「食」に向き合う… 食・節・即・既 に見る東洋の食意識とは

「食」とは、誰もが知っている字ですね。

古代中国人は、この字にどんな哲学を封じ込めたのか、たどってみましょう。

▶米を「食」べる

▶「食」の字源

「食」は、「A (亼) 」+「皀」です。

「A (亼) 」は、主に以下の説があります。
①下方に大きく広げたクチバシ (口) の象形。
②ごはんの上にかぶせるフタ
(人が) 集まる意。

クチバシはキーワードとなるので覚えておいてください。

▶「皀」は白米

「皀」は、「白 (白米の象形文字) 」+「匕 (さじ・スプーン) 」です。ただし、もともとの甲骨文字はスプーンではなく、食器の上に食物がもられた形が描かれています。ちなみに単独で「皀」という字は、「 (本来の) 米の香り」「一つぶ」という意味を持ちます。

よって「食」は、
①食べ物を、口を広げて食す
②食べ物を、盛り付けてフタをする
③食べ物を、(口中や胃中に) 集める

という意味があることが分かります。まあ、特に意外性はありません。

興味深いのは「既」「即」「節」にも、「食」の一部である「皀」(ごはん) が含まれることです。

一つ一つ見ていきましょう。

▶「既」と「欠」… お腹の満ち欠け

▶「既」… すでに満腹

まず、「既」から行きます。

既 (すで) にお腹がイッパイで、ご飯からそっぽを向いていますね。

「既」は、「皀」+「旡」です。

▶「欠」… お腹がすいた

「旡」は一説によると、「既」の初文 (もともとの字の形) で、満腹の状態を示します。
既 (すで) に十分に食べたのでもうたくさん…という意味です。

おもしろいのは、「欠」という字と対称をなすということです。上図の字源変遷を見ると分かるように、もともとは同じような字だが、頭 (口) の向きがちがうことが分かりますね。

「旡」は後ろ向き。この字単独では用いず「既」が用いられます。既に満腹で、目前にご飯がある。
「欠」は前向き。この字単独で用います。お腹が欠けた感じがして、目前にはご飯がありません。

▶体が教えてくれる

お腹のタンクが、に満タンか、それともガスか。

  • に満ちているならば、もう食べない。
  • けているならば、食べる。

こういう「基本」が、現代人はできていません。欲しくもないのに無理に食べてる人、お腹が空かないのに食べる人、これが多いです。栄養がに足りていれば嫌だと感じる。そういうセンサーは元々我々に備わっており、非常に尊いものです。このセンサー (味覚) を無視して、栄養を水で流し込む人が増えています。過度の摂取は脾を傷 (やぶ) ります。

体を動かしたくさん汗をかけば塩分が漏出しますが、そんなときは普段どおりの味付けなのに薄味に感じるもので、自然と醤油などを足して、不足分 (けている分) の塩を摂るようにできているのです。

▶口を広げた貪欲さ

ちなみに下図を見ると、「食」の字の構成要素であった “A” が、「既」でも「欠」でも描かれていることに気が付きます。

“A” は、口を広げたクチバシの形で、貪欲さを示します。ハゲタカのように他の生命をついばみ、カラスのようにゴミまであさる、底なしの欲ですね。

これが「食べる」ということです。「食」の字は、クチバシを大きく広げて、器に盛った生命にかぶりつき、飲み込むことなのです。

ところが、即・節 には「皀」(ごはん) はあっても「A」(クチバシ) が見当たりません。

そして以下に示すように、「卩」という字もまた、旡・欠と同じ「しゃがんだ人」を描きますが、「A」(クチバシ) がありません。

ここには深い哲学が隠されている。

… 深読みしすぎでしょうか?

▶「即」は「節」

▶「即」の字源

「即」という字にも、「食」の一部である「皀」 (ごはん) が含まれます。

即の右側の「卩セツ」は、しゃがんだ人の姿の象形文字です。

その人の前に「皀」 (ごはん) をおいたものが「即」です。

字源からみると、「即」は食事のことを意味する漢字であることが分かります。

「即」には「すぐ」という意味があるので、「すぐ食べる」ということでしょうか? それもあるのですが、《説文解字注》には驚くようなことが記されています。

▶「即」は「節 (ふしめ) 」

即。即食也。即、當作節。周易所謂節飮食也。節食者、檢制之使不過。故凡止於是之䛐謂之即。凡見於經史言即皆是也。《説文解字注》

【訳】「即」は「即食」である…と《説文解字》にはあるのだが、「即」ではなく「節」とすべきである。つまり「即食」ではなく「節食」なのである。これは、《周易》に言うところの「節飲食」のことである。節食とは、行き過ぎないように慎 (つつし) み制限することである。故に、文を読み進める時に「そこで止まる字句」として、つまり読点 (、) のような使い方で「即」は用いられる。古代の書物に見られる「即」は皆この意味で用いられている。

ずーーっと字ばかりが続くと読めないですね。だから「、」がいる。ここでいったん休止ですよ。で、そのあと改めて読み進めてくださいね、という意味で句読点が置かれるのです。そういう意味が「即」や「節」にはある。つまり文節を示す文字として「即」が用いられる。

竹には等間隔に節がありますね。「節」の原義は竹の節です。そのイメージを時間・空間的な直線に置き換えます。その直線がずーーっと進み続け、それは節目にだんだん近づき、そして節目に至る。そこでいったん止まり、またすぐに新しく直線が続く。そういうイメージが「即」のさまざまな意味を作るもとになっていると考えられます。

休んだら、又すぐに始めます。そういう意味から展開して、「即席」のように「すぐ」という意味にもなるのですが、それは本来の意味ではありません。

「即」とは、いったん食事を止めて「けじめ」をつけ、節目が来たらまた始めることだったのです。《説文解字注》の著者・段玉裁(1735-〜1815年) は、もちろん医者ではなく言語学の研究者です。その段玉裁が、「即」とは「食」のあり方を示す字であり、「節」という意味で考えるのが正しい捉え方である… と言っているのです。

食に対しての古代中国人の向き合い方がよく分かりますね。食事の摂り方の心得を原義として、またそれを竹の節に例えて「節」という字を用いたとは意外です。古代中国人は、ガツガツ食べることを善しとしなかった。おそらく現代よりもはるかに貧しい食事であったはずなのに、です。健康を意識したのか品 (ひん) を重視したのかは分かりませんが、「節度をもって食べる」ということを有史以前に会得していたことに驚きを隠せません。

「節」とは、「竹」+「即」です。竹は等間隔で節があります。節目がある。節度がある。

ダラダラ食いはよくない。食事時間を等間隔に節目正しく守る。
食べ過ぎは良くない。食事量の節目がきたらそこで止める。

▶飲食不節は脾を傷 (やぶ) る

中医学には「飲食不節」という言葉があります。「飲」にも「食」にも「クチバシ」という貪欲さがありますね。そのクチバシに「節」というケジメがない。それが「不節」です。「節」にはクチバシがありません。字源を意識すれば「飲食不節」という短い語句が明瞭になります。

そして、この「飲食不節」をやってしまうと、「脾を傷 (やぶ) る」という法則をうたっています。脾とは、我々が生まれてから行きていく上で、飲食物を生命力に変えるという「もっとも大切な仕事」を指します。現代医学で言う肝臓がもっとも近い概念となります。みな最終的には「脾」を弱らせて病気となり、そして死んでゆくのです。

旨いものが食いたい。栄養を独り占めしたい。そんな欲と引き換えに、「生命製造機」ともいえる「肝臓」を窮地に追い込んでいるのですから、元も子もない話です。

>> 自分でできる4つの健康法 …正しい生活習慣を考える
>> “肝臓” を考える…東洋医学とのコラボ
>> 中医学における “病因” とは

あれを食えこれを食えという表現は、中医学の原典である《黄帝内経》に見られません。見られるのは、欲をつつしみなさいという表現です。この舌を喜ばせるためだけに、自分の健康のためだけに、生きとし生けるものの命を奪う。それにためらいがないならば、これは「欲」以外の何物でもありません。

ためらいとは「節」です。

「節度をもって飲食すべし。」 これが中医学の基本です。中医学の一部門である「薬膳」を語るとき、まずこの言葉を掲げるべきであると言いきってはばかりません。

食からクチバシを引き、卩を足したものが即 (=「節」) です。

「皀 (ごはん) 」に、「クチバシ (貪欲さ) 」がなくて「卩」がある。

「卩」とは?

▶「卩」とは… まとめにかえて

「卩」はセツと読み、「節セツ」の軸となる要素です。

ここに「旡」や「欠」のような「クチバシ」は描かれていません。

ただあるのは、頭 (こうべ) を垂れ腰をかがめて、 はいつくばう姿です。

「つくばい」というのご存知でしょうか。お茶時の前に手を清め心を清新にするためのものです。そして「にじりぐち」の低い入口を、膝を付き腰をかがめてくぐり、更に姿勢を低くする。頭を下げ、身も心もへりくだって、茶事 (飲食) に臨むのです。

つくばい (左)  にじり口 (右)

そして、差し出された一杯の茶に深くお辞儀をし、押し頂いて口にする。

感謝。

謙虚。

かの千利休が求めた世界です。

クチバシで他の生き物をついばむ。そのお構いなしの貪欲さを徹底的に否定し、過美を削ぎ落とした美…「侘び寂び」を見せつけ、日本中をそれに靡かせた。「卩」の字源にも垣間見る古代中国の哲学を、現実社会の文化にまで推し進めた。侘 (わび) しさ・寂 (さび) しさを、「美」の域にまで推し上げた。衣食住という生活様式・生活習慣を、一つの芸術としてまとめ上げ完成させた。

凄 (すさ) まじい世界観。

織豊が戦国乱世を一つにまとめたあの時代は、日本が世界に誇れる「美」を生み出した瞬間でもあったのです。古代中国に端を発した無欲恬淡という考え方は、この日本人によって芸術の域にまで高められたのです。他に類を見ないこの感性こそは、世界に争いのない平和をもたらし、環境問題や病魔から命を救うポテンシャルさえも持ち合わせ、それを我々日本人はこの胸の底深くに秘めているのですね。

節。

節とは、「食」のクチバシ (貪欲さ) を削ぎ落とし、「竹」 (けじめ) と「卩」 (謙虚さ) を付け加えたものです。

の柱との壁からなる侘 (わび) しく寂 (さび) しい一室で、一輪の花を竹の壁掛けに指し、を起こし、属の炉窯にを入れて湯を沸かし、自然 (木火土金水) への感謝とともに、小芋や栗などを付けて侘しい茶 (粗食) をいただく。凛と張り詰めた空気の中で得られる愉悦。そのなかにこそ、真の幸福がある。

国宝・待庵 (千利休作)

清貧。真の美。

それを、過美絢爛と飽食傲慢の「支配者」に見せつける。

秀吉よ、これが分かるか?

僕は分かります。

真の健康はそこから生まれる、と。

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