陰陽は、東洋医学の基本中の基本です。
しかも永遠の命題です。
これを解くのは簡単ではなく、しかも必須です。それを踏まえたうえで展開します。
そもそも陰陽とは医学用語ではなく、古代中国文明のなかに生まれた、万象を分析するためのものさしで、このものさしを医学においても用いたものです。
陰陽とは、といっても漠然としすぎますので、たとえば、で説明します。
例えば、こういうものが陰陽
たとえば、表と裏は陰陽関係にあります。一枚の紙の表裏をイメージしてください。もし、表のない紙ならば、裏のない紙ならば、どうでしょうか。紙として成り立ちませんね。
陰陽とはこのように、一つの事象や概念を、協力し合って作り出すものです。
表があればこそ裏があり、裏があればこそ表がある。
陰陽とはこのように、持ちつ持たれつの関係なのです。
しかも、表と裏とは正反対ですね。
陰陽とはこのように、相反する概念の一対を言います。
しかも、表が大きければ、その分、裏も大きくなります。
陰陽とはこのように、釣り合ったものです。
つまり、
陰と陽とは協力し合って統合体を作ります。
陰と陽とはどちらが欠けても存在することができません。
陰と陽とは対極にあって相反する一対です。
陰と陽とは釣り合った一対です。
さらに例を挙げましょう。
位置という概念の、前後は陰陽です。上下は陰陽です。左右は陰陽です。内外は陰陽です。
人類という概念の、男女は陰陽です。
夫婦という概念の、夫妻は陰陽です。
親子という概念の、親子は陰陽です。
教育という概念の、師弟は陰陽です。
秩序という概念の、自由と束縛は陰陽です。
一日という概念の、昼夜は陰陽です。朝夕は陰陽です。
一年という概念の、夏冬は陰陽です。春秋は陰陽です。
このような「陰陽」を土台として、東洋医学では「弁証」と呼ばれる診断を行います。
大宇宙の陰陽
この宇宙をざっくりと陰陽にわけると…。
天と地。清と濁。
天・清は陽です。地・濁は陰です。
清陽爲天.濁陰爲地.<素問・陰陽應象大論 05>
火と水。熱と寒。
火・熱は陽です。水・寒は陰です。
水爲陰.火爲陽.<素問・陰陽應象大論 05>
陽勝則熱.陰勝則寒.<素問・陰陽應象大論 05>
また、機能と物質も陰陽です。
機能が陽です。物質は陰です。
陽化氣.陰成形.<素問・陰陽應象大論 05>
静と動という陰陽
このようにたくさんの陰陽が挙げられます。それら陰陽を、もっとも単純化しシンボライズすると、どういう概念になるでしょう。
それは「静」と「動」です。
靜者爲陰.動者爲陽.<素問・陰陽別論 07>
東洋医学の中に、それが見事に反映されています。
例を挙げます。
生命という概念の、気血は陰陽です。
気は動くもの、働き、つまり機能です。これは動です。
血は機能を生み出す土台、燃料、つまり物質です。これは静です。
「東洋医学の血って何だろう」で説明したように、気は血によって生み出され、血は気のために存在します。つまり、気は血がなければ存在できず、血は気がなければ存在する意味がありません。相反する概念でありながらも、互いに協力し合って生命を作ります。東洋医学は、陰陽を調整することにより、生命に切り込むのです。
最終的に、生きる意味とは「動」です。じっとするために生きるのではありません。アクションを起こすのが生きるということです。しかし、動 (気) だけでは長続きしないので、静 (血) が必要なのです。静という土台にささえられた動をもつ生命…これが健康です。
陰陽はシーソー
静と動はシーソー関係にあります。どちらかが目立っているときは、どちらかが目立ちません。
たとえば日中は陽で、夜間は陰です。
昼が表に立っているときは夜は裏にまわり、夜が表のときは昼は裏です。
こうして昼 (陽) になったり、夜 (陰) になったりを繰り返します。
まるでシーソーのように、昼が極まれば夜になり、夜が極まれば昼になりますね。
寒極生熱.熱極生寒.<素問・陰陽應象大論 05>
陰陽とはそういう動きをします。昼が強いとき、夜は蔭で昼を支えます。夜が強い時、昼は蔭で夜を支えます。
人間なら、昼はよく動き、夜はよく眠る。その眠りが翌日の快活さを生み、その快活さがその夜の静けさを生む。
補瀉とは… 正常なシーソー
夫婦の関係で考えてみましょう。
夫の仕事が優先されるとき、妻はそれを陰で支えます。夫が目立ち、妻は隠れています。妻の仕事が優先されるとき、夫はそれを陰で支えます。妻が目立ち、夫は隠れています。
夫は自分の仕事に専念する。それは妻を助けることにつながります。
妻は自分の仕事に専念する。それは夫を助けることにつながります。
正常なシーソーは、相手思いで、お互いを助け合おうとします。
夫は夫らしく、妻は妻らしく、それが家庭 (陰陽の場) を円満にする秘訣ですね。
補って整える
たとえば、妻が病気をして家事ができなくなったとします。緊急事態が起こったのです。
このとき、夫は仕事だけでなく、家事もこなして二人分の働きをします。このとき夫は無理をして妻をカバーしますが、これは何とか「家」という陰陽を守ろうとする姿です。
こういう時は、妻を強くします。原因は妻にあるからです。
妻が強くなると夫は無理しなくてもよくなり、シーソーは正常に動き出します。
例えば体質が「熱」に偏るとします。これを治療するには、
クールダウンする力を持つ「陰」を補うことによって、熱を温かい生命力に変えます。
体質が「寒」に偏れば、
ヒートアップする力を持つ「陽」を補うことによって、寒を温かい生命力に変えます。
このようにして陰陽を正常に戻す治療方法を「補法」と言います。
瀉して整える
また、夫が力を持ちすぎて、妻を酷使し弱らせたとします。この場合は原因が夫なので、夫の力を弱く調整します。すると妻は自動的に回復します。
体質が「熱」に偏れば、それを直接弱らせることによって「陰」を回復させます。
体質が「寒」に偏れば、それを直接弱らせることによって「陽」を回復させます。
このようにして陰陽を正常に戻す治療方法を「瀉法」と言います。
補法と瀉法、これも陰陽です。
虚実錯雑… 異常なシーソー
異常なシーソーは、自分勝手で、よくない依存関係があります。
たとえば、もし妻が病気をして元気がなくなったとき、夫はそれに乗じて遊びまくる。
こういう時は妻を強くすることと、夫を制御することを同時に行います。関係が良くないので、どちらか一方だけでは収まりがつきません。
たとえば、体質が「熱」に偏るとします。これを治療しようと、クールダウンする力を持つ「陰」を補ってもうまくいきません。また熱そのものを取り除こうとしてもうまくいきません。こういう時は、それらの治療を両方一度に行うことでうまくいく場合があります。
また、「境界」を治療して陰陽を本来の形に戻す場合があります。夫婦二人だけでは解決できないので、その間に第三者を入れて話し合う…とでも例えられるでしょうか。もしくは真実 (本当に正しいこと) を学び、たがいにそれを縁 (よすが) として理解し合う…ということでもあるでしょう。
境界とは
境界とは、陰と陽を分ける境界線のことです。たとえば日出は夜と昼との境界です。日没も昼と夜との境界です。
もう少し詳しく説明しましょう。
陰陽には、陰と陽を分ける境界があります。この境界は、陰・陽を生み出すものであり、最も重要な概念です。そういう意味では、精ということもできるでしょう。精とは気血陰陽を生み出す元です。
精については 東洋医学の「腎臓」って何だろう をご参考に。
たとえば、上下という陰陽には、上 (陽) と下 (陰) を区別する基準 (境界) がありますね。何をもって上というのか。何をもって下というのか。これは基準と定める「ここ」があるからです。例えば空は上で、地面は下です。これはそこに立つ「自分」が基準となっているのです。「天地人」という言葉がありますが、天は陽、地は陰、人は境界です。
基準となる「ここ」があるからこそ、上が生まれ下が生まれる。境界は陰陽を生む。命を生むのです。
生命誕生のなぞ をご参考に。
陰陽の幅
今度は左右で考えてみましょう。
左が陽で右が陰です。
ぼくが、左右の境界である「ここ」に立っています。この境界をもっとハッキリさせるにはどうしたらいいか。
左側のフィールドをより広大に、右側のフィールドもより広大にすればいい。それが左をより左らしく、右をより右らしくすることです。
逆に、境界を分かりづらくさせるにはどうしたらいいか。左側を狭く狭く、右側も狭く狭くすればいい。究極まで狭くすると、一点だけになります。点だけになると、左も右もなくなります。
これを「陰陽の幅」といいます。陰陽幅が大きければ大きいほど、境界もハッキリしてくる。陰は陰らしく、陽は陽らくなる。夫は夫らしく妻は妻らしく、たがいに異なる仕事を、大きなシーソーのように大きく動かしていきます。
陰陽幅が小さければ小さいほど、境界はぼやけてくる。陰は陰なのか、陽は陽なのか、ハッキリしなくなる。これはよくないですね。夫は夫らしくなく、子供なのか、あかの他人なのか、ただの友達なのか…これでは夫婦関係も家庭も上手くいきません。
昼は昼らしく快活に。夜は夜らしく熟睡する。昼と夜とのケジメ (境界) がハッキリしている。これが健康です。昼なのにだるい。夜なのに眠れない。昼と夜とのケジメ (境界) がハッキリしない。これは不健康です。
陽をもっと大きく、陰ももっと大きく、そして境界をハッキリとさせる。これが治療の眼目です。陰と陽とはお互いがお互いを高め合う関係にあるので、陽を陽らしくすれは陰も陰らしくなり、陰を陰らしくすれば陽も陽らしくなる…というのが正常な陰陽のシーソーの動きです。
陰陽の動かないものが難病
ところが、そううまくいかない場合があります。
たとえば、人生がお酒と上手に付き合うものだとします。「たくさん飲みたい」「酒をひかえたい」この対立する考えが陰陽です。「たくさん飲みたい」が強くなると「酒をひかえたい」が弱くなり、「酒をひかえたい」が強くなると「たくさん飲みたい」が弱くなります。これが正常な陰陽のシーソーです。相反する二つが協力し合って、「ほどよく飲む」という中庸を作り上げます。酒は百薬の長ですから、ほどよく飲めば体にいいのです。
ここに肝硬変の患者さんがいるとします。原因は深酒です。この患者さんは、死にたくない (酒をひかえたい) と考えています。同時に死んでも酒はやめたくない (たくさん飲みたい) と感じています。お気づきでしょうか。「たくさん飲みたい」「酒をひかえたい」という陰陽のシーソーが動いていません。シーソーが釣り合って動かないのです。
陰陽が本来の働きをしなくなる。これが虚実錯雑・寒熱錯雑・表裏同病などと呼ばれる、難病がもつ特徴です。虚実・寒熱・表裏は、陰陽の最も基本的なもので、八綱と呼ばれます。八綱が侵されると難病となります。八綱をも支配する高次のものにフォーカスする必要があります。
それが境界です。
正気としての陰陽
少し話が変わります。
証を立て、弁証論治を行って治療する場合、正気がどのように弱っているかを分析する必要があります。
東洋医学の「証」って何だろう をご参考に。
正気は一つですが、それをどの側面から見るか、正面から見たり、横から見たり、後ろから見たりで、呼び名が変わります。
正気の分類でよく使われる名称として、気・血・陰・陽・津液・精などがあります。陰・陽は、正気の性質を表す名称としても使われるということです。
この場合の陰・陽は、
陽…気+ヒートアップする機能
陰…血+クールダウンする機能
と説明できます。陽が弱る (陽虚) は、気虚に寒を伴うものです。陰が弱る (陰虚) は、血虚に熱を伴うものです。
正気がどのように弱っているかを知るために、ここまで説明してきた「陰陽」とは少し捉え方が小さくなります。正気に限局した陰・陽です。
陰陽應象大論
境界という概念は、素問に記載があるでしょうか。
陰陽者.天地之道也.萬物之綱紀.變化之父母.生殺之本始.神明之府也.治病必求於本.
<素問・陰陽應象大論 05>
陰陽とはこうだ、と言っています。かなり直感的な表現ですね。僕なりに解釈してみます。
陰陽は天地の道
天地というのは宇宙全体のことです。
道というのは左右の真ん中にある境界線です。左を広く見、右をつまびらかに知り、そのうえでどちらにも偏らない中道に立つ。
また、道というのは上下を分ける境界線です。上は天空、下は大地です。その境界線に我々の足が位置します。足とは歩くもの、そして道は果てなく続き、前進するのです。
この前進とは、人体生命においては、経絡における気血陰陽の流れです。果てなく続く循環ルートは前に前に進みます。後退はしません。血液の流れもそうです。神経伝達物質の流れもそうです。経絡って何だろう をご参考に。
陰陽は万物の綱紀
綱紀の一般的な意味は、国家を治めるための大小の規律です。
「綱」は太いつな、紀は細いつなです。綱の元は「网」で、网は象形文字です。まさしくアミですね。
「紀」とは筋道。きまりです。
己と巳
「己」は非常に古い文字で、字源には諸説ありますが、「起点」を意味すると考えられます。十干は、甲乙丙丁戊→己庚辛壬癸です。《説文解字》に己は “詘の形なり” とあり、詘≒屈で「曲がる」をイメージして作られた文字であるとされます。甲が最初の起点、己は折返し地点の起点です。Uターンをイメージします。
己 (おのれ) はすべての起点ですね。しかも、生まれたときから持っているものではなく、成長して自己を振り返る (かえりみる) ことができるようになったら、はじめて「そこから」芽生えるものです。「改」も己が使われていますが、Uターンによる「起点」がイメージされます。
起点の「起」はもともとは「走+巳」なので、己とは違います。しかし、「巳」にも「はじめて万物 (胎児・蛇など) が現れる」という意味があり、同じようなイメージと字形をもつ「巳」が「己」に書き換えられた可能性があります。起点というイメージは、「巳」にも「己」にもあるということです。
己は糸巻き
また己は糸巻きの象形でもあるという説もあります。もつれやすく長い糸の起点を押さえ、きまりよく巻いていく。ここでもUターンのイメージを伴います。よって、筋道をたてて記したものを書紀といいます
「記」も己が使われています。
また、きまりを紀律といったりします。
つまり綱紀とは、アミのように万象を網羅しつつも、そのアミを紡ぐ糸は、ゆるぎない一つの起点から始まっており、一本の糸筋・筋道のある「原理」のことです。
陰陽は変化の父母
そのような綱紀でありながら、変化に富んでいる。
臨機応変とはそういうものです。ものごとの本筋 (綱紀) をシッカリつかんでいれば、時・処・位に応ずる…ということができる。
本筋 (境界) がハッキリしているからこそ、左右の変化に応ずることができる。
陰陽は生殺の本始
殺とは「朮」「乂」「殳」からなるそうです。
朮…粟 の一種であるモチアワ (イネ科)
乂…刃物で「刈」り取る
殳…行為・動作を示す
古代中国文明は農耕文化であると言われますが、この字源を考えると、「生殺」とは稼穡と同義であると言えます。稼穡とは、種まきと収穫です。
生まれては実を結び、種となってまた生まれる。そういう無限に続く生き死にの、陰陽は「大本の始まり」であるというのです。
陰陽は神明の府
神明とは。
神の元の字は「申」で「電」「雷」のように稲光を意味します。東洋医学的には神は心であり、心は火を意味します。つまり神は光・太陽に通じます。太陽はすべての事象を照らし、明らかにします。神明とは、つまり真実です。前出の「道」と同義です。あるいは「道を照らすもの」と考えてもいいでしょう。
府とは役所のような建物のことです。神明は陰陽という家に宿るのです。
神明とは << 東洋医学の心臓って何だろう をご参考に。
治病は必ず本を求める
本を求める。「本」とは何でしょう。
「道」「綱紀」「父母」「本始」、そして「神明」。
すべて同じことを言っているのではないでしょうか。
そこをつかむ。いかなる病気であろうとも矛盾であろうとも「綱」の一部であることには変わりない。そのもつれた糸の糸口…「紀」を握りしめ、ほぐし解き放ってゆく。境界に立って陰陽をさばいてゆく。それが治病だ。陰陽応象大論の著者は、我々にそう言いたいのではないでしょうか。
陰陽とは、あらゆる現象に対応することのできる原理である。
あらゆる病象に対応できる原則である。
「陰陽応象」というタイトルの意味が見えてきます。
陰は陰らしく、陽は陽らしく
東洋医学では、陰陽のシーソーを動かして整えます。
陰を治療すれば陽が整い、陽を治療すれば陰が整います。
これは陰陽のシーソーが動くからこそできるのです。
シーソーが動かなければ、境界を治療すれば、動き出します。すなわち、陰陽を生み出す働きが強化されるのです。
この道理を「道」の真ん中に立って俯瞰する。それが治病の基本です。
陰は陰らしく、陽は陽らしく。
妻は妻らしく、夫は夫らしく。そんな家は、きっと活気に満ちています。健康な人には、そういう陰陽の働きが見られます。
本来の姿にする。
これが東洋医学の治療と言えます。