57歳。女性。2025/9/1。
定期的に治療に通っておられる患者さんである。
いつもとは変わった訴えがあった。
左すね (下腿前面下方) が冷たく感じるのである。さわっても冷たくない。
実はこの症状は久しぶりである。1年前当院に通院しはじめるまでは、ずっと冷たかったのである。だからそれ専用のサポーターを巻いていたほどである。
そういう症状が、久しぶりに今日出た。

ざっと診る。寒府に反応がある。冷えたのである。
普段から僕の指導をよく実践し、気をつけておられる患者さんである。冷えにも気を付けておられる。それだけに、意外な盲点があると身構えつつ、こう切り出した。
「冷えてますね。なにか “さむっ” て思うことはなかったですか。」
寒府に反応が出ているときは、ほとんどが「はい、あります」という答えが返ってくるのだが、首をかしげて記憶をだどっておられる。そう簡単ではないのは予想通りだ。
しかし、その診断に確信がある。
この確信が、患者さんを真剣にさせる。体に向き合わせる。
「寒いっていうのは思い浮かばないんですけど、朝から字を書いてたんです…」
当該患者の職業は、書家である。書家展に出展するための作品を制作中なのだろう。
「いつもならその部屋だけクーラーをつけるんですけど、今日は戸をあけて隣の部屋のクーラーもつけて字を書いてたんです。隣の部屋のクーラーは馬力の強いクーラーで、いつもよりよく効いていたと思います。もしかしたらそれかな…。」
すかさず、寒府を診る。反応が消えている。
これだ。間違いない。
気付きが得られた瞬間、未来が変わる。
その未来が、このツボ (寒府) にすでに反映したのである。
「もう、9月に入ったでしょ。体はもう、秋仕様に衣替えしてるんです。それで冷えやすくなっているのかもしれませんね。それから〇〇さんのことだから書道、すごく集中して書いておられたと思う。それで寒いと感じなかったかもしれないですね。クーラーは快適にしたら冷やしすぎです。すこし首筋が汗でしっとりしているくらいがいいです。ほんの少しだけ不快さは残しておくということですね。いつでも汗をかける準備ができていたら、外の炎天下でもスッと対応できるんで。」
「そうなんです! 汗は全然出ていなくて、完全にサラサラでした! それから集中し過ぎて寒かったとしても何も感じていなかったと思います! 」
百会に一本鍼。
鍼を抜き、脈を確認しながら…。
「足の冷える感じは? 」
「あれ、もう感じないです…。」
秋の衣装というのは、堅い革 (「従革」の革) である。夏は何の妨げもなく自由に成長する。だが秋は、それを妨げる堅い革に覆われるのである。その革に包まれた生命は、深まりゆく秋とともに平らかに (「容平」の平)、そして安らかに充実してゆく。まるで稲穂が籾殻の中で結実してゆくようにである。そのとき仮に、充実するはずの生命が落ち着いていられず、「急」に飛び出ようとしたらどうなるか。次の2通りが考えられる。
- 革を破って出ようとする。
しかし革が堅くて出ようにも出られない。これがこの時期に見られる「変にこもったような熱さ」である。 “八月のいら蒸し” という古人の言葉が言い得ているが、盛夏よりも晩夏のほうが気温は低くなっても却って暑く感じるというものである。 - 革を破って出てしまった。
生命力の一部が外に漏れ出す (「外泄」) と、生命力は弱って備えを失う。そのときクーラーが効いた部屋にいれば、当然冷えの影響を受けてしまうことになる。本症例はこの状態に陥った。寒さを感じないくらいに力を出せばそれは出し過ぎだ。

夏 (立夏から立秋まで) は力を出していい。太陽が真上から照りつけるように、盛んであっていいのである。
秋 (立秋から立冬まで) はそうはいかない。夕日が沈むあの静寂さ、その落ち着きをもってすればいい仕事ができる。

秋は、落ち着きの季節である。
急いではならない。
力を出し過ぎてはならない。
だが、こんな暑い9月は経験がない。この日、9月1日の奈良の気温は最高37.4℃、最低26.2℃。こんな暑さの中で秋のような静粛さを持てとは、なんと難しい司令を大自然は出してくるのか。
いや、鍛えてくれているのである。心頭滅却すれば火もまた涼し。この暑さの中で秋の落ち着きをもたねばならぬ。
コロナ明け以降、人類は生命力を外泄し過ぎている。
世界各国へと飛び出す観光客。
群がる人、人、人。
興奮冷めやらぬその熱さがこの暑さへと姿を変えた。
とするならば、我々は粛なる反省を求められているのかもしれない。