五臓六腑という言葉がありますね。これは東洋医学の言葉です。
五臓六腑って何だろう をご参考に。
五神とは
五臓とは、心・肝・脾・肺・腎の五つの臓のことです。「臓」というのは何かを “蔵している” という意味があります。何を蔵しているかというと…。
それが五神です。五臓は五神を蔵している。
五神とは神・魂・意・魄・志のことです。
心藏神.肺藏魄.肝藏魂.脾藏意.腎藏志.是謂五藏所藏.
<素問・宣明五氣 23>
五神とは意識のことです。つまり「こころ」です。
神とは >> 東洋医学の「心臓」って何だろう
魂とは >> 東洋医学の「肝臓」って何だろう
意とは >> 東洋医学の「脾臓」って何だろう
魄とは >> 東洋医学の「肺臓」って何だろう
志とは >> 東洋医学の「腎臓」って何だろう
五臓が家だとするならば、五神は家主です。
…陽神曰魂,陰神曰魄,以及意志思慮之类皆神也。合言之,則神蔵於心,而凡情志之属,
<類経・臓象類>
【訳】陽的な神を魂という。陰的な神を魄という。意・志もみな神の範疇である。つまるところ、神とは心臓に鎮まり、意識のことをいうのである。
五志とは
この家主は多彩な精神活動つまり感情を持っています。
五神それぞれの個性ある感情を、五志と言います。喜・怒・思・憂 (悲) ・恐です。
心は神を内蔵し喜として現れる。肝は魂を内蔵し怒として現れる。脾は意を内蔵し思として現れる。肺は魄を内蔵しとして現れる。腎は志を内蔵し恐として現れる。
- 心…神…喜
- 肝…魂…怒
- 脾…意…思
- 肺…魄…憂 (悲)
- 腎…志…恐
在藏爲肝.…在志爲怒.
在藏爲心.…在志爲喜.
在藏爲脾.…在志爲思.
在藏爲肺.…在志爲憂.
在藏爲腎.…在志爲恐.
<素問・陰陽應象大論 05>
本ページでは肺の志は “憂” と “悲” の両方で展開します。素問・陰陽應象大論 に、 “悲勝怒” とあり、五行相剋関係から 憂=悲 であることは明白です。
考察
分かったようで分からないので、もっと立体的に解釈します。
五志のそれぞれは、過不足なく中庸を得ていなければなりません。多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない。
中庸を得た喜・怒・思・憂 (悲) ・恐は、正しい感情として発露し、健康な「こころ」の状態として現れます。
多すぎたり少なすぎたりするのは、太過と不及です。この2つは、誤った感情として発露し、病的な「こころ」の状態として現れます。
五志過極
中医学で、五志が太過 (過度) となる病態を、五志過極といいます。五志過極とは、簡単にいうと精神的ストレスのことですが、本人がストレスと感じないようなものも含みます。
五志の問題は、五志過極だけにはとどまりません。過極 (陽) だけでなく、不及 (陰) にも中庸 (境界) にも、こういうカテゴリー名… つまり、五志不及・五志中庸というような考え方が必要です。
よって以下に、太過 (五志過極) ・不及・中庸の区別をつけて説明します。
心…
【太過】興奮。喜が多すぎると、狂喜興奮して他を顧みない。
【不及】陰鬱。喜が足りないと、陰鬱で元気がない。
【中庸】感謝。喜が中庸ならば、感謝・明朗・好意に満ちている。
肝…
【太過】憤怒。怒が多すぎると、熱血に過ぎ少しのことで怒り出す。
【不及】薄志。怒が足りないと、やる気のない無関心な状態となる。
【中庸】勇気。怒が中庸ならば、前向きでやる気や勇気に満ちている。
脾…
【太過】執着。思が多すぎると、つまらない事にこだわり前を向こうとしない。
【不及】健忘。思が足りないと、大切なことに向き合えず肝心なことを忘れる。
【中庸】聡明。思が中庸ならば、思慮深く賢い。
肺…
【太過】悲嘆。憂 (悲) が多すぎると、些細なことで悲嘆したり絶望したりする。
【不及】冷淡。憂 (悲) が足りないと、無味乾燥な感情のない状態となる。
【中庸】愛情。憂 (悲) が中庸ならば、優しく慈悲深く、愛情・感性が豊か。
腎…
【太過】恐怖。恐が多すぎると、消極的で怖がりになる。
【不及】油断。恐が足りないと、無鉄砲で慢心し傲慢となる。
【中庸】内省。恐が中庸ならば、謙虚で内省心が強く、節度を重んずる。
五志における太過と不及は、病的な「こころ」における陰陽です。これらは非常に不安定な「こころ」の状態です。ストレスを感じやすくなります。ストレスの原因は、誰かに悪口を言われたから…ではなく、五志がとのような状態なのか…によるのです。
「憂」は「うれい」ですが、「亻+憂」で「優しい」ですね。また「愛」の下の「心+夊」は、「憂」の下の「心+夊」と通じると言われています。
「悲」は慈悲という意味を持ちますが、日本の古語でも「愛し」を「かなし」と読みます。
憂も悲も、「愛」と通じ合うのですね。
二重人格…記憶がない…
五志の太過と、五志の不及は、陰陽関係です。
陰陽とは夫婦のようなもので、まったく正反対の性質を持ちながら、互いに助け合い高め合い諌め合いつつ、一体となるものをいいます。つまり、太過 (やりすぎ) と不及 (やらなさすぎ) が互いに連絡を取り合って、中庸 (ちょうどいい) が生まれるということです。
陰陽って何だろう をご参考に。
ところが、陰陽がうまく機能していないと、夫と妻が協力しあわず、自分の言いたいことだけを主張し始めます。
たとえば、夫だけが自分勝手な場合、これが太過です。夫だけを治せばうまくいきます。
たとえば、妻だけが自分勝手な場合、これが不及です。妻だけを治せばうまくいきます。
ややこしいのは、どちらも自分勝手な場合です。
たとえば、躁状態 (喜の太過) になったり鬱状態 (喜の不及) になったりするように、太過になったり不及になったりを繰り返します。常に争いが絶えず、夫が妻をやっつける時期、妻が夫を従わせる時期、というふうに、一定期間ずつ繰り返します。
また、考えても仕方のないことでクヨクヨしつつも (思の太過) 、向き合わなくてはいけないことなのに何も考えない (思の不及) というように、太過と不及が同時に存在することもあります。無視し合いつつも争わず一緒にいる仮面夫婦です。
これは陰陽が機能していません。夫は夫らしく、妻は妻らしく…。部屋が散らかっている悪い状態の中でも、それが捨てるもの (陽) だけだったり、しまうもの (陰) だけだったりすると、きれいにするのが楽ですね。 ごちゃまぜに同時に存在すると、非常に手間がかかります。要らないものは要らないものらしく、要るものは要るものらしく、そうやって整頓された部屋が成り立ちます。
こういうごちゃまぜの状態が、五志の太過・不及という陰陽でおこると、記憶がなくなります。
すなわち、五志の太過のときは、五志の不及のときの記憶がなくなります。その逆もしかり、不及のときは太過の時の記憶がなくなります。激高して暴言を吐いたのにその記憶がない。うつから回復したがその頃の記憶がなくなっている。これらはみな陰陽が機能していないからです。虚実錯雑・寒熱錯雑・表裏同病を伴うことがよくあります。
本当に健康状態になると、太過の人格と不及の人格とがたがいに向き合い出し、反省や感謝の情が湧いてくるものです。
その方法とは…。
太過を制する
素問は以下のように説いています。これを先ほどの太過・不及・中庸で説明してみます。
怒傷肝.悲勝怒.
喜傷心.恐勝喜.
思傷脾.怒勝思.
悲傷肺.喜勝悲.
恐傷腎.思勝恐.
<素問・陰陽應象大論 05>
【訳】
憤怒は肝を傷る。愛情は憤怒を和らげ、勇気に中和する。金剋木。
興奮は心を傷る。内省は興奮を和らげ、感謝に中和する。水剋火。
執着は脾を傷る。勇気は執着を和らげ、聡明に中和する。木剋土。
悲痛は肺を傷る。感謝は悲痛を和らげ、愛情に中和する。火剋金。
恐怖は腎を傷る。聡明は恐怖を和らげ、内省に中和する。土剋水。
中庸を得た正常なそれぞれの五志は、相克の法則に従って、太過となったそれぞれの五志を中庸に戻す力があります。
太過とは力が入りすぎている状態です。不及とは力を入れたくても入らない状態です。自力でコントロールできるのはどちらでしょうか。速く走ることは無理でもゆっくりならできますね。
太過ならば自力で制御できるのです。
怒気…激しく怒る。これは愛をもって制することができる。
喜気…激しく興奮する。これは省みることで制することができる。
思気…激しくこだわる。これは勇猛前進することで制することができる。
悲気…激しく悲しむ。これは感謝することで制することができる。
恐気…激しく恐れる。これは知性 (知識) をもって制することができる。
喜・怒・思・悲・恐 の太過の気は、五臓を悪くします。
喜・怒・思・悲・恐 の中庸の気は、五臓を良くします。
自分だけが正しい。自分さえ良ければいい。そう思っている人は、
知性がないのです。…脾
怒ります。…肝
反省しません。…腎
冷淡です。…肺
与えられている恩恵に気づきません。…心
中庸の気とは… 勇気 (肝) ・知識 (脾) ・愛情 (肺) ・感謝 (心) ・反省 (腎) …この5つを育てることが健康になる方法である。東洋医学はそう教えてくれています。
心が体を整える
中庸を得た五志は、高い人間性そのものです。ストレス (苦労) を消化吸収して「こころ」の栄養に変えていきます。「こころ」が大きく育っていくと、より多くの苦労を取り込み、栄養に変えていく力が備わっています。これが人生の喜びです。人生に壁 (ストレス) は付き物ですが、これを乗り越えることが本義なのです。
ストレス・苦労は必要なのです。 “可愛い子には旅をさせよ” “若いときの苦労は買ってでもせよ” と昔から言いますね。それは本当です。役に立つ人間にならねばならない。
つまり我々は、喜・怒・思・悲・恐をほどよく用いて、この壁を乗り越えていくのです。その結果、喜・怒・思・悲・恐はきたえられ、ますます高レベルなものとなり、こうして壁を乗り越え続けるならば、人間性は死ぬまで成長し続けます。体が20歳前後をピークとしてだんだん衰えていくのとは対照的です。
と同時に、五志をきたえることは、五臓を強くしていくことです。五臓を強くすることは生命力 (正気) を強くすることであり、病気が治ってゆくことと直結します。得なことばかりですね。
逆に、五志に太過・不及がおこると五臓を傷り、生命力 (正気) を消耗し、やがて生命の土台 (腎) を弱らせていきます。
人間的な成長 (五志の成長) は自然なことであり、健康 (五臓の健全) も自然なことです。心の成長があるから、体の健全が保たれるのです。樹木の成長を見れば分かるでしょう。わずか1mmの成長があるからこそ、生き生きとした美しさがあるのですね。日々少しでも成長していれば、その状態こそ健康なのです。
精神内守.病安 (いずくんぞ) 從來.<素問・上古天眞論 01>
【訳】精神が内面を守っているならば、病魔などにどうして付きまとわれることがあろうか。
心身一如
もちろん、逆も言えることです。健全な体は健全な心をつくる。
五臓を整えるということは、心も体も整えるということです。
“この痛みさえ取れればいい”
“このつらささえ取れればいい”
こういう考え方が世の中にあります。そしてこの考え方を持つのは、治療される側だけではありません。もし、真に東洋医学の理念を実践する治療家であるならば、この考え方を正すでしょう。しかし現状は…。
“症状さえ取れたらいい” と考えるならば、それは東洋医学ではありません。
心身一如です。
東洋医学は、精神論にも肉体論にも偏らない。中庸を行きます。
精神と肉体は陰陽だからです。