【質問】我慢やストレスについて考えております。生きていれば我慢しなければならない事は多々あります。
ストレスは避けて通れないので、ストレス耐性を上げる・上手くストレス解消する・嫌な事をずっと覚えているのも辛いので忘れられるようにする… と考えたのですが、それには気が必要ですよね。
となると後天の精を補充するのが良いでしょうか?
我慢が出来ないと自分自身が生きづらくなってしまいます。
悪口や不満を言うと自分に返ってきますし、相手を許す事ができないと自分も許して貰えなくなります。
誰でも大なり小なり迷惑をかけますし人間は持ちつ持たれつの関係だと思うので、相手を柔軟に受け入れ許す事は大事だと考えました。
気分転換は必要です。
まず、それが前提です。
ただしそれはあくまでも一時的な休憩です。休憩は必要ですが、それに明け暮れていると未消化物がだんだんたまってきます。いずれ、消化しないといけない。いずれ向き合い、立ち向かわないといけない。
ストレスに立ち向かう? いや、「立ち向かう」のはそこではないのです。
ストレスは “栄養”
ぼくはどちらかというと、ストレスを敵のようには考えておらず、むしろそれを積極的に求め、取り入れて消化吸収し、心の栄養に変える…ということを重視しています。
若いときの苦労は買ってでもせよ、です。まだまだ若いんで。。
苦労を栄養に変える。では、具体的にどうすればいいのか。質問者のおっしゃるとおり、後天の精の補充…つまり脾を丈夫にすることが重要です。消化器を丈夫にすることです。その方法もすでにあちこちで書き散らかしてきました。
飲食に節度を持つことです。
東洋医学の「脾臓」って何だろう
先天の気・後天の気を補充するには
唾液過多と朝の食欲…更年期障害をのりこえよう
脾はなぜ重要か…東洋医学の哲学
自分でできる4つの健康法 …正しい生活習慣を考える
簡単に言うと、消化不良になるようなことはやめようね、心も体も…ということです。
しかし、それだけで行けるかというと、なかなか難しい場合がある。なぜなら、質問者の方が言われるように、 “気が必要” だからです。
気とはそもそも “動き” です。
体を動かさないことには気は養えません。いくら飲食に気をつけていても、それでは何かが足りない。
少々食べすぎても、運動すればまた新たに “栄養” …ストレスが入る余地ができるのです。
食べ物を獲得する “行動”
考えてみてください。人間は食べなければ死にます。だから食べる。そのときに「どう食べるかが意外と大事だ」という話が飲食の節度です。しかし、それ以前に、食べ物がないと食養生そのものができません。食べ物を手に入れねば!
では食べ物はどこからやってくるのか。
お金で食べ物が得られるのは現代文明のおかげです。文明が未開ならば、やはり自分の手で食べ物を獲得するしかない。
そう、簡単なロジックです。
体を動かすから、タベモノを食べることができる。タベモノが体の強さ (筋肉) に変わる。
体を動かすから、ストレスを食べることができる。ストレスが心の強さ (人徳) に変わる。
筋肉も、人徳も、 “生命の強さ” です。
農耕が前提
東洋では、これを農耕によって得てきました。その文化のなかで、東洋医学は発達してきています。木火土金水という概念も、 “稼穡 (かしょく) ” と呼ばれる「農作物の栽培」から発想され、生まれてきたものです。
東洋医学の五行「木火土金水」って何だろう をご参考に。
脾がどれだけ大切かは折々に触れてきましたが、それは “土” がどれだけ大切か…ということと直結します。命のもとは食、食のもとは農、農のもとは土です。
土とは脾です。
中医学では、農についてまったく触れていません。素問・霊枢でもハッキリは言いません。しかし、当時の古代中国では、農は当たり前にやっていたことで、そういう “常識” にまでわざわざ言及していないだけだと考えていいと思います。
農の経験なしに、東洋医学の真意は理解できない。そういう可能性があります。ぼくは畑から思いがけない宝物をたくさんもらいました。
経験のない相手に、いくら説明しても伝わりませんね。たとえばアマゾン未開の地の部族に、いちごたっぷりミルクプリン入りバニラアイスパフェの美味しさを説明できるでしょうか。千言万語を尽くすとも伝わらない。食べてみないと分からない。
やってみないと分からない。
うらの畑で…
現代社会の都市集中型の形体は、非常に問題があります。たしかに経済優先、おカネ至上主義であれば、合理的ではあります。しかし、人間の本当の幸せはそこにはありません。
帰宅した夫が食事の準備がまだなのに怒鳴り散らし、子育て中の妻が休日寝てばかりいる夫にイラつく。小さな子供までささいなことに感情を爆発させる。発達障害が増える。
楽しさは夕顔棚の下涼み
(たのしさは ゆうがおだなの したすずみ)
夏の太陽のもと ひねもす働く。農作業を終えて疲れた体を引きずり帰宅する。妻と子供たちが出迎える。カンピョウを取るためと夕涼みのための… ユウガオを絡ませた棚の下で、たそがれに映え、白く清楚に咲く花に涼しい夕風を感じながら、イワシを七輪で焼き、家族団らんの楽しくも貧しい食事をいただく。
ほんの何十年か前まで、ニュータウンの土地開発が始まる前は、家のうらには畑がありました。
田んぼと耕しは力仕事、男の仕事です。畑の世話は片手間でできる女の仕事でした。子供をあやしながら、あるいは遊ばせながら、子供が少々泣いていようが、今日の糧を得るために、手をよごし土にひざまずく母の姿が、幻のように目に浮かびます。種まき・草引き・間引き・収穫…。
子供は、畑に教わり、自然に教わり、そして母の背中に教わった。
学童ではありません。
良い種をまけば、良い収穫が得られる。地道さ。ひたむきさ。
発達障害、増えてますね。先天性は仕方がないですが、それとは無関係のものがあります。
気が短い。これが大きな問題です。
土に親しむ
理屈抜きで、そういう生活をマネてみませんか?
冒頭で「立ち向かう」といったのは、ここの部分です。土に向き合う。
仕事は大切、お金は稼げばいい。でも、片手間でできる自給自足をすぐそばに、場所がなければプランターからでもいい、少しずつ、少しずつ…。もっと作ってみたい。もっと上手に育てたい。
純粋に土に向き合う。その素直な気持ちが大切です。思いがけない良い結果につながります。
正直爺さんは、ポチにうながされるままに、素直に畑を掘りました。すると思いがけない良いものがザックザク出てきた。しかし欲張り爺さんが畑を掘ってもロクなものは出てきませんでしたね。無欲恬淡は基本です。
恬惔虚無.眞氣從之.<素問・上古天眞論 01>
欲張りだとキャパを超えるので、ロクな結果につながりません。
自然 (じねん) って何だろう をご参考に。
知らぬ間に、運動量が増えてくる。行動が膨らんでくる。
体力に余裕が出てきたら、ウォーキングにも出かけてみることです。
少しずつです。農耕もウォーキングも運動です。運動は投資です。見返りが期待できる分、リスクがある。
ウォーキングは投資 をご参考に。
土に親しむということは、生長化収蔵 (木火土金水) という気の流れ、そのスムーズな流れを最も自然に動かしてくれる奥義です。
スムーズな生長収蔵を得るために、春 (春分) から始めてください。準備を始めて種まきや植え付けをするのにもちょうどいいタイミングです。
「木火土金水」…五行と健康 をご参考に。
冬場の活動量が、夏場をこえない をご参考に。
東洋医学は、それを前提としたものであると考えるならば、どうでしょう。
食べることを前提としない医学はありません。同じように、農を前提としない発想が、東洋医学には存在しないのではないか。
幸せとは “動かす” こと
畑を耕し草を取って体を動かし、気持ちのいい汗を流し、のどが渇いてたまらず、人肌程度の湯を飲んでは満ち足り、やがてお腹がすいてたまらず、自分で作った野菜を、白米とともに自分の手で食し、ああおいしいなあ、と満ち足りる。ただただこれを無限に繰り返す。何度も何度も得る達成感。
そういうことができるようになったら、体はもう大丈夫です。脾は補われた。
その繰り返しの中で頭がスッキリしてきます。畑をした後のお腹のすき方はスッキリしたもので、普通の空腹感とはまったく違うものです。胃がスッキリしないのに食べ物を詰め込んでも消化しないし栄養になりませんね? 頭がスッキリしないのにストレスに向き合おうとしても消化しないし栄養にもならないのです。
胃がスッキリすれば胸もスッキリし、頭にもスキマが出てきます。そのスキマができれば、今までどうしても融通の効かなかった考えが、少し自由に動けるようになる。その時がチャンスです。
自分の気持ちに向き合い、それを変えるチャンスが、ここでやってきた。
いままで頭にパンパンにつまって、未消化で動かなかったもの、それが動き出し、消化されて、有用な栄養として体に染み込んでいく。そして “おなか” も “あたま” もスッキリと空 (す) く。次なる “食材” を貪欲に求める。 “精神的なもの” を遮二無二 (しゃにむに) 求める。味わう。満ち足りる。また体を動かす。
空 (す) く。求める。味わう。満ち足りる。動かす。
スムーズかつ無限に続く気の流れ。
それが “幸せ” なのかもしれません。