食に向き合うことの大切さ
「薬膳」は中医学の一部門です。
むろん、中医学は鍼灸・漢方を主たる方法論として成り立っています。ただし、もっとも大きな前提は、「食」をはじめとする衣食住が正しく完備されているかです。それがなければ健康は語れません。「食」がなければ始まらない。その土台の上で鍼や漢方薬は活躍できるのです。
衣と住は先進国では正しく完備されたと言っていいでしょう。
しかし「食」は、素材はあふれていますが、正しく用いられているとは言えません。もうすこし真剣に食に向き合う必要があります。だからこそ、中国では古代から「本草学」が研究されてきているのですね。薬膳はここから発展してきた分野です。
薬食同源という言葉があります。これが医食同源という言葉につながります。食の延長線上に薬がある。薬の延長線上に食がある。薬と食とは陰陽です。
陰陽をあやつる
薬とは、誤って使うと生命を傷つけ、正しく使うと生命を助けるものです。
食もこれに準ずる側面があります。薬膳ともなると、薬として使用する食材を用います。
たとえば一隻の船があるとします。この船体が右 (陰) に傾いた。これを、優れた中医は左 (陽) に押し戻します。こうすることで傾きのない船体 (中庸) に戻すのですね。左 (陽) に傾いたならば右 (陰) に押し戻す。これが鍼灸や漢方薬の持つ力であり、薬膳の効能です。
ただし、この左右の傾きを見抜くのが容易ではありません。つまり陰陽の傾きを見抜くことがそもそも難しい。中医学ではまず八綱 (陰陽・表裏・寒熱・虚実) を確定するのですが、じつはこれができれば大変な名医です。しかしこの大雑把なククリがあまりにも難しいために、臓腑弁証・気血津液弁証・六経弁証・衛気営血弁証などの膨大な「証」を詳しくやるのですね。
陰陽者.數之可十.推之可百.數之可千.推之可萬.萬之大.不可勝數.然其要一也.
《素問・陰陽離合論06》【訳】陰陽は、見方によれば十ともなり百ともなり千ともなり万ともなり無限である。しかもそれは結局は一 (太極) に帰するのである。
八綱など簡単だ…という中医がもしいたとしたら、それは何も分かっていない人であると断言していいです。
さて、この左右の傾き (陰陽の傾き) を手にとるように見定め、その傾きが戻るように手 (鍼灸・漢方・薬膳など) を加える。これが一般的な、いわゆる「治療」です。
本当に見えているのか?
このように、傾きを治すというのは相当の手練れでないとできない仕事なのです。
ところが、仮にそういう手練れの仕事ができたとしても、傾きを直すことのみに終始するならば、それは「こてさき」に過ぎないものであるということを理解する必要があります。
船が傾くに至った「原因」を考えなければならない。海がシケて波が高すぎるのであれば、そもそもそういうときに船を出すことに問題があります。イカダのような小舟で大海に漕ぎ出したのであれば、船の大きさにそもそもの問題があります。
もし、そういう「そもそもの問題」に目が行かないのであれば、船そのものを見る「眼力 (診断力) がない」と言わざるを得ない。その眼力では傾きを戻すことすら叶いません。右に傾いたものを誤って右に傾け、左に傾いたものをますます左に傾けることが、はたして「無い」と言えるでしょうか。
船を操る船長さんは自分自身 (患者さん自身) です。船を出したら危険かどうかの見定めもできず、イカダのような小舟を大きな船にすべきことにも気づかず、そんな船長さんの操る船が傾くのは当然で、それを右に左にと押したり引いたりしている構図が見えるでしょうか。
これじゃキリがない。
もっとどっしりと構えなければなりません。船も大きくしていかなければなりません。
その方法とは?
大自然に生かされている
薬膳を学ぶ前提としてもっとも大切なことは、われわれは「食」なしには生きられないということ、そして「食」とは他の生命を食べることであるということです。他の生命は、我々のために命を犠牲に差し出してくれています。その恩恵を受け「入」れっぱなしではよくありません。
この命も、世の中のために犠牲に差し「出」す気持ちが必要です。
口に入れれば、肛門から出す。だからスッキリするんですね。
これと同じように、他の命の犠牲をこの口に取り「入」れるならば、自らも大自然のためにこの命を犠牲に差し「出」すべきです。世の中のために働く (利他) 。自分のために (利己) ではありません。身を犠牲にする。そしてやがて地球という大自然に食べられる、つまり死ぬのですね。これが循環です。
感恩による循環。自分のことばかり考えていては得られない循環。
この循環なしに伸び伸びとした「めぐり」は得られません。滞って病に苦しむのは、この「出し入れ」の循環がまだ得られていないからです。
食べすぎない節度
食べれば健康になると言う考えで、入れるばかりがイッパイイッパイになってしまうと、そこで詰まってしまう弊に陥りかねません。そういう意味では、本草学と栄養学は共通項があります。効能を求めるあまり、取り込めばいいという考え方になりかねない。
身欲は身を滅ぼします。注意すべき点です。
効能よりも、もっと高い視点から大切なのは、食の「節度」です。他の命を犠牲にするのですから、おのずと「節度」が伴うのです。
食べ過ぎたらなんにもならない。肝臓を苦しめるだけだという事実を直視すべきです。
「体にいい」からと言って、のべつ幕なしに食べるのは、「体に悪い」のですね。
陰極まって陽となる。
「体にいいこと」も極まれば、「体に悪いこと」になる。
これが陰陽です。
右に傾いた船体を、いつまでも左にばかり押し続けると、しまいには左に傾きすぎて沈没するのです。
恩を忘れない節度
「節」という字のなかに「食」と共通する部分があることに気づけるでしょうか。どちらも「良」に似た字がありますね。これは「皀」のことであり、お茶碗 (匕) に「白米 (白) 」が乗った図をかたどった字です。そこに「竹」が付き、これは整然と等間隔に区切られたフシのことです。「節」とは等間隔の時間通りに食べることから出た文字であり、「食」とは白米を食べることだったのですね。
日本人が、東洋人が、もともと主食にしてきたものを大切にする。その、受けた恩恵を忘れない。
これも節度ある摂食の根本となる考え方です。不遇な草成期に苦労を分け合って連れ添ってきた妻のことを忘れ、もっといい女がいるからと言って目移りするような人間に、真の幸せなど訪れるでしょうか。
医聖・張仲景が2000年前に説いた粳米 (コメ) ・お粥こそ、薬膳の基本です。薬膳家はもっと歴史を学び、このことに気づくべきです。
我々が健康になるための材料 (主食・副食) は、すでにそろっています。ゆっくり健康になればいいのなら、変わったものや珍しいものをわざわざ取り寄せなくとも、すでにここにある。要は、節度をもってこれに向き合えるかです。
そのうえで効能を知り、健康に磨きをかける。もっと早く健康にたどり着ければなおよい。
節度が第一義、効能が第二義です。どちらも同じくらい大切なのですが、順番 (主従) があります。この順番を間違うと、糸が先で針を後にする弊に陥ります。針が先で糸が後についてきてはじめて、縫い物 (健康) は完成します。
太極を忘れるな
食の節度を、しっかりとした心で保つ。
これが、どっしりと構えた船長さんが操る大きな船のことなのです。
しっかりした船長さん、大きな船… これは陰陽における「太極」のことです。陰陽の幅を大きくすることです。陰陽の境界を強化することです。これが太極です。
薬膳において。
この、もっとも重要で「根幹」になる部分 (節度) が、多くは語られません。
語られるのは、枝葉末節に一見きらびやかに彩る花 (効能) ばかりです。
この最重要事項をシッカリ抑えつつ、薬膳のすばらしさについて勉強を進めていきましょう。
▶「粕」の字源
「粕」という字が白米のことであるという人がいますが、これは字源の勉強をしたほうがいいですね。「粕」とは酒粕のことで、酒をつくるときに下に沈んで沈殿する白い残滓物のことです。コジツケは、いかようにでもできるものです。
粕,糟粕,酒滓也。《説文解字 (新附字) 》