気にしすぎ、上等。

ぼくは「気にしすぎ」である。こんな「気にしい」は、いないかもしれない。

今から二十年も前、ぼくが30歳のころの話。

当時60代・女性の患者さんである。

ついさっき診たこの患者さんから、午前診を終える間際の12時過ぎに電話があった。
「治療から帰ったら、気分が悪くなって食事が取れないんです。」

しょっちゅう診ている馴染みの患者さんである。
驚いて往診に向かった。
つらそうに寝ておられる。体を診ると、すこし熱い。検温すると発熱があった。
「食あたりみたいな症状ですね。なにか思い当たる節はありませんか?」
「そういえば今朝、古い豆腐を食べたんです…。それが原因でしょうか…。」
それが原因だ。そうか、食あたりか。

それなら仕方ないな。

…とは思わない。

ぼくは「気にしすぎ」だからだ。

もうすぐ食あたりの症状が出る。その状態でお体を診たのに、なぜ見抜けなかった ! ?
ダメだ。俺は全然ダメだ。ああ。
心に、胸に、太い鉄槌が突き刺さる。
なんとか治療し、往診を終えて患家を辞した。この治療費は受け取らなかった。
重い心と足を引きずって、そのまま治療所にもどった。
もうダメだ、動けない。
どん底まで落ち込んで、ベッドに横になった。

つらい。かなしい。たえられない。

そんな気持ちで自分の脈を診る。なんども。なんども。
すると、今まで気づけなかった脈に気づいた。
これかもしれない。
たしかに僕はいま、体調を大きく悪化させる「悪化直前の状態」だ。
あの患者さんにも、この脈が出ていたかもしれない!

この時見つけた「脈」は、それから20年を過ぎた今、臨床に生き生きと息づいている。

2022年12月27日。78歳。男性。

僕の治療所から、歩いて2分のご近所の方である。

心筋梗塞を患い、何度もその場で胸痛を止めて見せた。その信頼があるので、定期的にお通いになって、もう20年近く診させていただいている。発作はここ10年全く起こっていない。たまに軽い動悸があったが、ここ数年はそれも影を潜めた。

もともと西洋医学に全幅の信頼を置く方で、変わったことがあったらすぐに病院に直行される。たとえば少しお腹が痛ければ (胃腸の既往歴は一切ない) 、大腸科を受診する。

その日の診察。

「あの脈」が出ている。

悪化直前の脈
「治未病」…いまだ病まざるを治す。これは中国伝統医学の基幹となる部分である。脈診において、私個人の臨床経験から得られた「治未病」の一つの体現を紹介する。

「ちょっと悪くなりかけていますね。いま、そうならないようにキチンと治療しておきます。それでまず大丈夫ですが、念の為に今から24時間は気を付けておいてください。何に気を付けるかというと、気を張らないこと、無理をしないこと。この24時間の間に新たな予定は入れないでください。もうすでに予定が入っていても後回しにできる用事なら24時間経過後に回してください。どうしてもやらなければならないことならば、それは淡々とこなしてください。つまり、できるだけ家でゆっくりして『無用の外出』はひかえてください、ということです。24時間が経過したら、うまくやり過ごせたと考えていただいて結構です。」

このように指導したが、目を閉じたまま返事をされなかった。地元の大先輩でもあり、日本トップの大学卒、僕の言うことを斜めに聞く向きがある。

神闕の周囲に腹部打鍼術を行う。水分→左肓兪→陰交→右肓兪の順に行った。あらゆる所見が改善することを確認し、治療を終えた。

腹部打鍼術;「悪化直前の脈」より転載

その3日後、その患者さんの奥様に、道ですれ違った。

「わあ、先生! じつは主人、コロナになったんです! こないだの治療のとき先生が “無理しないでゆっくりするんやで” って言ってくださったそうで、分かってはったんやと思って…!」

悪化したのか…。

おかしいな。なぜだろう。

詳しい話は、後日の診察で、この患者さんから直接うかがった。

  • 12月27日夕刻に上記の治療を行った。
  • 12月28日朝、検温すると36.8℃だった (新型コロナ流行以来、毎朝の検温を欠かしたたことがない) 。体調に問題はなかったが、年末でもあり、そのまま病院に直行。PCR陽性で新型コロナ感染症と診断される。
  • 12月28日夕刻から38℃の発熱。
  • 12月29日夕刻に解熱。体調が回復する。その後の経過に後遺症などの問題なし。

24時間は新たな用事を入れないようにと言ってあったのだが、ちょっとやっちゃった。もしそれがなければ、何も起こらなかったはずである。じっさい、この脈で神闕を治療して悪化が起こるケースは、極めてまれである。

【症例1】3歳児の発熱
【症例2】80代男性の出血

そもそも「この脈」による診断治療とは、悪化するぞと言いながら、何も起こらないのである。しかし、こういうギリギリの例の経験は、「この脈」による診断治療が正しく、ただの思い過ごしではなかったことが確認されることにもなる。

毎日検温する患者さんはめったにいないし、36.8℃で検査するという方も少ない。だから必然的に『無用の外出』があった。

だからこそ『やはり悪化直前であった』ということが確認されたのである。

しかも、である。

治療後に悪化があったのに、逆に信頼が高まった。

普通は、治療後に悪化すれば信頼を失う。

まさに逆説だ。

じつは、何年か前にも当該患者に
「ウイルス感染を起こしやすい状態にあります。そうならないように治療しますが、念の為に〇〇に気をつけてください」
と指導したことがある。これは脈ではなく、顔面気色診 (印堂) による指導である。
いつものように斜めに聞いておられた。
果たして、翌日に発熱を見た。「〇〇に気をつけてください」という指導を、真面目に受け止めなかったのだろう。

しかし、言ったとおりになれば、とうぜん驚きがある。
信頼が増す。
僕の指導にも少しは耳を傾けるようになるというものだ。

こういうことがあるからこそ、指導に返事すらしてもらえなくても、20年も治療を継続できているのである。

心筋梗塞の痛みもなくなり、それをその場で消すことができなくなった今でも、こういう「信頼の得方」があるのだなあ。もろ手を挙げて喜べないが。

それにしても、である。

それもこれも、ぼくの「気にしすぎ」が良かったのだ。
気にしすぎは、悪いことじゃない。むしろ必要だ。
気にすれば気にするほど、普通の人が失敗と考えないこと (上記の食あたりの例) も、失敗だと考える。
つまり、気にすればするほど、本人にとっての「失敗」が増えるのである。

失敗は成功のもとである。

だから、失敗が増えれば増えるほど、成功が増える。

すると、普通の人なら成功しないようなことが、成功する。

普通じゃできないことをしたいなら、「気にしすぎる」ことだ。

気にしても仕方ないことは、気にすると時間や労力の無駄である。
大いに気にするべきなのに、気にしないのでは今後の成長がない。

肝心なところに気をつけよう!
コントロールすべき部分に神経質なまでの努力を払い、コントロールする価値のないことには無頓着である。これは健康であるための秘訣であろう。こだわるべきところにこそ、最大限の心血を注ぎたい。

ダレも気にしないからオレも気にしないのではなく、気にすべきこととは何なのかを見抜く鋭さを持ちたい。
気にすべきことが見抜けたら、地獄を見るところまでトコトン気にすればいい。
それが正しいことであるならば、きっと光がさしてくる。

これからも、

いっぱい気にしすぎて、いっぱい失敗して、いっぱい乗り越えて、いっぱい成功してやろう。

目下成長中。今が鼻たれ小僧。

伸び盛りはこれからだ。

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