執着とは… 一ばんめは「この体」

やりたいことがいっぱいある。あれもしたい。これもしたい。
でも腰が痛い。膝が痛い。体調が悪い。
でもやりたい。あれもしたい。これもしたい。だから無理にやる。
するともっと腰が痛くなる。もっと膝が痛くなる。
もっと体調が悪くなる。

ある夫婦があるとする。幼い子供がいる。
夫は釣りが大好きである。週末ごとに釣りに出かける。
妻はそれをいつも笑顔で送り出す。
真面目に働く夫、その夫を妻は大切にしている。

ある週末、妻が熱を出して寝込んだ。
しかし夫は、この週末も釣りに出かける。
もう予約もとってるんだ。行かないわけには行かないだろ。

これが執着である。
一ばん大切なものが何かを忘れて、
二ばんめの、どうでもいいものを大切にする。

やりたいことはやればいい。
しかし「周り」に迷惑がかかるようなら✕。これが目安になる。
「周り」とは?
「妻」のことだけではない。
「この体」もである。

妻もこの体も、自分の思うようにならない。自由にコントロールできない。
これらは大切な「他人」なのだ。

反省とは…この体はたいせつな「他人」
反省とは、自分を「せめる」ことではない。 良くなかった過去に向き合い、それを良い未来に変えることだ。 反省とは、しゃがむことである。ジャンプし前進するために。

妻に迷惑をかけてまでやりたいことをやる。
この体を悪くしてまでやりたいことをやる。
それが執着である。

釣りから帰ってくると、妻は寝込んだまま口をきかない。
そして怒り出した。ケンカが始まった。子供が泣き出した。
妻は本気で怒っている。
それ以来、釣りに行けなくなる。

執着すると、かえって手に入らなくなるのである。

執着すると、やりたいことができなくなるのである。

そう、体は本気で怒っている。
それがこの、腰の痛さ、膝の痛さ。体調の悪さ。
だからやりたいことができない。

今日はもう釣りはやめておくよ。ご飯は何か適当なものでも買ってくるから、ゆっくり休みなよ。
そう言いつつ、子供と楽しそうに何か作ってくれている。
ごはんができたよ。いっしょに食べよう。
見れば、つたない料理である。でもおいしい。涙が出るほどに。

妻を選んだ。釣りを捨てた。

翌週、夫はいつも通りに釣りに出かける。
見送る妻はいつもに増して笑顔だ。

執着がなければ、逆に手に入るのである。

捨てれば得られる。
これは法則だ。
早くこの法則を体で覚えよう。

やりたいことはいっぱいある。
でも執着しない。捨てていい。捨てた方がいい。

捨ててはならないもの?
自分を支えてくれているもの。
それは執着じゃない。
それは愛着だ。大切にすることだ。

いちばん大切なものは、
「周り」にいる。ある。
すぐそばにいる。ある。
常に僕たちを支えてくれている。

その代表が「妻」であり、そして「この体」なのだ。

自分 (利己) を捨ててでも、「周り」を大切にする。
そういう人は、きっと「周り」からいろんなものを与えられている。
「妻」から大切にされている。
「この体」からも大切にされている。

コントロールできない「他人」から、大切にされている。

だから、

妻は、何も言わずに見送ってくれる。
腰も膝も体調も、何も言ってこない。

そう、何をやろうと自由だ。

從心所欲.不踰矩.《孔子》
【訓】心の欲するところに従いて、矩 (のり) を踰 (こ) えず。
【訳】したいと思うことをやっても、天地自然の法則から外れない。

【解説】妻が病んでいるときは釣りに行かず、家にいて妻を助けたい。妻が元気なときは釣りに行きたい。いずれにしても、自分のしたいことが天地自然の法則から外れていないので、だれも何も言ってこない。そればかりか、天地自然の法則にかなっているので他人から信頼され大切にされる。そういう人は体も健康である。

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