「あの後すぐな、体シャキッとして動けるようになってん。せやけど、またフラフラで動かれへんねん。」
前回の記事から、3日後の来院である。
「なんでまた。」
「動けるようになったから、山で作業しててんけど、チェーンソーの刃は切れるし、運搬車のキャタピラーは壊れるし、ぜんぜん仕事がはかどらんもんやから、イラ〜っときてしもてプチっと切れて、そしたらまた動かれへんようになってん。」
「なるほど、前回、陰がどうのって話しましたね。陰っていうのは胎児みたいにおとなしく丸まっている状態なんですよ。そういう陰の状態があるから、生まれたらピンっと伸び上がる。飛躍・活動・活発さですね。これが陽です。でね、陰と陽とは互いにバランスを取り合っているんです。ハンマー投げで言えば、砲丸の遠心力が陽で、グリップの求心力(引っ張る力)が陰です。1日でいえば、夜が陰で昼が陽、これらは両方おなじくらいの力があって、バランスが取れているものなんですね。陰である夜の休息が大きければ大きいほど、陽である昼の活動が大きくなる。これが正常なんです。」
「なるほど。」
「でもね、 “憤り” というのも陽なんですけど、陽は陽でもこれは “あやまった陽” です。だから陰を損なってしまうんです。ほら〇〇さんのここ (臍下丹田をさわりながら) 、いつもこんなんじゃないもんね。今日はヘコヘコですわ。」
「だからフラフラになったん? 」
「そう。ただね。おなじ憤りでも、義憤 (公憤) と私憤っていうのがあるんですよ。私憤はワタクシの憤りですね。これが陰を損なう。陰を損なうから陽が生まれない。だから動けなくなる。でも義憤はちがいます。義憤とは、世の中 (公平無私) のことを思っての憤りですね。」
「ははは、オレ、そんなん無いわ。」
「世の中のことを思っての憤りは、陰がどこからか給油されるみたいに自然と足されます。だからもっと大きな陰が得られる。すると、その陰を土台にして大きな陽が得られるんです。これは動いても動いても持続可能なんです。これは、大きい陰を得ているんですね。その結果、大きい陽が得られ続けるんです。」
「ふうん。」
「そんなんないって言うけど、〇〇さん、持ってはりますよ。猫のときとか、蝶丸 (犬の名前) のときとか。あれ、義憤です。」
いつかの冬、誰がどう見ても人が通らない山間部の山の中に、生まれて間もない猫が数匹レジ袋に入れられて捨てられていた。それを持ち帰り、ストーブを夜通し炊いてミルクを与えた。全員元気に育ち、いまは当該患者が犬の散歩に出かけるとき、そろって後を付いてくるという。1時間以上の散歩を、当該患者の元を離れることなく、それが日課であるという。
また、やはり人が通るはずのない山奥の木に、老犬が縛り付けてあった。もう、衰弱しきっており、しかも障害のある犬だった。それを連れて帰り、一年を経て最期を看取られた。この犬のことは、最期は僕のところに治療を受けに来ていたのでよく知っている。
「なんで、死ぬと分かっていて縛り付けたりするんやろう? って言っておられましたやん。ほっとかれへんでしょ? とも言ってましたね。あれ、義憤ですよ。」
「まあ、たしかに、腹は立ったかなあ。あんまり覚えてないけど。」
「自分だけの “小さい陰陽” で陰を消耗して陽を失うのではなく、大自然 (世の中) の “大きい陰陽” で大きな陰を得て、さらに大きな陽を得てほしいんです。ほら、もうそうなってる。ここ (臍下丹田) に力が出てきた。」
陰とは燃料である。陽とは元気さである。
生命にとっての燃料とは…、うるおい・やすらぎ・おちつき・休息 である。そこから出る溌剌 (はつらつ) さが真の陽気である。
心のうるおい、すなわち愛である。
義憤は愛より発する。愛は陰である。胎児のときに浸っていたのは愛の海である。すべてはそこから生まれる。
愛深ければ、気は天を衝く。
関元に鍼をうつ。5分後、抜鍼。
関元とは、球 (丸まった胎児) のコアに相当する。それが臍下丹田である。
「ここ (臍下丹田) 、もう力がもどってますよ。」
「うん。」
実感をともなう返事が帰ってきた。