日本東洋医学発祥の歴史

562年、東洋医学 (中国伝統医学) は、智聡 (チソウ) によって日本に伝えられました。

智聡は呉人 (クレヒト) であるため、呉人の居住地区である呉原 (クレハラ・奈良県明日香村) が、その舞台となったと推定されます。

中国伝統医学 (鍼灸医学・漢方医学) を医学とみるならば、日本医学史の発祥はここにあります。

詳細をご紹介します。

呉人 (渡来人) の本拠地、呉原

古事記と呉原

古事記

大長谷若建命、坐長谷朝倉宮、治天下也。…
此時呉人参渡来、其呉人安置於呉原、故号其地謂呉原也。
<古事記>

【訳】大長谷若建命 (オオハツセワカタケノミコト 雄略天皇) は、長谷朝倉宮 (ハツセノアサクラノミヤ 奈良県桜井市) にあって、天下を治めていた。…
この時、呉人クレヒトが渡来した。その呉人を呉原クレハラに安住させた。ゆえにその地を号して呉原というのである。

古事記によれば、雄略天皇が呉人 (クレヒト・当時の渡来人) を安住させた集落、それが呉原クレハラであるとされます。その頃の日本は、中国のことを「呉クレ」、中国人のことを「呉人クレヒト」と呼んでいました。その居住地が「呉原クレハラ」です。

日本書紀と呉原

もっと詳しい内容が日本書紀にあります。

日本書紀  

(雄略天皇) 十四年春…
三月、命臣連迎呉使、卽安置呉人於檜隈野、因名呉原
<日本書紀>

【訳】470年、雄略天皇は、臣下らに命じて呉 (中国) の使いを迎えさせた。そして呉人を檜隈野 ヒノクマノ に安住させた。そのため『呉原』と名づけた。

西暦470年、雄略天皇が中国から使いを迎えた…とあります。いわゆる渡来人です。後述しますが、この時来日したのはアパレル (織物) 技術者です。この頃すでにヤマト王権は積極的に大陸の技術や文化を吸収しようしていたのです。

古事記にも日本書紀にも記載があるくらいですから、呉原は為政者にとって、相当な「枢要の地」であったと考えられます。

呉人と “呉服”

日本書紀の前引用文の前後に、呉人を招いた理由が記されています

十四年春正月丙寅朔戊寅、身狹村主靑等、共呉国使、將呉所獻手末才伎、漢織、呉織及衣縫兄媛、弟媛等、泊於住吉津。是月、爲呉客道通磯齒津路、名呉坂。三月、命臣連迎呉使、卽安置呉人於檜隈野、因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神、以弟媛爲漢衣縫部也。漢織・呉織衣縫、是飛鳥衣縫部・伊勢衣縫之先也。
<日本書紀>

※黒太字は前引用箇所と重複する部分。

470年に呉からやってきた使いは、 “手末 タナスエ 才伎 テヒト” とよばれる技術者でした。漢織アヤハトリ・呉織クレハトリ・衣縫兄媛キヌヌイエヒメ・衣縫弟媛キヌヌイオトヒメ の、4名の人物の記載があり、 “等” と記されているので、他の技術者も招いたと考えられます。

織ハトリ は機織 (はたおり) のことです。衣織キヌヌイ は裁縫のことです。はたおりは服部ハットリ につながり、織ハトリ につながります。よって呉織クレハトリ は呉服部につながり、呉服につながります。現在でも着物のことを呉服といいますね。

衣食住といいますが、当時の日本がとにかく衣服を自前で作ることを求めていたことが伺えます。医療よりも大切なもの、それは体温を保持するための「衣服」です。寒さに震えていてはカゼすら治せませんね。大和王権は医療よりもまず、大量生産できる本格的なアパレル技術が欲しかったのかもしれません。もしくは記載がないだけで、この時に建築や農耕の技術者も、そして医療技術者も随行していた可能性はあります。

呉人は優遇されていた?

雄略天皇の為政地は、泊瀬朝倉宮ハツセノアサクラノミヤ (長谷朝倉宮とも・奈良県桜井市) です。 そこから約10km南西にある現在の奈良県明日香村の一角に、渡来した呉人たちは邸宅を与えられることになります。その集落は「呉原クレハラ」と名付けられました。

「呉原」は、聖徳太子以前の日本黎明期から、技術と博識をもたらした渡来人たちの居住区でした。「飛鳥」を都として聖徳太子が政治を行う以前から、ヤマト王権によって招かれた渡来人たちは、「飛鳥」から南西に3kmほど離れた「呉原」を本拠地として活躍し続けたのです。

先ほどの日本書紀 “十四年春” に続く記載です。その後の呉人の様子が伺えます。

夏四月甲午朔、天皇欲設呉人、歷問群臣曰「其共食者、誰好乎。」群臣僉曰「根使主可。」天皇、卽命根使主爲共食者、遂於石上高拔原、饗呉人

【訳】 (雄略十四年) の四月、天皇は呉人を宴でもてなそうと考え、順番に群臣に質問した。「呉人とともに食事をする役目は誰がいいだろう」群臣はみなこう言った。「根使主ネノオミ がいいでしょう」天皇はすぐに根使主に命じて接待役とした。そしてついに石上の高拔原にて呉人を饗応することとなったのである。

呉人に対する天皇の優遇ぶりが伺えます。おそらく呉原に与えられた邸宅も、この饗応に準じたものであったことでしょう。

未開の国であった日本に、世界最先端の文明をもつ国の出張所 (大使館) ができた。それが呉原です。もてなされないわけがありません。

呉人の寺院、呉原寺

その優遇ぶりが、呉原での寺院の建立にもつながったと思われます。

呉原寺 (クレハラデラ・栗原寺) です。呉人の寺です。

建造は7世紀後半であると推定 (看板写真参照・10世紀はじめまで存続) されています。呉原の誕生が5世紀後半ですから、少なくとも200年もの長期に渡って、呉原は国から手厚い保護を受けていたことが伺えます。

その一端が「続日本紀」に記載されています。文武天皇四年 (西暦700年) の出来事です。

続日本紀

(文武天皇) 四年。三月己未。道照和尚物化。天皇甚悼惜之。遣使即弔賻之。…
時七十有二。弟子等奉遺、火葬栗原。天下火葬從此而始也。
世傳云、火葬畢、親族与弟子相爭、欲取和上骨歛之。飄風忽起、吹灰骨。終不知其處。
時人異焉、後遷都平城也。
尚弟及弟子等、奏聞徙建禅院新京。今平城右京禅院是也。此院多有経論。書迹楷好不錯誤。
皆和上之所将来者也。
<続日本紀>

【訳】文武天皇四年 (西暦700年) 、三月十日、”道照” 和尚が亡くなった。天皇は甚だこれを悼惜 (いた) み、使いを遣 (や) って香典・金品をさずけ、これをくやんだ。…
七十二歳であった。弟子たちは遺体を奉じて、栗原 (呉原寺) で火葬した。天下において火葬はこれより始まるのである。
こんな伝え話がある。火葬が終わり、親族と弟子は争って和尚の骨を取ってこれを収めようとしたが、飄風が忽 (たちま) ち起こり、灰となった骨を吹き飛ばし、ついにその処は知れずじまいとなった。
人々はこれを奇異なことと驚き、後に平城京に都を遷すこととするのである。
和尚の弟子たちは、平城新都に寺を移築するよう天皇に奏上した。今の平城右京の寺 (元興寺) はこれである。この寺は経論の書籍を多く所持しているが、それらの筆跡が端正で誤りがない。
これらはみな、和尚がもたらした結果であり余徳である。

続日本紀によると、呉原寺は日本で最初に火葬が行われたと記されています。火葬されたのは道照という僧であり、それは彼の遺言でした。

逝去に際して、天皇から直々にくやみの金品が届けられていますね。このときの天皇である文武天皇はまだ十代の若さで、実質的な権限は持統天皇にあります。

道照は、当時の僧としての最高指導者でした。

道照という人物は日本人です。続日本紀によると、道照は遣唐使に随行し、異国で玄奘三蔵 (西遊記に登場する三蔵法師) に師事し、玄奘のかつての恩人に重ねられるほどの厚い信頼を得ます。また帰国後は飛鳥寺を本拠地とし、呉原寺とは特別の関係はありません。 “天下に業を行える徒はみな和尚に従いて禅を学ぶ” と記されるように、行基などの多くの弟子を育てたと言われています。

続日本紀では、その他のエピソードも交えて大きく紙面を割き、道照の人となりや功績を紹介しています。

▶道照と呉原と平城遷都

面白いのは、上記の続日本紀の引用に、道照の火葬にまつわる出来事が、平城遷都のキッカケとなったかのように記載されていることです。

じっさい、道照が亡くなったわずか10年後、710年に都は飛鳥藤原 (明日香村・橿原市) を離れ、遠く平城京 (奈良市) に移ることになります。亡くなってすぐに遷都の準備が始まったといってもいいタイミングですね。

この挿話を、原文では “世に伝えていわく” と表現しています。「世間ではこんなふうに言われているよ」と断りを入れていますね。藤原京完成からわずか16年での平城遷都は、準備も考えれば完成後まもなく遷都の話が持ち上がったということです。これは当時の人々のなかでも奇怪なできごとで、うわさが飛び交っていたことを想像させます。今でも理由はよく分かっていません。

道照の遺骨が「ここ」にとどまらず、飄風 (にわかに吹く気まぐれな突風) に乗って遠いところに行ってしまう。この「飄風」は、呉人に頼っていた時代に見切りをつけ、遣唐使留学生を重んじる時代へと舵を切った瞬間だったのかもしれません。呉での留学経験をもつ文化の最高指導者の道照が、これまで時代を牽引してた呉原 (飛鳥藤原) を、灰となり風と姿を変えて去っていった。

今までは呉人の元を離れて施政など考えられなかったことだが、もう何も飛鳥藤原にこだわる必要はなくなった。しかし、呉人の近くにいるとその意見を無視できない。呉人を抜きにした新しい都です。平安遷都が古い仏教勢力を置き去りにする目的があったように。

しかし、持統天皇から為政を受け継いだ文武天皇 (持統の孫) は707年に25歳の若さで逝去し、その後を継いだ元明天皇 (持統の子) は女帝であるため、この2人が遷都を発案したとは考えにくいですね。

おそらく、新興勢力の仏教者が、天皇に “奏上” (天皇に掛け合うこと) して、呉原の勢力を置き去りにするために遷都を推し進めた。飛鳥寺を平城新都に移築するよう天皇に奏上したと上記の続日本紀の原文にもありますね。

平城遷都は、仏教勢力が呉原 (渡来人) のしがらみから抜け出すために推し進めたのではないでしようか。誰もが尊敬する「道照の遺骨」が、飛鳥を支配する「呉原」を、風と共に去っていった。これを盛んに吹聴した (うわさを広めた) のではないでしょうか。遷都をみなに納得させるための理由付けとして。

たぶん、これは新説です 笑。

しかし、このくらいの意味付けがなければ、日本有数の歴史書である続日本紀に
「風が吹いたら遺骨がどこかにいっちゃった。みんな変だなって思ったよ。」
なんてことを、単独でわざわざ記載するでしょうか。そのあとに続く文言、 “後に都を平城にうつすなり” と紐付けすると文脈が生まれます。

日本人がはじめて目にした火葬、灰となって消え風となって去ってしまう消失感と霧消感、それが最も尊敬を集めた道照であるところのインパクト。その逸話が、呉人 (渡来人) に対する依存を吹っ切らせたのです。

ここでの僕の解釈はともかく、呉人そして道照が、天皇家または日本に対して非常に大きな影響をあたえる立場にあったことは確かでしょう。

ちなみに持統天皇は、道照の火葬から3年後、703年に、天皇としてはじめて火葬されました。おそらく道照の火葬に立ち会ったであろうし、道照への帰依も深かったのではないでしょうか。そして道照が帰依した呉原への帰依も。…その持統天皇が亡くなってから、仏教勢力 (反呉人勢力) の発言力が急激に大きくなったのでしょう。平城京の完成は、710年です。

そのような人物であるところの道照が、最期の場所に「呉原」を選んだのですね。自らの飛鳥寺ではなく。

命をかけて呉国 (中国) に渡り、三蔵法師に認められ、帰国後は学んだことを日本で広めて尊敬を集めた道照。その人生の最期は、呉国ゆかりの地である呉原で、呉国で何度も見たであろう火葬によって、仏法どおりに葬られたかったのでしょうか。

ここまでをまとめます。

驚くべきは呉原が、「記紀」と呼ばれる古事記・日本書紀 に、そして続日本紀にも記録されていることです。この時期の歴史をまとめるならば、その地名と出来事を挙げぬ訳にはいかないほど有名な枢要地だったといえるでしょう。

呉人、智聡 (チソウ)

さて、そういう歴史の真っただ中に、呉人・智聡 (チソウ) は登場します。日本に東洋医学を伝えたことを裏付ける、最も古い資料が残る人物です。562年のことでした。

智聡の名は、新撰姓氏録 (815年) に記載があります。

新撰姓氏録

和薬使主。
出自呉国主照淵孫智聡也。
天国排開広庭天皇 (諡欽明) 御世。随使大伴佐弖比古。持内外典、薬書、明堂図等百六十四巻、仏像一躯、伎楽調度一具等入朝。
男善那使主。天萬豊日天皇 (諡孝徳) 御世。依献牛乳。賜姓和薬使主。

【訳】和薬使主という姓は、 呉国の主である照淵の孫、智聡から出たのである。
欽明天皇の御世に、使いの大伴佐弖比古に随い、内外典、薬書、明堂図など百六十四巻、仏像一躯、伎楽調度一具などを持ち、入朝する。
息子の善那は、孝徳天皇の御世に、牛乳を献じたことによって、和薬使主の姓を賜わる。

和薬使主 (ヤマトクスリツカイヌシ) という姓の由来について述べられていますが、その中に智聡の名が登場します。彼は「薬書」と「明堂図」を日本 (朝廷) に持ち込んだとされ、 “天国排開広庭天皇 (欽明天皇の諡号) 御世” という、日本医学史として最も古い言及をもつ資料です。欽明天皇は、聖徳太子の祖父です。

これが、日本医学史および日本東洋医学の始まりです。

薬書は漢方薬の書のこと、明堂図とは鍼灸の書のことです。164巻の書物が持ち込まれているが、その中でもこれら医学書を特記していますね。姓を見れば分かることですが、医学を伝えたことが最も評価されています。

智聡は、呉国主である照淵の孫にあたるとされています。つまり、智聡は呉人なのです。ここはポイントです。智聡は呉人であるため、呉原に居住したものと考えられます。

▶欽明天皇の陵 (みささぎ)

道照が飛鳥寺の邸宅から呉原寺に運ばれて火葬されたように、飛鳥京と呉原は街道でつながれ、盛んに往来があったと思われます。

その街道のちょうど中間地点に、呉人をまねき呉原をつくった欽明天皇の陵墓があります。呉原 (呉国の大使館) をつくった功績を振り返り、いまや発展のさなかにあった飛鳥京のこれからを見届けるため、陵墓をそこに置いたのではないでしょうか。じっさいに、呉原も飛鳥京も一望できる場所にあります。

国をまとめるには考え方を一つにまとめることが必要で、深い哲学をもつ仏教はそれにちょうど見合うものでした。呉人・智聡がもたらした “内外の経典” は “珍宝” (下記日本書紀参照) として珍重され、呉原は本場の思想を持ち合わせた集団として、欽明天皇は呉人たちに深く帰依したことが想像されます。

また、欽明陵の目と鼻の先に天武持統天皇陵があります。呉国 (呉人) に学びつつ律令体制や藤原京を発案し仏教や道教を重んじた天武天皇、それを引き継いで藤原京を完成させ実質的な飛鳥時代最後の天皇である妻・持統天皇の陵墓が、やはり飛鳥京と呉原の中間点にあり、呉原と飛鳥京を一望できる場所であるのも偶然ではないかもしれません。 (欽明陵、天武持統陵の異説がある丸山古墳も同様の立地にあります。)

これからの飛鳥京とこれまでの呉原の二大枢要地を、どちらも大切にする。そういう立地に陵墓は今もそびえ立つのです。

ちなみに、持統女帝の孫であり、子さながらの寵愛を受けた文武天皇は、祖母の後を追うように25歳で亡くなっていますが、その陵墓は呉原にあり、持統の陵墓を一望できる場所にあります。持統天皇の思いを忖度して陵墓の場所が決められたのならば、彼女が呉原といかに親密であったかが想像できますね。

この辺は里中満智子先生の漫画にも盛り込んでほしかった。笑

キーマン、大伴狭手彦

この「新撰姓氏録」の中に大伴佐弖比古 (オオトモノサテヒコ) という人物が記されていますね。この人物が智聡を連れてきたとあります。大伴佐弖比古は、 “大伴狭手彦” という表記で、日本書紀にも登場するキーマンです。

日本書紀

(欽明)二十三年。…
八月。天皇遣大将軍大伴連狭手彦。狭手彦…打破高麗…盡得珍寶…、還來。

【訳】 欽明二十三年 (562年) 、天皇は大将軍・大伴狭手彦を遣わす。狭手彦は高麗を打ち破り、珍宝をことごとく得て還って来た。

日本書紀によると、大伴狭手彦という人物は、欽明天皇 (聖徳太子の祖父・為政地は磯城島金刺宮シキシマノカナサシノミヤ 奈良県桜井市) の重臣です。西暦562年に天皇が高麗を攻める際に、この狭手彦を大将軍として遣わしています。この記録が、先出の新撰姓氏録の記載と合致するため、この時の高麗侵攻の際に狭手彦に伴われ、智聡が来日したことが分かります。

智聡が来日した562年、これが東洋医学が日本に伝わった年代となります。

前出の続日本紀に “平城京では (呉原寺とつながりを持つ) 道照の弟子たちが経論の書籍をたくさん所持した” とあります。平城遷都の際に、道照の寺である飛鳥寺 (明日香村・またの名は元興寺) は平城京に移され、それが現在の元興寺 (奈良市) です。道照の弟子たちが天皇に直接掛け合って移転しました。

智聡が伝えた医学書もそれらとともに、奈良の都に受け継がれたことでしょう。

呉原の現在

かつての壮大さ

日本ではじめて火葬が行われた呉原、そして呉原寺でしたね。

しかし、道照を荼毘 (だび) に付したこの炎は、呉原の燃え盛る繁栄の極みを象徴するとともに、やがて火が消えたような衰退をもたらす皮肉の象徴ともなりました。

道照の遺骨が呉原の空に舞い散ったように、都もまた平城の遠い空に去ってしまうのです。

呉原寺の現在の跡地です。

今は山林となった高台から、巨大な柱の一部が出土して、民家で保存されていると聞きます。

看板の堂塔推定値を地図の縮尺にかさねて調べると、呉原寺の敷地は里道や土地の形状から推定すると200×200くらいと推定できます。天皇家以上の権勢を誇ったのではないかと言われる蘇我氏の飛鳥寺が300×250mくらいですから、呉人の勢力がどの程度のものだったかが想像されます。

呉原寺の跡地は、現在では地域の共同墓地となって、その名残をとどめています。田舎の共同墓地は田地に向かない斜面に作られているのが通例ですが、この共同墓地は異例ともいえる広い平地にあり、かつての寺院の一部であると地元の方から伺っています。土葬で穴を掘ると古い瓦が出土したそうです。

その墓地の東と北に位置するそれぞれの高台も堂塔の推定地とされており、広大な敷地が想像できます。

天皇から保護を受け、知識と技術を持つ呉人が運営する大寺院ですから、当時の日本としては最大規模の学術をもつ医療機関としての役割を兼ねていた可能性が高くなります。昔は僧が医者を兼ねていました。大病院のような “駆け込み寺” が、呉原にあったとしてもおかしくないですね。

赤の点線は推定される呉原寺の敷地
青の点線は地番図に記された里道

航空写真で見ると、寺院の真ん中を貫くように南北と東西に道が通っているのが面白いですね。中門・塔・金堂・講堂を南から北へ一直線に並べる伽藍 (ガラン) のような建物群があったのかも知れません。僕が小さい頃は、南北の道が北に畦道として続いていました。堂塔につながる道の名残りかも知れません。

田園と共同墓地

飛鳥藤原の都で名を轟かした呉原。

日本の文明の基礎を作り終える。

そして平城遷都。

呉原に残された呉人たちは、はるか北方にそびえる新都の空を遠くながめつつ、自らの手を土で汚しつつ糧を得る、農耕生活にシフトしていったことでしょう。

遣隋使 (607〜) ・遣唐使 (630年〜) も軌道に乗り、もう渡来人の力なしでやっていける。

時代の移ろいには逆らえず、政府枢要地として栄えた呉原は、衰退の一途をたどることとなるのです。

小高い丘にそそり立つ堂塔の姿は、朝日に輝き夕日に映え、いかに勇壮明美であったことでしょう。

また、呉原の全景を見渡してもわかるように、都を置くこともできたような広い平地が広がります。呉原寺はその平野を見下ろすような小高い丘に建立されています。飛鳥時代、ここにはどんな風景が広がっていたのでしょうか。

こんなことを思いながらの旅は、飛鳥古京ならではの醍醐味です。

呉人の血統、呉津彦神社

呉原の地には「呉津彦」という神が祀られています。呉津彦とは「呉の英雄」「呉人」という意味があります。「呉津彦神社」と呼ばれています。鳥居に刻まれた字が読み取れるでしょうか。

呉人の末裔たちが、日本の風習に溶け込んで神社を作ったのでしょう。そして彼らが、いかに「呉人」としての誇りを失わなかったか…それが神社名に見て取れるのではないでしょうか。

ぼくの毎年の初詣は、呉津彦神社と呉原寺跡です。といってもこれらは、知る人もない小さな氏神の神社と、閑散とした田舎の共同墓地です。僕はこの神社の氏子で、共同墓地には家代々の先祖が眠っており、呉人 (渡来人) の血統であるという伝承があります。この集落は “一字姓” が多いことも特徴です。

呉原の「原」の字は、源・元に通じます
「原」(はら) とは、「上」 (かみ) から流れいで、下々を潤す水のことです。
「呉」 (中国文明) の「源」としての位置付けが名に付されたのでしょうか。

黎明のとき

呉人の集落である呉原は僕の故郷です。呉人の末裔であることは集落の口伝として幼い頃から聞かされており、日本東洋医学発祥の史実は、僕自身のルーツでもあります。今回、掘り下げて調べてみて、アイデンティティーが明確になりました。

中国伝統医学の伝来 (562年) が、飛鳥時代 (593年~) 以前であったことに驚いています。仏教伝来が538もしくは552年ですから、ほぼ同時期だったんですね。

未開の日本を照らした大陸文明、仏教・学問・技術は、それらを身にまとった呉人クレヒトの呉原クレハラ、漢人アヤヒトの檜前ヒノクマを本拠地としていた可能性があります。そして呉人 智聡が伝えた東洋医学も、その主要な一つでした。呉原は医療技術者の住まいどころ、日本東洋医学発祥の地と言えるかもしれません。

ちなみに漢と呉の対比は、「漢人」「呉人」以外にも、「漢音」「呉音」にも見られます。「漢織 (あやはとり)」「呉織 (くれはとり) 」、「漢字」とは言っても「呉字」とは言わず、「呉服」とは言っても「漢服」とは言わない。漢と呉の対比は面白いと思います。

聖徳太子一派が、桜井市方面から飛鳥に都を移して固定したのは、技術者集団の呉原に近いというメリットを求めたことも理由の一つかも知れませんね。高松塚古墳・キトラ古墳も、呉原を囲むようにして点在します。

今から約1500年も前のこと、470年に雄略天皇が土壌を作り、智聡来日の562年から、聖徳太子摂政就任の593年、大化の改新 (645年) を経て、平城遷都 (710年) となるまでの間、呉原は医療の象徴であったと考えられます。孝徳天皇 (在位645〜654) によって、呉人・善那 (ゼンナ・智聡の息子) が「和薬使主ヤマトクスリツカイヌシ」 (ヤマト薬使い主) という姓を与えられています。既出の新撰姓氏録に記載があります。

智聡の名前は、歴史の教科書で取り上げてもいいですね。ヤマト王権のもとで智聡が伝えた中国伝統医学は、この国に医学黎明の朝 (あした) をもたらし、その後長らく国を支える医療として独自の発展をとげ、江戸時代に繁栄のピークを迎えます。その後、杉田玄白の解体新書を起点に東西の医学の変遷があり、明治の欧米化の時代の中で伝統医学は衰退し、そして現代医学が主流となった。それが日本の医学史の概要です。

現代の呉原も、かつての華やかさは夢のあととなりました。しかし都市化を防ぐために明日香村全体が国によって保護され、近隣の高松塚古墳やキトラ古墳の発見などで、飛鳥の歴史そのものがだんだん注目されるようになりました。東洋医学も、いちどは凋落の一途をたどりましたが、漢方薬の保険が適用されるなどの変化があり、少しずつ国からそして国民から顧みられつつあります。

再び黎明の時を迎えようとしているのでしょうか。

 

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