東洋医学の「気」って何だろう

物質ではなく機能

東洋医学は「気」の医学と言われます。「気」には科学的でない響きがあり、これが東洋医学が非科学的だと言われる根本的な原因でしょう。

結論からいうと、「気=機能」です。この機能というものが、実は非常に厄介です。なぜなら、手に触れることができないからです。つまり機能は、物質ではないのです。

ここでいう物質とは、実体のあるものであるとしましょう。
それと対比される機能とは、実用のことです。

物質がなければ機能は存在しません。
実体がなければ実用は存在しません。

物質 (実体) が存在する意味は、機能 (実用) があるからです。
機能 (実用) が存在しないなら、物質 (実体) は存在する意味がありません。

西洋医学の基礎は「物質」つまり実体です。だから写真にとれる。数字でわかる。
東洋医学の基礎は「機能」つまり実用です。だから写真にとれない。数字に出せない。

機能の難しさ

物質は、手に取ってみることができる。写真に撮って見せることもできる。わかりやすい!
働きを、手にとって見せる、写真に撮って…それは無理です。だからわかりづらい。実体がなく抽象的だ、と言われがちです。
東洋医学はそんな分かりづらいものを基礎にして、三千年もの間、理論を発展させてきたのです。

機能が厄介で分かりにくいという例をいくつか挙げてみましょう。

①まず脳と心です。脳はもちろん物質です。心は…脳の機能ですね。機能 (働き) というものの捉えにくさが、よく分かります。心は見えません。さわれません。

お父さんと仕事の関係。お父さんの似顔絵は描けても、お父さんの働き (仕事) を示せと言われたら…子供は困るでしょうね。似顔絵は物質的な顔面です。しかし、その一人の人物 (Aさん) の機能は多彩です。夫としてのAさん・父としてのAさん・友人としてのAさん・社会のある仕事をうけもつプロフェッショナルとしてのAさん…これらを説明するのはとても難しいです。

砂糖と甘さの関係も物質と機能です。
砂糖は実体 (物質) 、甘さは実用 (機能) です。
砂糖は見ることも触ることもできます。だから、砂糖を知らない人に教えるなら、砂糖の写真を見せればよい。甘さはそうはいきません。実際になめてみた人でないと分からない。だから伝えにくい。

石と漬物石の関係。ここに両手で持つほどの大きさの丸い石があるとします。この石はまぎれもなく物質ですね。機能は…特にありません。ところが「漬物石にしよう」という誰かの意思が働くと、この石には漬物石としての働き (機能) が生まれます。このように、機能というものは突然備わることもあるのです。

肉体と生命も、物質と機能です。肉体がなければ生命は宿りません。しかし、生命の宿らない肉体に意味はありません。肉体は、生命のために重要なのです。生命は、肉体が存在する「意味」です。

そうです。機能=働き=実用=意味 なのです。

もう一度、①~⑤を見直してみると、機能を示すもの (心・お父さんの働き・甘さ・漬物石としての働き・生命) がなければ、意味がありません。機能とは、存在する「意味」であることがよく分かります。

大切なものは目に見えないんですね。

気の字源

気はもともとは「气」で、雲を表す象形文字です。雲とは、形の無いもの、つかみどころのないものの意です。雲は、あるにはあるが近づいて確かめようとすると見えなくなってしまいますね。ちなみに「三」の字にも見えますが、「三」は三本線が同じ長さの「≡」がもともとの字形なので、これとは異なるものです。

その後、穀物である「米」の意味が加わり、形声文字としての「氣」となります。米から出る湯気はまるで雲のようですね。米という「実体」から湧き出る実体のないものが気です。

機能が原因の病気

機能の重要さはよく分かりました。と同時に、機能の捉えにくさも、よく分かりました。

病気を治すとき、肉体 (物質) と生命 (機能) を両方とも見つめなければならないことは明確だと思います。病気には「物質的な病気」と「機能的な病気」があります。

物質的な病気、たとえば事故で大けがをした。これは物質的に、骨をつぎあわせ破れた皮膚を縫い合わせる必要があります。何かの破片が入ってしまっていれば、これを取り除けばいい。明確に捉えることさえできれば、スッキリ取り除くことができます。物質的な病気はたくさんありますが、こういうものは現代の医療技術により、命さえあれば治ります。

ただし、そういう病気ばかりではありませんね。たとえば肩こりが治らない。しかも肩が凝るからと言って「肩を取り除きましょうか?」とは言えないですね。喘息で呼吸が苦しいからと言って肺を取り除くことはできません。機能的な病気は “捉えにくい” のです。

しかし、捉えにくいと言っていたのでは、病気は治せません。つまり、そういうことです。治らないほとんどの病気は、体の機能がおかしくなることが原因なのです。

機能の異変は、物質 (形体・モノ) の異変に帰着します。結果だけを改善しても、原因を改善しなければ、いずれ同じ結果になります。

生かし合う関係

物質を基礎に置くことで治す医学。
機能を基礎に置くことで治す医学。
どちらも優れています。
どちらも科学です。

物質と機能は陰陽の関係です。陰陽とは夫婦のようなもの。
お互いがお互いを助け合い、生かし合う関係です。

どちらも必要です。

東西の医学は、お互いがお互いを助け合い、生かし合う関係なのです。

機能はたとえで説明する

ただし、物質は分かりやすく、機能は分かりづらい。

東洋医学は、説明が分かりづらい。

東洋医学で病気を説明しても、なにを言ってるのやら良く分からない。
機能 (働き) というものが、それだけ難しいからです。

そこで、東洋医学が、病気のメカニズムを説明するために使っている方法があります
それは「たとえ」です。

物質を基礎に置かない東洋医学は、分かりやすい言葉を持てません。ですから、何とか説明するために「たとえ」を使うのです。たとえによってイメージする。イメージが大切です。

考えてみてください。「働き]を説明する時、我々は無意識にたとえを使っています。心当たりありませんか?

・・・水のように静かだ
・・・火がついたように一生懸命だ
・・・石のように動かない
・・・若葉のようにスクスク育つ
・・・土台がしっかりしている

などなど。イメージが加わると分かりやすいですね。

水と火というたとえ

たとえば、東洋医学には「水」という概念があります。水が人体に存在することは疑いありませんが、東洋医学ではそこに着眼しません。「水のような働き」に着眼します。

たとえば水は、流れていれば美しい。流れが悪くなると濁り、ネバつき泡立ってしまいます。流れて美しい状態を「津液」といい、人体のエネルギーの一つと考えます。淀んで汚い状態を「痰湿」といい、人体にダメージを与えるものとします。痰湿は、もともと水ですから、下に流れ落ちる性質があり、下半身に多く病変を引き起こします。

東洋医学には「火」という概念もあります。太陽のようなものですね。適度な太陽は温かさであり、我々の生きる元気の源です。でも強すぎると良くありません。強すぎる火を「邪熱」といい、これは人体にダメージを与えます。火は上に昇る性質があり、上半身に多く病変を引き起こします。

臨床で合致する

この「たとえ」を、多くの学者は拒絶します。「火」とか「水」とか言われてもバカらしいし、何を言っているのか洞察する気力が湧かないのでしょう。

しかし、「働き」というものが、どれだけ理解しにくいものか、また、病気を治すために「働き」というものを理解することがどれだけ大切か、ということが理解できれば、あれだけ優れた古代大陸文化が生み出した東洋医学の手法に、「何かある」と察しがつくと思います。

こうした「たとえ」は、すべてが正しいとは限りません。間違ったものも多くあります。

正しい、とは臨床で使えると言うこと。普遍性があるということです。
間違っている、とは臨床で使えないということ。普遍性がないということです。

では、間違ったものはどうなるか。生き残らない、つまり捨てられるのです。

東洋医学には3000年の歴史があります。その中で、使えるもののみが伝えられ、使えないものは勉強されなくなります。自然淘汰の中で生き残った理論が、整理され、陰陽論という学問のなかで統一されたものが東洋医学です。

自然と人体の合致

東洋医学の根幹をなす考え方に、天人合一思想というものがあります。
古代中国の思想です。
天 (自然) と人間は、別々のものではなく、深いつながりがある…いえいえ、それどころか、図形で言えば相似の関係です。
自然は大宇宙。
人は小宇宙。
…じっさい、そう思います。

なぜそう思うか。
自然現象、たとえば火・水・風・川・木・海・大地・空など、引いては宇宙、こういったものが人体のなかに感じられるからです。

なぜそう感じるか。
そういう自然の働き・機能を、人体の働き・機能に反映させて、生理的あるいは病理的なメカニズムを描いてみる。そして、描いた通りに治療をやってみる。それが効く。

そのようにして、それを長い歴史の中で整理して、人体の気とはどんなものなのか、学問にしたものが東洋医学です。

自然を知らねば、東洋医学は分かりません。
自然の美しさ・ありがたさ・こわさ。
大自然の「気」…機能・働き・実用・意味…を人の生命に当てはめて学ぶ。これが東洋医学です。

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