反省とは、自分を「せめる」ことではない。
良くなかった過去に向き合い、それを良い未来に変えることだ。
反省とは、しゃがむことである。ジャンプし前進するために。
八方ふさがったときは、しばらくそこにいることだ。無理に動くのは得策ではない。どうせそこにいるなら、楽にしていたほうが得なのである。寝ていればいい。なにもしない。しゃがんだままでいる。それが最善。ベストだ。
やがて、環境が変わる。必ず変わる。
つぎは、今ほど苦しくない、調子のましなときが必ずくる。
そして、その時が勝負だ。調子に乗らない。それができるかどうか。自分の身勝手で「体という他人様」に無理なことをさせていないか。
- 間食・食べすぎ
- 夜ふかし・目の使いすぎ・朝寝坊
- 動きすぎ・動かなさすぎ
そういう情動や行動が少しでも起これば、素早く反省できるかどうか。ここが勝負どころである。八方塞がりはコントロールできないが、調子がマシならコントロールが可能なのである。
「体という他人様」…。
変な言い方である。
しかし、考えてみるがいい。
思い通りにならないのが、この体であり、体調なのである。
思い通りになるのがこの「自分」ならば、
思い通りにならないのは「他人」と同じ。
体は、他人同様。
丁寧に大切に扱わなければならない。
自分のものだと思えば扱いが乱暴になる。
他人のものだと思えば扱いが丁寧になる。
しかし、
そもそも、われわれは他人様を丁寧に扱っているだろうか?
たとえば、
他人様は丁寧に大切に扱えたとしても、
自分の家族はどうだろう。
親・子供・パートナー。
家族を大切にできない人は、他人も大切にできない。大切にしているかに見えても、それは表面を飾っているだけ。いつわりである。
家族とは、一番好きで好きでたまらないもの。
それを大切にできないで、どうしてその次に好きなものを大切にできるだろうか。
そして、
家族を大切にできない人は、最大の身内である「この体」をも大切にできない。
最も身近な他人である「この体」。
これを大切にできる人は、
その次に身近な他人である「家族」をも、大切にできる。
これを大切にできる人は、
その次に身近な他人である「友人」をも、大切にできる。
これを大切にできる人は、
まだ見も知らぬ他人である「人間」をも、大切にできる。
この体、家族、友人、そして世界中の人々。
みな、他人様。
いつもそばに寄り添ってくれている「この体」「この自分」を大切にできる人は、この世のありとあらゆるものを心から大切にできる人だ。水・火・土・空気・植物・動物・食物・道具…そして時間。
言い換えれば、身の回りのものを心から大切に扱うことは、「この体」「この自分」をも大切に扱うことにつながる。
そして。
反省とは。
自分を「せめること」ではない。
他人に「あやまる」ことである。
「せめる」は戦いである。
「あやまる」は仲直りである。
戦ってしまうのは降参しないから。
降参しないのは、誤った自分を正しいとするから。
正しいとするからイライラする。
イライラするから他人のことも自分のことも「せめる」。
間違った絵を画用紙に描いてしまったならば、ケシゴムをつかって真っ白にすればいい。
それは、すぐ消せることもあれば、時間がかかることだってある。
反省とは、すぐにできねばならぬものでもない。
そして、真っ白な画用紙に。
もういちど正しく絵を描けばいい。
落ち着いて。
破いたりせず。
真っ白に。
そして。
わびる。
ぼくが悪かった。
乱暴だった。
これから気をつける。
ごめん。いままでごめん。
この大切な「体」は、きっと笑って許してくれる。
この大好きな「家族や友人」が、きっとそうしてくれるように。
こっちこそごめん。私も悪かったの。
きっと許してくれる。
仲直りできる。
もう一度やり直せる。
当てずっぽうではない。
病弱だった僕自身が歩んだプロセス。
そして、良くなられた僕の患者さん方が歩まれた道なのである。