名人芸と “医療革命” … 個の医療から公衆の医療へ

名人芸は一代限りといわれます。だから毛嫌いする人がいます。
でも、頭から否定するのはよくない。真似てみたら真似できるかもしれません。仮に真似ができて、その名人芸をみんながやり始めたら、それは名人芸ではなくなります。
たとえば蒸気をピストン運動から滑車運動に変えた「すごいやつ」がいた。蒸気機関 (エンジン) です。みんながその「真似をした」からこそ、産業が飛躍的に発達したのですね。これが産業革命です。

医学も同じです。ジェンナーとか。
やってみたらすごく効いたんだ。理論は後からでした。
片田舎のしがない開業医が、医療の革命を起こしたのです。

ぼくは「すごいやつ」のやることを、理屈抜きに真似ました。真似てみて、それは蒸気機関車なみに便利です。真似ずにいると、ずっと人力車か馬車でやるしかないですね。

10年真似てみた人なら、それを否定する資格があるでしょう。
やったこともないのに否定したがるのは、経験の浅い子供に限ります。

エドワード・ジェンナー

下の引用は、ドクター (漢方専門) でエビデンスの構築を推奨し、みずからも論文を書いてそれを実践される方の投稿です。

今日、腸チフスを生まれて初めて診断した。その感想は…。

中国伝統医学は「個の医学」だと威張りくさる。しかしこれは、感染症治療で西洋医学に負けてから苦し紛れに言い出したことだ。抗生物質に敵わなかった。そして公衆衛生という概念がなかった。感染症を防ぐには、下水と上水とを分けることである。これを徹底したのは西洋医学だ。

中国伝統医学は個の医学で、一人の腸チフス患者なら救えたかもしれない。しかし「公衆衛生」の力をもってすれば、数万人を一度に救うことができる。この概念が中国伝統医学には決定的に欠如していた。中国伝統医学の問題の本質は、そこにあった。
(要約)

中国伝統医学は、「個の医学」であるべきか、「公の医学」であるべきか。
・個の医学…誰も真似できない優れた医術。個の力。
・公の医学…誰がやっても同等の効果が得られる医学。
このドクターは個の医学を否定し、公の医学であるべきだという持論を展開されています。

以下は、それに対する賛同と異論を含めた僕の投稿です。

〇〇教授の腸チフスを診断したという記事を読みました。

まず、ぼく自身の勉強不足を思わされました。ぼくにはその診断ができません。まず、腸チフスの特徴がどんなものか知らなかったし、そういう患者が来ることを想定して勉強を行ってきませんでした。

《鍼灸真髄》に腸チフスについての病機や治療方法について詳しく書かれています。沢田健の時代 (明治から昭和初期) は、西洋医学でも治療方法や法的手続きが確定していなかったのでしょう、鍼灸院レベルにまで患者が到達するくらい一般的だったと推測できます。

ところが、現代では腸チフスは、パラチフス患者を加えても年間100人程度で、出くわす可能性はまずありません。

これが教授のおっしゃる、公衆衛生の力です。上下水道が整備されることによって、これほどの激減を見たのです。上下水道が整備されていない発展途上国では、流行は依然として多いと聞き及びます。

そういう状況下で腸チフスを見抜かれた教授の博識は、さすがというところでしょうか。

中国伝統医学は、飲食不潔という病因論を持ちつつも、その分析において病原菌にまで深掘りできず、よって一度に救える命を救う手立てを見つけることができませんでした。これはたしかに公衆衛生という概念の欠如です。公衆衛生の大きな力にたどり着けなかった。

この力によって、天然痘は完全に撲滅したとされます。公衆衛生学がいかに「強烈な力」を持つものであるかを示す端的な例です。

そして現代、そのような「強烈な力」による病気の淘汰は、結果としてその力では及ばない病気だけが生き残るという結果をもたらしました。病院にあふれかえる人々の病気は、ほぼそれに該当します。

天然痘の撲滅に象徴される医学は、もう大ナタをふるう仕事はやりおおせた。いまは次のステージに立ったところであると言っていいでしょう。

感染症すべてを腸チフスや天然痘のような「撲滅可能なもの」に位置づけることはできません。

例えば、抗生剤はチフス菌などの菌には強烈な力で効果をもたらします。しかし、例えばカゼ (上気道感染症) においては90%がウイルスで、菌が原因のものは10%に過ぎません。死の病とも言われた結核が激減したのは抗生剤の「強烈な力」です。それによって薙ぎ払われ、その荒れ地に残ったほとんどのカゼにおいて、抗生剤は無効です。それどころか、その乱用 (使いすぎ) によって抗生剤が効かない耐性菌を生み出す結果となり、国際的な問題になっています。

例えば、オミクロン移行後でしたが、20歳代男性が7月とその年の11月に2回、一年ででいえば3回コロナに感染した事例が娘の職場であったそうです。公衆的な典型例ではないにしても、天然痘では考えられないことです。

「次のステージ」に立ったのは先進国です。衣食住と現代医療がほぼ整備されています。その区域で住む我々にとって、公衆衛生学は、かつて「強烈な力」を見せつけた大ナタを、もはやふるえなくなったと言えるでしょう。

上気道感染症 (カゼ) つまり、種痘や結核菌抗生剤のように「強烈な力」でねじ伏せるのが困難となった現代の感染症において、中国伝統医学には鍼という「強烈な力」が、実はひそかに存在します。

感染症治療について自験で恐縮ですが、2歳児の39.5℃の発熱を2時間以内で解熱させたことがあり、それをご紹介させていただきます。

発熱し始めたのはその日の昼過ぎ、保育所で給食を食べないので検温してみると熱がある。みるみる熱が高くなり、母親に連絡が来て、仕事を繰り合わせて保育所から当院に直行、来院前に保育所で検温したときは39.5℃でした。18時に来院、母親の肩に頭をあずけ、目は人形のように表情がなく、手足は下にダランと垂れ下がっている。このぐったりしている状態で、使用したのは左列缺の一穴のみ、鍼を皮膚から3mmほど離して数秒かざす。鍼を離した瞬間、頭をもたげ目をキョロキョロさせる。足をピョンピョンさせる。こっちを見てニッコリ笑う。普通に母親としゃべりながらそのまま帰宅、19時から夕食、普通に食べ、食後すぐ検温すると37.1℃、その夜よく寝て、起床時は36.1℃でした。

食事直後の37.1℃は平熱と言ってよく、鍼をかざしてから2時間以内に解熱したことになります。

もちろん極端な例ですが、他の症例もこれに準ずるものと考えていただきます。洋の東西を問わず、医学を真剣に行ずる同士であるならば、熱病をその場で緩解させることがいかに難しいことであるかをよくご存知でしょう。あらゆる医術と比較しても、この症例に関しては「鍼」が最短に近い形で治癒させていることが分かります。

鍼には、中国伝統医学には、このような「強烈な力」があるのです。

ただし、これは個の医学です。

しかしながら、この「個の医学」を導き出したのは、経絡経穴学という「公の医学」です。誰もが目にすることのできる経絡経穴学の教科書、そこに記載されているツボの位置は、先人が「一般化できる医学」として残してくれた大切な遺産です。この遺産を富士山の「すそ野」として、そこから上に上に築き上げた「山頂」が本症例なのです。

「ツボの効能書」を読んで治療しているようではそこには至りません。「人体という教科書」を読み解く努力が必要です。そうすると問診よりもはるかに精密な弁証の材料が得られます。鍵と鍵穴式 (〇〇には✕✕が効く) よりも、はるかに精巧な論治が得られます。

本症例では問診を一切行っていません。2歳児から問診を取ることができないことは言うまでもなく、用いたのは切診、つまりツボの診断 (切経) です。漢方家はやっても腹診くらいですので、切経がこういう結果を導き出す重要な診察法であるとは知らないでしょう。しかし、漢方の祖、張仲景が鍼を用いた記載は、弁証論治のもっとも文字にしにくい切経の必要性を、言外にほのめかしていると思えるのです。もっと大きな世界が見たければ…と。

ツボの診察…正しい弁証のために切経を
ツボは鍼を打ったりお灸をしたりするためだけのものではありません。 弁証 (東洋医学の診断) につかうものです。 ツボの診察のことを切経といいます。つまり、手や足やお腹や背中をなで回し、それぞれりツボの虚実を診て、気血や五臓の異変を察するのです。

切経を否定する人はたくさんいるでしょう。しかし最低でも10年は真剣に取り組んだ人でないと、否定することは相成りません。ぼくは切経の真似事ができるようになるまで20年かかっています。

やってみないとわからない。

膨大な「公の学問」をすそ野として、「個の医療」を極められるだけ極めたいと思っています。もしそれが、一点そびえ立つ富士の頂に到達することが偶然にもあるならば、やがて巨大なすそ野が無限の樹海のように広がるかもしれない。ぼくじゃなくても、別の人がやればいい。やれる人みんなでやればいい。

極めて強烈な個の医療は、公衆のあまねき医療として広がるかもしれない。

ジェンナーが独自に編み出した種痘 (天然痘ワクチン) が、世界に広がったように。

そうやって医学が発展してきたように。

やってみないとわからない。

個と公、これは陰陽です。陰陽とは夫婦のようなもの、お互いがお互いを助け合い、高め合い、諌め合う関係です。富士の頂、すそ野の樹海、2つ合わせて富士山です。

西洋医学と東洋医学、これも陰陽です。東洋医学に足らぬ点は西洋医学が補う。たしかに東洋医学には公衆衛生学が欠如していた。それは西洋医学に補ってもらった。

そして、その逆もまた然り。

たがいの短所を補い合う。

たがいの長所を否定し合うことは相成りません。

夫婦が息を合わせれば、何かすごいものが生まれるかもしれませんね。医療においても。

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