77歳。男性。2024年7月1日初診。
6月30日 (日) 夕食後から腹痛があり、だんだんきつくなる。胆石疝痛である。ミゾオチから起こって腹全体に痛みが広がる。劇症に見られる特徴である。20時ごろから腹痛が激しく、七転八倒とはこのことかと思った。吐き気をともない、夜の間に10回ほど吐いた。最初は未消化物を吐いていたが、ドロドロの液を吐き始めてから腹痛がマシになってきて、午前4時ごろからウトウトできた。
7月1日 (月) 電話があり、きゅうきょ来院。
8時間に及ぶ激痛、髪は乱れ顔面蒼白、憔悴しきった様子である。
今は落ち着いてはいるが、軽い腹痛と吐き気がある。
中医学的には陥胸湯証である。腸閉塞や虫垂炎などもそれに該当する。
過去に腸閉塞の発作を防いだ症例があり、今回の胆石発作にもその経験が生きている。
初診…7月1日 (月)
食べることの指導
「ちょうど1年前にも胆石の激痛が出ておりまして、それと全く同じなんです。」
「なるほど、胆石疝痛ですね。今朝は朝食はどうされました?」
「食べてません。また痛くなるので…。」
「食べると痛みが出そうでこわいですね。でも、朝食を抜くのはよくありません。ドロドロの液が出て腹痛がおさまったように、いまこの体には “捨てなければならないゴミ” がたくさんあるのですね。そのドロドロのゴミはどこにあるかと言うと、肝臓から腸管にかけて特に多く存在しています。肝臓は体中のゴミを解毒して、胆汁に溶け込ませ、胆汁は胆管を流れて十二指腸に排出され、腸管に入ったゴミはそのまま下ってウンチとして出ていく…という構図があります。そのゴミを含んだ胆汁は、食べないと出ません。だから、朝食と夕食は必ず摂ってください。」
「そうなんですか…。」
「ただし、無理に食べてはなりません。だから、白米を一粒でもいいから食べる…ということを覚えておいてください。白米一粒なら、無理に食べることにはならないですね? でも、ちゃんと食べています。必ず食べるということと、無理に食べてはならないということ、この矛盾する2つの要素を両方満たすのが “白米一粒” なんです。」
「なるほど、分かりました。」
「今まで、知らず知らずに食べ過ぎや栄養の摂り過ぎがあったのですね。食べたもの (人間以外の異生物) はすべて肝臓が人間に変えてくれていますが、これは肝臓の仕事の一つで “各種タンパク質の生成” で、だから我々は生きていけるのですね。」
「ところが、食べ過ぎると肝臓の仕事量のキャパを超えてしまいます。すると肝臓がくたびれて、肝臓のもう一つの仕事である “解毒” つまりゴミ出しが滞ってしまう。だから肝臓にくまなく張り巡らされている胆管の中身がドロドロになってしまった。それが固まると胆石になります。でも胆石はあっても胆管にスキマはあって、そのスキマを胆汁は流れている。だから胆石はあっても痛みが出ないんです。しかし胆管の中身がドロドロになる…つまり肝臓がドロドロになると、胆汁が動かなくなって詰まってしまう。だから激痛になったんです。」
「そうなんですか。」
「胆管だけでなく、胃から小腸にかけての消化管もドロドロになってしまうと、胆汁が出たくても出られませんね。だから胆汁は余計に詰まってしまう。夜中に何度も吐いてドロドロの液を出したら痛みが治まってきたのはそういうことです。と同時に、胃腸がそんなにドロドロになるくらい食べ過ぎていたわけですよ。ドロドロって何だか分かりますか? これ、栄養の塊ですよ。」
「だから、夕ご飯を食べたら痛くなったんですね。」
「そうです。ある一定のライン (閾値) というものがあって、たとえばコップに満タンの水が入っているとして、そこに数滴水を垂らしたら溢れる。溢れるということは、限界ギリギリのラインを越したということです。それが昨夕だったのですね。」
「分かりました。」
「一つ解せないことがあるのですが、こんな劇症は、普通はこんなところに来ずに、病院に行きますよね。なんで病院に行かないんですか? 」
「去年にも同じことがありまして…。大学病院で胆石を取ってもらう手術をして、かなりたくさん石が肝臓の中にもあって、できるだけ取ってくれたらしいんですが、その時に医師から “胆石には薬がない” と言われたので、先生のところで治していただこうと思いまして…。」
ちょうど去年の7月にも、同じ痛みがあった。
去年7月6日、夕食後から腹痛、朝まで痛みに苦しむ。
7月10日、病院でMRI、その日は10時〜13時も強い痛みがあり、さらに夕食後18時30分〜翌朝3時30分まで痛みに苦しむ。
7月11日、胆石除去手術。
去年の経過から、またいつ疝痛発作が起こるか分からない。
「とにかく、何も食べないのはよくないです。これから脈診で、どういう食べ方をしたらいいか、体に聞いてみますね。」
今日の昼食、夕食はどうすべきか。
脈診の結果、昼食は抜いてはいけない。ただし食べていいのは白米1粒のみである。
夕食も同様、白米1粒のみ。2粒でも悪化と出る。
「これから帰ったらちょうど昼食時なので、白米を1粒のみ、まず手を合わせて、よく噛んで、できるだけ甘みを探して食べてください。夕ご飯も1粒だけ、明日の朝食も1粒だけ、明日も治療に来てください。そのときにまた、どれだけ食べていいかを脈診で診ます。」
動くことの指導
ただし、これだけでは疝痛は治まらない。このへんは心得えている。内関である。
内関を望診、邪気を確認する。七転八倒する激痛のもう一つの原因はこれだ。陰維脈・陽維脈のバランスが狂っている。維脈というのは“綱維” と言われるくらい大事な脈である。両蹻脈が地球の自転と関わる (蹻捷・敏捷) のと対象的に、両維脈は地球の公転と関わる。
自転とは1日サイクルのことである。
公転とは1年サイクルのことである。
十二経を動かせば、十二経に所属する経穴と交会する陰維脈をも動かすことはできるだろう。しかし、小さな1日サイクルの陰陽を動かすことよりも、巨大な1年サイクルの陰陽を動かすほうが難しいに決まっているのである。だから、力技で強烈に動かしたければ、直接ねらう。それが内関なのである。
明らかに言えることは、昨日出た痛みは、昨日や一昨日に問題があったからではない。もっと長い間かけて胆石は形成され、それがある日突然、閾値に達して痛みとなるのである。1年サイクルの問題、つまりここ数年の問題が、閾値に達していきなり出る。
この「いきなりさ」を僕は、チューブが詰まる現象に例える。詰まる要素 (ドロドロ) は何年もかけて徐々に作られる。そして、詰まるのは一瞬である。脳梗塞 (脳血管というチューブ) しかり、肺がんによる窒息 (気管というチューブ) しかり、尿路結石の痛み (尿路というチューブ) 、腸閉塞 (腸というチューブ) 、前立腺がんの尿閉 (尿道というチューブ) 、大腸がんによる便秘 (大腸というチューブ) 。
そして、胆石疝痛は胆管というチューブ、これもしかり。
みな、突然起こって、難治性が高い。
これを動かすには、それなりの力量が要る。
内関の反応を取ることが重要である。では、その取り方は? これも心得ている。ウォーキングである。夏場は活動期、冬場は休息期という大自然の1年サイクルが機能していないのが今の状態である。本症例で内関に邪気があるということは、内関 (冬場) と外関 (夏場) のバランスが崩れているということである。当該患者は去年7月に胆石の手術で体調を崩したが、その冬は元気回復して活動的になった。しかしこの夏は暑さもあって家でじっとしていることが多く、そのため、このままでは夏場と冬場のバランスが崩れるのである。だから、こんな体調ではあるが、ウォーキングが形ばかりだとしても必要なのである。少し行動にあらわして型 (かた) を行えば、天地自然の大陰陽は「大目に見てくれる」のである。
「ウォーキングをしてください。時間は… (脈を診ながら) …20分です。ゆっくりでいいです。足踏みでもいいです。室内でいいです。」
「はい。」
この瞬間、内関の反応が消える。「分かった。ウォーキングをやろう」という気持ちが、体を大きく変える。
鍼を打つ
百会に一本鍼。
治療を終える。
2診…7月2日 (火)
大きな痛みは出なかった。
「白米1粒、どうでした? 」
「はい、できています。ごはん1粒だけ、昨日の昼と夜、それから今朝も食べてきました。」
しかし吐き気が続いている。そのため、昨夜もほとんど眠れていない。痛みが出ていないので昨日よりも楽ではある。
次に気になるのは、内関である。ん? また反応している。さてはウォーキング、やってない ! ?
「ウォーキングどうですか?」
「昨日は一日雨だったのでやってないです (雨の時はしないように指導している) 。今日は…もう、食べてないんでしんどいのでやってないです。」
「ここのツボ (内関) の反応がまた復活しちゃってます。このままでは、今夜また激痛が起こると思います。すごく大事なことなので、重きを置いて聞いて下さいね。まだ (夕刻の) 5時半なんで、帰ってから夕飯まで少し時間があります。やってください。20分。ほんとうに、室内で足踏み、ちょっと足を上げるだけでいいので、形だけやればいいだけですから、ゆっくり、やってください。それならできると思います。」
「ああ、そうですか。そういうことなら、分かりました。やってみます。」
「今、内関の反応が消えました。今の気持ちで、ね。」
百会に一本鍼。
脈診の結果、白米を2粒に増やすよう指導する。
「明日は水曜日で休診なんですが、診といた方がいいですね。早く食べれるようになっていただかないとね。よかったら開けますけど? 」
「そうですか! そうしていただければありがたいです!」
「では11時30分に来ていただいていいですか。」
「10時頃がいいんですけど。」
「あのね、ぼく明日は休みの日なんですよ。予定もあるんですね。」
「ああ、そうでしたね。分かりました。11時30分でお願いします。」
たった一人だけのために院を開けようと言ってくれる。その真心に何も感じないようでは治る見込みはない。だからあえて11時30分を曲げなかった。
実際、休みの日もそれはそれで忙しいのである。
3診…7月3日 (水)
まず、気になるのは内関の反応である。反応は…消えてる!
「ウォーキング、やりましたか。」
「はい、昨日帰ってから20分、やりました。やっているうちに、腸が固まっているのが緩んでくる感じがあって、それから吐き気がマシになりました。朝起きてみると吐き気が無くなっていました。夜はまだ熟睡できませんでしたが、吐き気がないので楽です。」
それでいい。
ほとんど何も食べていないし眠れていない状況で、ウォーキング (足踏み) をやれ。確かに僕は無茶苦茶なことを言っている。しかし、その気になれば少しだけ足を上げるくらいなら、やろうと思えばやれるのだ。でないと体が “やれ” と言うものか。信じる心である。病気を治すうえで最も得難く、最も大切なのはここだろう。私意を挟んでいる間は、よくならない。素直さ、なのだ。
舌診所見も改善している。膩苔が薄くなり、右舌辺のハゲが修復してきている。
百会に一本鍼。
内関の反応が取れれば、詰まりは取れたと言っていい。
あとは、落ちた体力 (生命力)を回復させることに集中する。
脈診の結果、薄いおかゆ (1円玉大の白米を薄めたおかゆ) と梅干しを食べるよう指導する。
4診…7月4日 (木)
薄いおかゆと梅干しがおいしかった。
昨日から腹痛がほとんどなくなった。吐き気もない。
舌中央部に苔が生えてきており、全体的に力強い苔に変化している。右舌辺のハゲはさらに修復が進んでいる。
百会に一本鍼。
白米を10円玉大に増やして、薄いおかゆと梅干しを食べるよう指導する。
5診…7月5日 (金)
笑顔で挨拶を交わす。その際、肘に注射の保護テープが目に入る。うーん、嫌な予感。
まずは診察である。以下2点、大きな悪化が認められた。
表証がある。寒邪に取り囲まれているのである。これは急激な悪化 (生命力の低下) を意味する。この状態は運動で悪化するため、ウォーキングも一旦中止し、安静を心がけるよう指導する。
短期痰湿スコアが左天枢に達している。危険域 (入院レベル) である。今夜、七転八倒の可能性が極めて高い。これは、食べ過ぎなどが原因で、肝臓の持つ許容量 (栄養を受け入れられる仕事量の限界) をはるかに超え、器から溢れてこぼれた状態を示す。こぼれたものを痰湿といい、そのドロドロが今回の激痛の原因である。だが聞いてみると、食事は当院での指導通りに行っているとのことである。にも関わらず痰湿が爆発的に増えているのは何故か。
「 (保護テープを指して) これ、何かありました? 病院に行ったんですか?」
「ああ、昨日たまたま定期検査の日で、胆石の痛みで食事が摂れてないと主治医に言ったら、 “それなら点滴してあげます” ということで、点滴を打ってもらったんです。そしたらいっぺんに元気になりました。ははは。」
盲点。
脈診で、食べていいものを判定する。やはり。
食べていいのは、ご飯粒、1粒のみ。
「せっかくおかゆが食べられるようになったんですけど、白米1粒にもどしましょうか。おかゆを食べるとまた胆石疝痛が出ると思います。口から入ったものはすべて肝臓の仕事になると何度も言っておりますね。栄養というものはすべて異生物 (植物・動物) なんです。それを人間に変えるのが肝臓の仕事です。人間のタンパク質は10万種類ありますが、そのなかに異生物のタンパク質は一つもありません。ですから、口からであろうと血管からであろうと、栄養 (異生物) が入ってくればそれは肝臓に行き着き、肝臓の仕事になるんです。」
「点滴に含まれる栄養分も、異生物である動植物から抽出したものなので、肝臓のお世話になってこそ初めて体に取り込むことを許されるんです。いま、〇〇さんは十円玉大の白米が限度でしたね。ところが点滴を一本うつと、茶碗一杯の白米に相当する栄養があります。肝臓にとってみれば、いきなり100倍に相当する仕事が舞い込んできたようなものです。だから一気に弱ってしまって、また白米一粒しか許容できなくなったんです。」
「ああ、そうですか…。」
上は点滴直後の舌診画像である。これまでの画像と異なり、明らかに乾燥しており、舌尖から剥げ上がりつつあり、黄苔も出ており、右舌辺も剥げている。湿熱が盛んな様相が明白である。このままでは、今夜にも疝痛発作が起こりかねない。
「ミゾオチから痛みが出てお腹全体に痛みが広がるということは、急性腹症のなかでも劇症です。命に関わることすらあります。軽いものならばともかく、こういう重篤なものになると、こっちの先生の言う事を聞き、またあっちの先生の治療も受け、なんてやってると治すのは難しいですね。肝臓の状況がどうなっているかよく考えずに、とりあえず栄養を足して元気にすればいい…というのは、泣いている子供にケーキを与えたり、学生さんに高級車を買い与えたりするのと同じです。喜ぶでしょうが、その子のためにはなりません。元気になった分、痛みが出ます。痛みは元気があるから出るんですよ。今後もこういうことが続くと、ぼくがいくら頑張っても治せないと思います。やっていいか、電話で確認してほしかったかなあ。普通はそんなことしないけど、そういうレベルなんです。並では診ることができないレベルということは、患者さん自身もそのレベルが求められるんです。今までしてきた病状の説明だって、なかなかできる人はいないと思うんです。〇〇さんは僕が20歳代の頃から診ているし、今も本院では診ずにこうやって個人的に診ているので、僕の今のレベルがよく分かっておられないと思うんです。〇〇さんの想像をはるかに超えるレベルで治療をしているということを分かってください。とにかく、月曜日からほとんど食べていない状態で、ギリギリのところを薄氷をふむ思いで治療しています。真剣に任せてださい。変わったことをするなら一々確認してください。中途半端では共倒れになります。僕も苦しむし、〇〇さんも苦しむことになると思います。他の患者さんを治療しつつも、毎日思うのは〇〇さんのことです。昨夜は痛みが出なかったかなあって、常に思います。そういう状況にあることを分かってください。」
「分かっているつもりなんですが…。そりゃ、えらいことしてしもたなあ…。」
「また白米一粒からやり直すということは、状況はさらに予断を許さなくなっています。主一無適の心を築き固めてください。白米一粒から、もう一度仕切り直しましょう。」
百会に一本鍼。
6診…7月6日 (土)
昨夜、痛みは出なかった。微妙にあったシクシクもない。かえって好転。
昨日の叱責で、かえって気持ちがシッカリした (落ち着いた) のだろう。叱ることも時には必要。
表証は見受けられず、短期痰湿スコアも安全域に減少している。
脈診すると、お茶碗1杯分の薄いおかゆ (と梅干し) がOKと出た。今まででもっとも多い量である。昨日は白米1粒だったのに、一足飛びの増量である。
また表証も取れ、ウォーキング20分を再開せよと出た。
百会に一本鍼。
7診…7月7日 (日)
日曜日だが、当該患者のためだけに治療を行う。それくらい、事態は深刻なのである。今が肝心時、ここでスローダウンがあれば致命傷になりかねない。
腹痛はない。
脈診で、表面にお米が出ているくらいの濃さのおかゆを茶碗1杯分…と出た。
ブラス梅干しに塩昆布がOKと出る。
百会に一本鍼。
8診…7月8日 (月)
痛みなく過ごせている。よく寝られている。
脈診で、普通の白米 (おかゆではなくご飯) にせよと出る。
また、豆以外の野菜なら何を食べてもよい…と出る。白米とおかずの割合は7:3。
食養生表 をご参考に。
百会に一本鍼。
9診…7月9日 (火)
痛みなし。
脈診で、野菜に加えて豆腐・味噌などの豆製品を食べてもよいと出る。白米とおかずの割合は7:3。
これで一安心。タンパク質が撮れるようになった。
百会に一本鍼。
明日は水曜日で休診日。もうわざわざ当該患者だけのために院を開けなくていい。明後日の予約とした。
10診…7月10 (木)
痛みなし。
脈診で、油のない動物性タンパク (ゆで卵・かつお節など) がOKと出る。白米とおかずの割合は6:4。
もう大丈夫、よほどのことがない限り悪化はしない。
百会に一本鍼。
〇
以降、2024年8月27日現在、胆石発作は一度も起こっていない。
まとめにかえて
じつは、栄養のとりすぎと仕事のし過ぎ は、当該患者に説明するためにわざわざ書いたものである。図示しないと伝わらないと思い、何日もかけて図も書いた。それくらい、いくら言っても聞かなかったのだ。このままではいけない…予感は的中し、それが1年前の胆石手術なのである。皮肉にも、プログを見せながら説明した直後のことだった。
人間というものは、痛い目にあうと納得する。それからは、食べることに関しては割と素直に聞くようになった。それでも、少しでも栄養を…という無意識はどうすることもできず、今回の胆石発作となったと見る。
食べることに関してはそういうことで聞く耳ができた。しかしウォーキングの件など、それ以外のことはまだまだである。77歳、この年代の男性は特別に頑固だ。年をとれば頑固にもなるが、戦前生まれは知識もなく朴訥であった。戦後生まれは必ずしも正しくないヘタな知識を持っており、それが変な頑固さを生んでいるように思う。かつて20歳代のころに診た70代・80台は、頑固ではあったが、もう少し素直に聞く耳を持っていた。
ぼくは26歳で開業した。
当該患者との付き合いは長い。そもそも、開院日の数日後つまり1995年7月から診続けているのである。遠い縁戚でもあり、1000円で診させていただいた。
それを29年間貫いている。なんどか「もう少し取ってください」とおっしゃったが、そのたびに固辞した。右も左も分からない若造を信用して、草成期のきびしい時を支えてくださった。その恩義を忘れないために、自分自身に課している約束である。
そして、お金にかかわらず一生懸命になれるか、無我夢中になれるか。
熱意。その有無を確認させてくれる大切な患者さんである。
休日、誰もいない院で当該患者の来るを待ちつつ、まったく衰えを見せないそれを再確認した。
いま、このような劇症を安きに導けたのも、それが今なお太陽のように輝いているからだと思う。
物理学的に言えば、米1粒というのはそれだけの影響力しか持ちません。しかし、昔から米の中にはご神仏がおられるとか言われるようです。ご神仏というと胡散臭くなりますが、それを「大自然の力」と言い換えると、何も矛盾がありません。そういう力を信じるからこそ米1粒を実際に食べるという行為がうまれるとするならば、すでにその人はその力を得ているのでしょう。その力は「量」という概念ではくくれず、お茶碗1杯であろうが、1粒であろうが、同じなのですね。大人の大男であろうが、生まれたての小さな赤ちゃんであろうが、同じ「命」を持っているというのとなんら変わりません。命とは力のことです。そもそも命は神秘に属します。それが弱ったものは、その性質に合わせた方法が必要なのかもしれません。