精をつくるという意味では、求心のための拡散であり、無用となった糞便をまき散らすのとは大きな違いがあります。だから生殖器は前にあると言えます。

このように生命の求心力は、臍から前陰部に移動します。ゆえに、この臍から前陰部に至る領域はすべて求心力のありかであると考えることができます。臍下丹田 (関元) は人体生命の重心ですが、これは臍と前陰部の間に位置します。

経絡学的に見て、前陰部は肝・脾・腎・胃の各経が流注します。また、関元には胃経は記載がないが、「腹部に布く」という表現があるので、関元にも連絡していると考えられ、やはり肝・脾・腎・胃の各経が流注します。臍は、肝・脾・腎・胃のうちでは脾経と胃経 (腹部に布く) のみとなりますが、前陰部が出現する以前の状態では、これら4経が大きく関わっていたはずです。

奇経八脈からみた空間論

さて、以上を踏まえて、奇経についての認識を深めながら、空間論を解いていきたいと思います。なぜ奇経を取り上げるかというと、前後・上下・左右・内外そのものだからです。

ただし、東洋医学を勉強されている方ならお分かりのように、奇経は謎の概念です。どこまで踏み込めるか、やってみましょう。

奇経八脈とは

奇経八脈考

まず従来の東洋医学での奇経についての認識からです。李時珍の「奇経八脈考」ではどう言っているでしょうか。これについては「ホットフラッシュ、肩髃で消失」に詳しく書きましたので参考にしてください。まず、書き下し文を見ていきましょう。青で注釈もつけましたのでご覧ください。

陽維は諸陽の会より起こる。外踝から出発し衛分を上行するなり。
陰維は諸陰の会より起こる。内踝から出発し営分を上行するなり。
一身の綱維なるゆえんなり。

陽蹻は跟 (かかと) 中より起こる。外踝を循り、身の左右を上行するなり。
陰蹻は跟 (かかと) 中より起こる。内踝を循り、身の左右を上行するなり。
機関をして蹻捷ならしむるゆえんなり。

督脈は会陰より起こる。背を循り、身の後を行き、陽脈の総督となるなり。ゆえに曰く、陽経の海なり、と。
任脈は会陰より起こる。腹を循り、身の前を行き、陰脈の承任となるなり。ゆえに曰く、陰脈の海なり、と。
衝脈は会陰より起こる。臍を挟みて行き、上に直衝し、諸脈の衝要となるなり。ゆえに曰く、十二経脈の海なり、と。

帯脈は、則ち腰において横囲す。状は束帯のごとし。諸脈を総約するゆえんのものなり。

このゆえに、
陽維は一身の表を主り、陰維は一身の裏を主る。乾坤 (天地のこと) を以て言うなり。
≫天地とは、つまり上下のことです。ただし、地球を基準とした天地なら、地球の表面 (大気) を上とし、地球のコアを下とすると、地球の内外とも言えます。内外と上下は関係が深く、三焦弁証では表から裏に向かって病が進む過程を、上焦から下焦に向かう過程として説明しています。藤本蓮風先生も、滑肉門は衛分の反応が出、大巨には営血分の反応が出ると説かれています

陽蹻は一身の左右の陽を主り、陰蹻は一身の左右の陰を主る。東西を以て言うなり。
≫東西は左右です。左右とは変化の源です。人体生命で最も大きな変化は活動と睡眠です。活動は左右の足と目を動かすことが基本、睡眠は左右の足と目を動かさないことが基本です。陽蹻脈は活動、陰蹻脈は安静 (睡眠) で、動と静との陰陽がめぐることにより、生命は健全に活動できるのです。

督は身の後の陽を主り、任・衝は身の前の陰を主る。南北を以て言うなり。
≫南北は前後です。衝脈は前を主る、となっていますが、前後の境界が衝脈だと思います。

帯脈は諸脈を横より束ねる。六合 (天地東西南北のこと) を以て言うなり。
≫まず、前後が確定するということは前述のとおりです。つまり、任・督・衝が最初に生まれます。そして陽明のくぼみが現れまずが、これは臍の後天の精を受けて上下が生まれるのです。上下か生まれたということは、上下を分ける境界も同時に生まれたはずで、それが臍を起点とした帯脈です。帯脈は命門に流注していますね。臍が求心力 (陰) の大本なら、命門は遠心力 (陽) の象徴です。だから胎児の姿勢から直立するには命門を中心に反るのです。着床して先天後天の精が合体し新たな求心力 (陰) が生まれた瞬間に、反対側の遠心力の中枢も生まれるのです。

このように、奇経は空間そのものと言えます。

以下に見る奇経論は、口から肛門までの管ができ、上下が確定した後の完成された奇経の話です。任脈・督脈が、着床直後では面であったのが、以下にご説明する任脈・督脈は線となっていますが、これは上下が確定したことによる変化であり、発生の途上とは異なることを申し添えておきます。

任脈・督脈・衝脈

任脈・督脈・衝脈は、3つセットで前後の線による縦の面です。表面的には任督の線です。前には任脈は1本、後ろには督脈は1本なので、いずれも線と言えます。

陰蹻脈・陽蹻脈

その縦の面に分けられた左右の半球が両蹻脈です。表面的には両蹻脈は面になります。両蹻脈はじっさい、複数の線 (経脈) から成り立っており、なるほど面と言えます。

宗穴である照海・申脈が空間を支配する重要穴処であるのは、この両蹻脈が左右の空間を立体的に支配していることが理論的裏付けになると思います。

帯脈と陰維脈・陽維脈…綱維とは

帯脈は横の面です。表面的には帯脈は線となります。

その横の面に分けられた上下の半球が両維脈です。表面的には両維脈は面となります。両維脈も複数の経脈からなっており、面と言えます。上半球が陽維脈で、下半球が陰維脈になります。

こうまとめると簡単で済みます。しかし、両維脈と帯脈はそう簡単ではありません。奇経八脈考で、両維脈は表裏と言ったり天地 (乾坤) と言ったりしています。天地という表現は明らかに上下を指すと思われますが、表裏と上下は違うものですね。これを同じ概念にまとめるとはどういうことでしょうか。

天地という概念を、本当に地球という球 (大気圏も含む) から分析したとき、天と地の間に人が立ったとして、天 (上) とは地面に立つ人の頭部から大気圏最上層であり、地 (下) とは地表に立つ人の足部からコアまでが該当します。

その境界は人の臍です。天地人という観点に立った時、天地という陰陽の境界は人となり、その境界を突き詰めると臍となるのです。そのように考えると、さきほど「球体とみた生命」で触れた、表面とコアという陽と陰の関係のなかに人体を組み入れた壮大な構図が見えてきます。

これが人体の上半身は上であり表、人体の下半身は下であり裏となるという理論の裏付けとなります。人体と地球を相似と見たとき、上半身は天 (表層) の気を受け、下半身は地 (コア) の気を受けているのです。このように、両維脈は、上下・内外の空間を立体的に支配します。宗穴である内関・外関が空間を支配すると言われる根拠になると思います。

奇経八脈考では “表裏” と言っていますが、 “深浅” といった方が分かりやすいかもしれません。表裏は一枚の紙の裏表ていう意味で、太陽と陽明を説明するときに用いやすいからです。

ちなみに、地球の表面は明らかに陽です。コアは明らかに陰です。ただし、この陽と陰は陰陽関係とは言い難いものです。例えば紙の表と裏というような対立関係をもつものが典型的な陰陽関係です。球形なら上半球と下半球はきちんとした対立関係があるので陰陽関係と言えます。両維脈と帯脈は、両蹻脈と任督衝とは、質を異にするのです。

さて、以上をふまえて、もう一度両維脈の「一身の綱維」という意味に立ち返ってみます。「綱」とは太い綱のこと、「維」とは幕の四方をつなぎとめて維持すること。つまり一身の形体をバラバラにならないように維持する働きと解釈できます。このように考えると、綱維という意味が明確になるようですね。地球も形体を保っているのは両維脈の力によるものであると言えそうです。

河原に転がる石もこの力で形体を保っていると考えられます。もしこの力がなければ、地球はもとの宇宙の塵に帰するでしょうし、石は原子・分子レベルでチリヂリバラバラになってしまうでしょう。まさに、形体・肉体の綱維なのです。両維脈はこのように奇経八脈の中でも特別な位置にあります。乾坤という表現はその格式の高さを感じさせます。

このように考えると帯脈は表層の気とコアの気の狭間にあるのですから、地球全体ということもできます。「六合」という意味がよく分かります。表層は面にすぎず、コアは点にすぎないからです。

両維脈・帯脈は、じつは球という形体そのものであり、機能が吹き込まれるまえの物質的形体を維持する力と言えると思います。そこに先天の精 (意味) が宿ります。

上の図を見てください。これは陰維脈・陽維脈・帯脈を図示したものですが、まるで受精卵そのものです。受精卵に細胞膜があり中心に核があるのは、はたして偶然でしょうか。その受精卵が着床して後天の精と出会い、前後・上下・左右という、機能のもっとも原始的な概念が現れるのです。

陰維脈・陽維脈・帯脈は、臨床では非常に重要で、季節に合わせて陰陽を調整するために使用して著効が期待できます。

肋間神経痛
冬至…営血分の熱
春分…陽維脈を取る
芒種…外関で邪気を正気に変える

をご参考に。

三陰三陽とは

空間と言える概念が他にもあります。太陽・陽明・少陽です。太陽は後を支配し、陽明は前を支配し、少陽は横を支配すると言われます。

三陰経は陽明とセットで考えます。陽明は三陰経を貫いているからです。

太陽・陽明は立体的には前の半球・後の半球で、表面的には前面・後面です。実際、前面には陽明胃経は2本あり、後面にも太陽膀胱経は2本あります。2本の線でできているので面と言えます。

少陽は立体的には前後面を分ける面であり、表面的には線です。実際、胆経は左に1本、右にも1本しかありません。

下の図は「前後の誕生」で示した図と同じです。ちがうのは、下の図では上下左右が確定しているという点です。少陽が示す立体的な面は、衝脈と同じ面を示すのです。この面は前後を分ける境界であり、衝脈は奇経の土台です。これは臨床上、非常に重要で、奇経と胆経が重なり合うことを示します。胆経は奇経と同じような使い方ができるのです。「三陰三陽って何だろう」の「少陽胆・少陽三焦」をご参考に。

つまり、純粋な境界 (線) といえるものは、任脈・督脈・少陽のみなのです。これらは空間の骨格となるものです。線なので物質的ではなく機能的です。

任督は左右を支配する。
少陽は前後を支配する。

また、面 (立体) と言えるものは、陽明・太陽・両維脈・両蹻脈が挙げられます。これらは空間の肉づけとなるものです。空間をを実体に具現化し、物質的肉体を作ります。

前は任脈を骨格とし陽明が肉となる。
後は督脈を骨格とし太陽が肉となる。
横は少陽を骨格とし両蹻脈が肉となる。

帯脈は線とも取れますが、一周するという意味で異質であり、球という立体そのものとも取れましたね。骨格でもあり、肉づけでもあります。

両維脈は面とも取れますが、境界のハッキリしない球という立体そのものとも取れましたね。点でもあり、肉づけでもあります。

衝脈は非常に原始的な境界です。

このように、奇経も三陰三陽 (正経) も、人体を球形と見たときの、空間的骨格および空間的肉づけのことです。

奇経と正経は陰陽関係にあります。たがいに補い合って空間を形作っているのです。

六腑とは

六腑は明らかに管のことを言っています。胃・小腸・大腸・胆・膀胱・三焦。すべて、糞便通り道か、小便の通り道です。胆は小便の通り道と糞便の通り道をつないでいます。

西洋医学的に、胆嚢は腸管とつながっているが、胆嚢はまた肝臓の血管とつながっていて、肝臓の血管は全身の体液の通り道となっています。つまり全身の体液は胆嚢を通して腸管に至るルートがあるのです。

つまり、大きな意味でいうと、バウムクーヘンという筒そのものといえます。

バウムクーヘンを薄っぺらくして、折り紙の筒にします。この折り紙を元の平面に戻します。そうすると、バウムクーヘンの内側は裏に、外側は表になります。これは、バウムクーヘンという物質を、機能的に見ようとしているのです。

裏のことを陽明、表のことを太陽と呼びます。裏から表へ向かうルートを橋渡しする役を少陽三焦といい、表から裏へ向かうルートを橋渡しする役を少陽胆といいます。

裏から表へ向かうルートは、主に正気の流れです。腸管で吸収された栄養分+水は、三焦水道を経由して皮膚表面に至り、衛気として宣発されます。
表から裏へ向かうルートは、主に邪気の流れです。皮膚表面から太陽病として入った外邪は、少陽胆を経由して陽明病として腸管内に排泄され、糞便として排邪されます。

このような太陽・陽明・少陽という機能的な見方から、より物質組織的 (解剖学的) にシフトさせた概念…それが六腑です。

六腑は肥厚したチューブであり、バウムクーヘンのようなものです。このバウムクーヘンのスポンジ部分 (表裏の間) に、心臓・肺臓・脾臓・肝臓・腎臓が入り込み、隠れています。この姿が、物質的な人体といえます。

このように考えると、「五臓六腑」とは、単に腹腔内にある臓器をいうのではなく、「人体そのもの」としての姿が見えてきますね。

奇恒の府とは

奇恒の府とは、子宮・脳・骨・髄・脈・胆の6つです。簡単に言うと、袋のような入れ物を指しています。陰精を貯蔵する器官であると定義されます。たしかに、子宮や脈の中には血が入っているし、骨の中には髄が入っているし、頭蓋骨や脊椎の中には中枢神経細胞が入っているし、胆には胆汁が入っています。これらの袋の中には精が貯蔵されていると、ざっくりと考えます。

もっと大きく考えると、人体は精を入れる大きな袋と考えることができます。つまり人体は大きな奇恒の府であるという考え方です。ちなみに、その袋はバウムクーヘンの形をしていて、浮き輪のような形をした袋です。スポンジ部粉が空洞で、そこに精を容れる…という形体です。

こう考えると、六腑と奇恒の府は陰陽関係にあるかのように見えてきます。たがいに補い合って肉体を形作っているのでしょうか。

また、奇経の役割は気血の貯蔵場所であり、奇恒の府は精の貯蔵場所であるというふうに対比してみると、奇恒の府とは、奇経をより肉体組織的 (解剖学的) にシフトさせた概念であると思います。

同様に六腑は、三陽をより肉体組織的にシフトさせた概念であるということも言え、ここに対比の妙が見られます。

つまり、六腑はバウムクーヘンという筒型形体、奇恒の府はバウムクーヘンのスポンジ部分。そうまとめることができます。

まとめと展開

ここまでのまとめ

まず最初に宇宙空間があり、そのなかに物質があった。物質は、表面とコアをもち、陽維脈・陰維脈・帯脈と名付けられる。

ある主観によって、「ここ」 (これ) が確定する。「ここ」は宇宙空間のある1点に意味が生じたものである。この「生じたもの」を精といい、命ともいう。

命には前後・上下・左右が備わり、それら原始的機能が発展して「こころ」という高等機能となる。

陰維脈は肝脾腎のありか、すなわち「ここ」。
陰維脈とは、球形のコアを空間的に示したものである。
肝脾腎とは、球形のコアを機能的に示したものである。

陰維脈の裏と、陽明の裏とは概念が違う。
陰維脈の裏は球のコア。
陽明の裏はバウムクーヘンの内側。

肝脾腎と陽明胃は、渾然一体となって気血精を生産している。それを示すのが腹部の経絡の流注である。

三陽経も奇経も空間を形成するという点において物質的要素が濃い。それに比して三陰経は実体がなく、実用的 (機能的) 要素が濃い。陰は深く見えにくく、陽は浅く見えやすい。だから肝脾腎が重視されるのだろう。三陽経と奇経は、胆を介して一つながりである。だから三陽経が形成する空間 (陽明胃) によって得た水穀の精は奇経という骨組みや奇恒の府という袋に貯蔵される。それを機能的に牛耳るのが肝脾腎である。

空間は精

ここまで、陰陽の発生学、奇経八脈、三陰三陽、六腑、奇恒之府と説明してきましたが、いよいよ陰陽の枠組みで、これらを一体化したいと思います。下図のようにまとめます。

図の補足
▢「任督衝」が、▢「任督衝胆」になっています。前後を分ける境界である衝脈は胆経につながるからです。
六腑とはチューブそのものでねその壁が肥大して、バウムクーヘンのスポンジ部分のようになり、そこに肝臓や腎臓などの実質臓器が入り込んでいる姿…これが▢「物質的な五臓六腑」です。

空間論を学ぶ意味

生命活動は、精に始まり、精を絶やさぬよう、新たな精を作り出し、精を補充することで維持されます。精はどこにあるのでしょう。いうまでもなく、この「体」です。

体は精を作っては容れ、作っては容れているのです。その作る働きを陽とするならば、容れる容器 (ふくろ) は陰です。そして、その陰陽の「場所」こそ空間なのです。

場所…すなわち「ここ」は、働きと容器をつなぐ境界となります。「ここ」は物質のように絶対的なものではなく、機能のように写真にとれないものでもありません。ハザマにある境界と言えます。

ここにメスを入れることが、機能と物質を両方動かすことにつながります。たとえば体内の塊を鍼で取り去る…などです。

≫「不全流産の症例」をご参考に。

東洋医学が機能にアプローチしながらも、人体の物質的 (器質的) 異変…たとえば腫瘍や変形など…をも治すことができるのは、機能から物質にまたがる哲学を持っているからであり、ここに空間論を学ぶ意味があるのです。

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