今日は一日、雨です。
しとしと降り続いています。
写真の手前の葉の落ちた雑木林は
高松塚古墳の国立公園です。
その向こうに見える霧で霞んだ山間に
渡来人の集落がありました。
そこから西に下ったところに、
写真でいえば右側方面に下ったところに
渡来人である阿知使主(あちのおみ)の末裔の
東漢氏(やまとのあやうじ)が根拠とした
「檜隈」(桧隈・ひのくま)があります。
阿知使主や東漢氏が檜前に住んだ事は、
高校の日本史で習ったくらいですから
そこそこ有名なんでしょう。
ただし、距離的に離れた呉原も「檜前野」と日本書紀にあるくらいですから
その集落は、かなり広大だったみたいです。
(「ルーツ」を御覧下さい。)
さて呉原ですが、地元の農家さんの話によると
当時としてはニュータウンばりの住宅地が、
いまは山林となっているところに存在したようです。
日本ではじめて火葬が行なわれたのは呉原寺。ご存知ですか?
呉人たちが建立したこの寺も
山の中腹から柱が出土しています。
かかえきれないほどの大きな柱が
民間で秘蔵されてるそうな。
かなり大きな寺だったんでしょう。
呉人たちが朝廷から手厚い待遇を受けていたことが想像できます。
鎮守の神様のお名前は「呉津彦神社」。
呉の男の神様、という意味です。
相当、古い氏神様であることは間違いありません。
まあ、とにかく、
こういった外資系?の技術者集団が中心となり、
高松塚やキトラの壁画を描いたとのことです。
医療も含めた大陸の文化や技術が
ここから発信されました。
今となっては
霧の彼方の話です。