東洋医学の「血」って何だろう

東洋医学の「血」は、皆さんが思い描くものとは少し違います。

まず、血は気と陰陽関係です。これが基本ですので押さえておいてください。陰と陽は、一枚の紙の裏と表のようなものです。二つにして一つ、一つにして二つ、表があれば必ず裏があります。二つは相反するものでありながら、お互いがお互いを生かし合って、一枚の紙を作ります。

血は物質

ブラッド+α

石油ストーブをイメージします。血は石油です。気は温かさです。血 (石油) は目に見えますが、気 (温かさ) は目に見えません。血は物質的色合いの強い概念です。

気=機能。
血=物質。

血は物質です。ただし、それだけではありません。

「血」は、もともと東洋医学の言葉です。すくなくとも2000年以上前から使われてきました。つまり、東洋医学独自の概念です。「血」は、単に液体状の赤い物質を指すのではありません。現代使われる血 (ブラッド ) という言葉と、共通点はありつつも、東洋医学独自の概念がつまった言葉です。

「血」=ブラッド ではありません。
「血」=ブラッド+α です。

ブラッドの説明は必要ないと思いますので、+αについて、説明します。
+αは、モノではなく、機能の部分です。ここが東洋医学らしさですね。

意味が広い

血には「気を貯金しておく働き」があります。気とは体力です。だから血は体力である、とも言えます。たとえば、体を使いすぎたり、頭を使いすぎたりすると、「血が減る」という表現を使います。たとえば、目を使いすぎる、夜更かし、気を使いすぎても血が減ります。

血が減る…とはどういうことでしょう。
これを東洋医学では「血虚」といいます。

まず、貧血です。貧血は血虚です。血という物質 (ブラッド) が減れば、もちろん貯金額そのものが少なくなったと言えます。これは重症です。出血多量や貧血が数値的に明らかとなります。

貧血でなくとも血虚と診断される場合があります。血=体力を貯金しておく機能、これが減退する、と理解します。貯金額が減っていなくても、景気が悪くて儲けが少なくなれば、「体力を貯金しておく機能」が減退したということになります。貯金が減る前に手を打たなければなりませんね。東洋医学の「血」という言葉は意味が広いのです。

別の角度から説明します。たとえば筋繊維 (筋肉を構成する線維状の細胞) の数は生まれつき決まっており、数は変わりません。≫ウイキペディア「筋肉」
でも鍛えればムキムキになる。これは一つ一つの筋細胞が大きく強くなっているかららしいです。血液細胞も同じで、数は変わらないが、一つ一つが弱くなったり強くなったりする…これを「血を消耗する」「血が足りている」と表現していると理解してください。

血と、体力 (気)

「耳が遠くなると長生きする」と言われることがありますが、こういう因果関係はありえます。目も耳もたくさんの情報を取り入れる器官で、取り入れられた情報によって、脳は多くの血を使います。情報にはストレスになるようなことも含まれます。目が見えにくくなるのも耳が聞こえにくくなるのも老化現象ですが、これによって体力が奪われずに済むのですね。

血は石油みたいなものです。燃料は物質ですね。
気 (機能) はいわば温かさで、これは燃料が無いとスタートできません。

ただし、石油だけではスタートできません。石油に気 (火) をもっていくことが必要です。最初は気が必要になるのです。

血の字源

血の字源は、「皿+・」です。「・」は赤い液体である血を表します。その下にある皿が面白いですね。液体は器 (物質) がないと収まりません。この器が人体です。人体は血でできていると言っても過言ではないですね。血とは、血と体 (受け皿) を包括した概念であるとも言えます。

容器にはいったこの液体 (燃料) から、動力 (気) が生まれるのです。
車のタンクにはいった液体 (燃料) から、スピードが生まれるのです。

つまり、車のスピード (気) とガソリン (血) です。
ガソリンはスピードを生みますね。またガソリンはスピードを貯金しているとも言えます。
スピードは次のガススタに到達する力となって、ここでガソリン補給を生みます。
こうして血は気を生み、気は血を生みます。おたがいに助け合う関係を陰陽といいます。陰が血で、陽が気です。夫婦のような関係です。

血虚とは

血虚はつらくない

先にも触れましたが、血を消耗した状態のことを「血虚」といいます。血虚は、つらさという自覚症状がなく、これを診断するには色を重視します。たとえば顔の色・耳の色・唇の色・爪の色・体の色・舌の色です。血色がないのが特徴です。また月経量の少なさ、経血の薄さです。

血虚証を調べると、動悸・多夢・痺れ・眩暈なども挙げられています。これは、血虚があれば、気の病証 (気滞・気虚) をほとんどの場合で伴うので、こういう症状が挙げられているのです。気の病証が出ることによって、これ以上の血の消耗を防いでくれています。

血が本当になくなってから気付いていたら手遅れになる (死んでしまう) ので、そうなる前に症状を出して教えてくれている。つらさは「気」が関与するのです。

血虚は不安定

つまり、血虚はすぐには症状に現れないのです。後でボディーブローのようにこたえてきます。

たとえば、石油ストーブで考えましょう。石油が減ったからといっても、火はつくし、ストーブの温かさも変わりません。でもすごく寒い日が来たとき、ながくつけることができません。いつ消えるかわからない、数日後かもしれないし今すぐかもしれない…という不安定さがあります。

車とガソリンでも同じです。エンプティーランプが点灯していても、出そうと思えば時速100kmくらい出ます。でも、いつガス欠が起こるかわからない。

血 (燃料) を弱らせると、気が立ちます。これはガソリンが少なくなったときの落ち着かなさと同じです。気が立つと、それは緊張 (気滞) となり、緊張があると自分だけの時間が欲しくなります。それが夜更かしやゲームやスマホにつながり、それが血をさらに弱らせます (後述) 。気滞は様々な痛みを生み出すことがあります。

しかし、もっとこわいのは気滞としての症状が出ないままに血を消耗することです。

不安定さが持続する。そして、やがて動かなくなる (気虚) 。

体力の消耗が症状として表れることを「気虚」といいます。息がハアハアしたり、しんどく感じたりします。石油ストーブの火が小さくなった時といえるでしょう。

不安定さは、神経過敏として現れる場合があります。たとえば気にし過ぎ・怖がりすぎ (パニック障害) ・音に敏感・光に敏感 (まぶしい) ・臭いで気分が悪くなる・幻覚が見える・幻聴が聞こえる… などです。これらも気滞の一つの表現といえるでしょう。バックに血虚があるからこそ、こういう症状が出るのです。そしてこれらの多くは気虚を伴います。このような複雑な病理のもとは、血虚にあるのです。

血と “目の使いすぎ”

もし、血虚が起こりつつあるのに、気の病証が出なかったら…。

鬼ごっこで遊んだ時で考えてみます。脚を酷使します。筋肉は多くの血を使っています。それと同時に気も消耗するので息がハアハアしてしんどく感じます。気虚という症状が出るのです。しんどいので走るのを止めます。だからこれ以上の血の消耗を、自然と防げるのです。

ゲームで遊んだ時で考えてみます。目を酷使します。脳は多くの血を使っています。ところがです。息はハアハアしません。しんどく感じません。気虚という症状が出ないのです。しんどくないので遊ぶのを止めません。血の消耗が食い止められない。

これを「暗耗」といいます。目を使う・夜更かしする…これらは体力を消耗しますが、ハアハアしません。

久視傷血.<素問・宣明五氣 23>

走る (足で血を使う) とハアハアしますが、見る (目で血を使う) ではハアハアしないのです。

人類 (ホモサピエンス) の歴史は20万年前からとも言われますが、「走る」は種の誕生以来行われているので、血を使いすぎないように「ブレーキ」も備わっているが、「タブレットなどで画像を見る」はここ100年ほどの歴史しか無く、ブレーキがまだ備わっていないのでしょう。昼ならまだしも、日暮れ以降 (夜) に画面を凝視することは、そもそもの「天地自然の理法」に背くものと思います。温暖化によくない。地球によくないことは体にもよくない…というのが持論です。

ちなみに「字を見る」は古代中国から何千年と行われていますが、ブレーキの必要がないですね。すぐ眠くなって寝てしまいますので。よって「勉強は体にいい」というのが子どもたちに教えるところです笑。

血と “興奮”

興奮状態でも同じことが言えます。興奮している人は「火事場の馬鹿力」が出ているので、しんどく感じません。血虚を起しやすい。気虚というブレーキがかからない。

血だけが足りなくなると興奮状態になるのです。

気を使いすぎることも、興奮状態の一つです。

そして、近い将来、あるいは遠い未来において、思いも寄らない事態に見舞われるのです。興奮状態の期間が長ければ長いほど…です。

血と気はシーソーの関係

冷ます働き

血には、燃料としての役割以外に「冷ます働き」があります。

たとえば「烈火」のように怒り狂っている人があるとする。もし血が足りないと怒りを抑えることが出来ない。血という体力がある人は、気持ちを切り替えることができる。冷静になれるのです。

何かに「熱中」しすぎたときも、「今日はここまで、続きはまた明日…」と、体力を温存しながら根気よく続けることができます。血が足りないと、それができません。一気にやってしまい、後で体調を悪くします。

「烈火」「熱中」…すべて火です。強すぎるは火は、冷まさなければいけません。
火を冷ます。…といえば、それは水ですね。
水を使えば火力を調節できます。

血は水からできている。だから火を調節できる。

この単純な発想が、臨床に合う。この理論に基づき治療する。すると効く。
だから3000年もの間、「血」という言葉が生きつづけているわけです。

血はブレーキ

つまり血虚になると、火の制御ができず、怒りっぽくなったり、眠れなくなったり、ブレーキがかけられなくなったり…ということがおこることがあるのです。火というのは気のことです。気は働き・行動・アクションです。

水は血です。血は生命の泉。嵐の前の静けさ…動を生むための静。サイレント。

つまり、気と血とはシーソー関係にあることが分かります。
火が強くなりすぎると、水は乾き干上がってしまう。
逆に水が足りなくなると、火を食い止めるものが無くなってしまう。
気が暴走すると、血は足りなくなる。
逆に血が足りなくなれば、気が暴走してしまう。

ちなみに、血は足りているが血が停滞した状態を「瘀血」といいます。血はサラサラ流れている時は、大切な体力 (生命力) ですが、停滞すると、それはかえって体力の邪魔をします。これが瘀血 (おけつ) です。

血と気は相互扶助の関係

ここで話題を変えます。シーソー関係からいったん離れてください。

血は気を生む

東洋医学は、気 (機能) を中心とした医学ですが、
「血」という物質的な考え方を、「気」という機能的な考え方にぶつけてきます。
「機能に対する物質」と言う相対的視点 (陰陽) を忘れません。

右があったら、必ず左があるはずだ。上かあったら、下があるはず。前があったら、後ろがある。
そういう視野を常に保ち、一方に偏らないスタンスを求めてくる学問です。

燃料があるから温かさが生まれる。石油が無いと火はつきません。
温かさのために燃料が必要となる。火がつかなければ石油など無用のものです。
石油と温かさは一体のものですね。どちらが欠けても「用」をなさない

「用」とは機能です。働きです。力です。気です。用をなすことが目的なのですから、結局は気が大切。
…でも気だけでは用をなさない。そのためにあるのが物質 (血) です。

気は血の帥、血は気の母

血があるから気が生まれる。
気があるから血は養われる。

「気は血の帥 (すい) 」「血は気の母」と言われるゆえんです。
帥とは元帥、統率するもののことです。

気為血之帥.血随之而運行.
血為気之守.気得之而静謐.
<血証論・吐血>

五体満足であることは大切です。しかし、そこに命が無いと意味がない。でも、身体があるからこそ命が宿る。体も命も大切ですが、存在意義は命です。体ではありません。

気と血は一体で初めて用をなす。
気と血はどちらも同じく大切。
しかし、主従関係でいえば、あくまでも気が主で、血は従です。だから「気の医学」なんですね。

血と気は助け合う

血はどのようにして作られるのでしょう。血を作るのは気です。

気によって血は作られる。
これは当たり前です。血は食べ物を消化吸収することで作られます。消化吸収機能は「働き」ですね。…つまり気です。この働き (気) によって血は作られています。

血によって気は作られる。
これも当たり前です。血がなければ動けません。動くこと=機能でしたね。だから血は気の元です。

つまり、気と血はニワトリと卵のような関係でもあるのです。これは先にお話しした「石油とストーブの関係」でも同じことです。石油があるから温かくなる。温かくしたいから石油がここにある。母子関係つまり相互扶助の関係ですね。

陰陽で説明できる

気と血の関係。
それはシーソーの関係。はたまた相互扶助の関係。
ややこしくないですか?
ここに我々が学校で勉強したことがない理論が隠されています。

陰陽論です。

陰陽はシーソーの関係…どちらかが弱くなればどちらかが強くなる…でありながらも、
陰陽は相互扶助の関係…お互いがお互いを助けあい高め合う…でもあります。

夫婦みたいなもんですね。妻が病気になったら夫は二人分の仕事をする。お互いがお互いをいたわり合い、成長し合う。これが正しい陰陽です。逆に、夫が強くて妻を酷使する。お互いがお互いを利用し合う。これは誤った陰陽です。

まとめ

冒頭で、「血」=ブラッド+α と言いました。

血は物質で、気は機能です。血に気が宿っている。物質に機能は宿っているのです。この物質は、機能の「ために」存在します。「〇〇のために」という時点で、目的があり機能があり意味があります。機能とは気のことです。

もう少し別の角度から考えます。例えば、河原に転がる石ころと、人間を比べてみましょう。石には命は宿っていませんが、人体には命が宿っています。石ころも人体も、同じ物質ですが、命という機能が宿っているかどうかは、大きな違いです。つまり、人体という物質には機能が宿ります。これは物質そのものがすでに機能的側面を併せ持つ、ということです。これが、+α の部分です。

石ころという物質には、この+α がありません。同じく、死体にも+α がありません。死体に血が残っていたとしても、その血にはもう+αがないのです。つまり、死体に残った血、あるいは出血して体外に飛び出した血は、もう「血」ではないのです。

ただし、この石ころにも「漬物石にちょうどいいな」という目的・機能・意味が生まれれば、命 (使命) が宿ります。

生きた命であるかないか、その違いに東洋医学は視線を注ぎ続けるのです。

気一元です。

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