死をどのように捉えるか。これは、人生をどのように捉えるかに等しい。
どのようなゴールラインを目指すか。これは、どのようなコースを走り抜くかに等しいのである。
死と向き合う
なぜこんな病気になったのだろう。
今までの生活の仕方の、どこに問題があったのだろう。
自分と向き合う。
自分と向き合うとは、病気を克服した人の誰もが行う作業であるに違いない。
この作業は、向き合うべきなのに向き合ってこなかったものと向き合うことである。
この作業は、心に落ち着きがなければ不可能である。落ち着きは健康の土台となる。
そして、自分と向き合うことの究極とは「死」と向き合うことである。
期末テストを意識するかしないかによって、テスト前の生活の仕方は大きく変わる。
大会の試合を意識するかしないかによって、大会までの生活の仕方は大きく変わる。
年度末決算を意識するかしないかによって、決算までの運営の仕方は大きく変わる。
死を意識するかしないかによって、死ぬまでの生活の仕方が大きく変わる。
何かを成し遂げるには、長期的視野に立つことが必要だ。
学業・スポーツ・仕事しかり。ローマは一日にしてならず。
病気克服を成し遂げるにも長期的視野が不可欠である。あせりは病気を却ってひどくする。
そして、長期的視野の究極とは「死後の世界」である。
期末テスト後も、勉強を続けるのか。続けないのか。これはテスト前の生活に大きく影響する。
大会の試合後も、部活を続けるのか。続けないのか。これは試合前の生活に大きく影響する。
年度末決算後も、会社は存続するのか。存続しないのか。これは決算前の運営に大きく影響する。
死んだ後も、この意識は存続するのか、存続しないのか。これが、死ぬまでの生活に大きく影響する。
年度末が終わっても会社は存続する。にもかかわらず存続しないとタカをくくって、そんなつもりで運営していると、ほんとうに会社は潰れてしまう。そして「そんなつもりの運営」が良い運営だとは到底思えない。来期も存続すると「信じる」からこそ、まともな運営ができるのである。
運営とは、生き方である。
死後の世界はあるのかないのか。
向き合う。これほど大切なことはあるまい。
生き方を大きく変えるのである。
信じてるだけ
死後の世界はない。
死後の世界はある。
どちらであるかは、誰にもわからない。
しかし、死は誰にも訪れる。それだけは誰もがわかっている。
いずれ無理くりにでも、死に向き合わざるを得ない時が来る。
それは今かもしれないし、数十年後かも知れない。
だからこそ今、そこから目をそらしてはいけないのだ。
死後の世界はない。そう信じる。
死後の世界はある。そう信じる。
誰にもわからないものであるだけに、どちらかを信じることになる。
死後の世界はない…と頭のいい人は言うが、これはそう信じているだけである。
死後の世界はある…という人が、そう信じていることと何ら変わりはない。
死後の世界は、絶対にない。
死後の世界は、絶対にある。
死んでもいないのに言い切るのはよくない。
両方を受け入れる度量があるといい。そういう人は、気持ちにも体にも余裕がある。
ただただ、信じるのである。
それが「向き合う」ことだ。
あるかないかは、どうでもいい
信じるならば、どちらを信じたらいいのだろう。
ぼくは、どちらを信じた方が「得」なのか、損得勘定で考えている。
ないと信じたほうが得ならば、そう信じたほうが良い。
あると信じたほうが得ならば、そう信じたほうが良い。
当たり前のロジックである。
「損か得か」を、これから議論したいのである。
「あるかないか」を議論したいのではない。
ここは、しつこく断っておく。
あの世があるかないかなど誰にもわからないので、くだらない水掛け論で終わる。
どちらを信じたほうが得か。これなら意味のある議論になる。
閻魔様がいると信じる
閻魔様がいるのである。
だからウソをつかないようにしている。舌を引っこ抜かれてしまうからだ。
盗まないようにしている。閻魔様が大きい目でギロッと見ているからだ。
閻魔様が見ている。閻魔様が気づいている。
そう信じている。
これって得なことだ。人から信用される。
ウソをつけばその時は簡単に解決が付く。しかし後でややこしくなる。
盗めばその時はうれしいかも知れない。しかし後でややこしくなる。
そういう人が、ニュースで悪い人だと報道されているだろう。
誰も見ていない。誰も気づいていない。
そう信じている。
これって損なことだ。人から相手にされなくなる。
その時はいい。しかし後でややこしくなる。
イソップの「アリとキリギリス」を思い出そう。
今さえ良ければいい。キリギリスのような短期的視野は、病を治すうえでもマイナスとなる。
アリのような長期的視野が大切なのである。持続可能な考え方は、恒久的な健康をもたらす。
短期的視野では、たとえ生活習慣を正して病気が治っても、また習慣が改悪して悪化してしまう。
キリギリス (今さえ良ければいい) の悪い癖がなかなか抜けないからだ。
閻魔様がこわいから悪いことをしない。
警察がこわいから悪いことをしない。
この両者は大きく異なる。
警察を気にするのは、人目を気にしているのだ。人目を気にしてコソコソしている人は、「今」を繕 (つくろ) おうとする。小手先でごまかそうとしては失敗する。ストレスを生み、病気を生む。
閻魔様を気にするのは、自分と向き合っているのだ。長期的視野で自らの人生を見ている人は、「今」に寛容である。これから良くなる。いずれ良くなる。ドッシリ構える。ストレスは生まない。
もしあの世がなかったら?
死後の世界は、あると信じた方が得なのである。
しかし…。
一つ気になることがある。
こんな真面目に生きてきたのに、死んだときにあの世がなかったらどうする。
おいおい、話が違うじゃないか!
とはならない。死後の世界がなければ、その時点で意識が消滅する。
もっとウソをつけばよかった、盗めばよかった… と後悔したくても、後悔する自分などもういない。
だから、安心して正直に真面目に生きればいい。
生前、人から信頼される。それは明らかに得なことである。損は一切ない。
世の中に絶対というものはない。信じていることは裏切られる可能性がある。
それを覚悟の上で信じる。命をかけて信じる。これが「信念」である。
実際に、僕は死後の世界に裏切られてもいいと思っている。
もっとも、そのとき意識が消滅するので裏切られたことに気づけない。
だからどうぞ裏切ってください。
「究極の信念」を得るにはちょうどいい題材ではないか。
もしもあったらどうする?
期末テストがないと信じているのに、 “ハイ今日テストだよ” と言われた時。
期末テストがあると信じているのに、 “テストなんかないよ” と言われた時。
どっちがうろたえるだろう。
あの世がないと信じて、 “ハイこちらにどうぞ。閻魔様がお待ちです” と言われた時。…うろたえる。
あの世があると信じて、 あの世など無く全てが消滅した時。…うろたえようにも自分はもういない。
つまり、
あの世がないと信じていて…
・ない >> うろたえない
・ある >> うろたえる
あの世があると信じていて…
・ある >> うろたえない
・ない >> うろたえない (意識が消滅している)
。。。かなりめんどくさいのだが、
「ある」と想定していれば、うろたえることはない。
「うろたえる」よりも「うろたえない」ほうが良いに決まっている。
死後の世界はあるのかないのか、どちらを信じたほうが得なのかは自明である。
だから僕は死後の世界を、信念をもって信じる。
面倒な話だが…
実は、こういう話は今まであまりしてこなかった。
内容が誤解を受けやすい。しかもめんどくさい。
ただ、態度の悪い患者さんにイチかバチかでこの話をすると、急に態度が改まって治療がしやすくなったという経験がある。表情までガラリと変わって、別人のようになった。
がんで余命宣告を受けたのに、まったく動じない患者さんもいた。孫の顔も見れたし、亡夫に会えるからそれはそれでいいと。痛みもなく、亡くなる数日前まで自力で起居し、前夜も自力で寝返りをしていた。ほんとうに安らかな最期だった。
患者さんにはいろんな方がある。
焦りが止められない人。
心に鍵をかけている人。
自分を見失っている人。
道をまちがっている人。
そういう人が進行性・不可逆性の病態を、フィジカルあるいはメンタルにおいて示す場合。
いわゆる「逆証」 (治らない病気) とも言える状態がある。
そういう患者さんに出会った時、あきらめるしかないと思うことがある。
“縁なき衆生は度し難し” と言う言葉が頭をよぎる。
しかし、あきらめない。なぜか。
「永遠」でありさえすれば、いずれ堅い扉が開くときが来ると信じるからである。
その「永遠」を説くことを、僕は怠ったままであきらめて良いのか ! ?
よって最近、時間のあるときにこの話をする。
めんどくさい反応は覚悟のうえである。認めたがらない人もいる。
にもかかわらず、驚くような身体の反応が、どの患者さんにも (認めない患者さんにも) 見られることが分かった。
鍼をまだしていないのに、顔面気色が全面で浮くのである。
こういうことは経験がない。
体が喜んでいる。そう考えざるを得ない。
そうか、心の底では、体の無意識では、みんな「永遠」を求めているのだ。
あの世で会える
そもそも僕が12歳のとき、父が亡くなった。40歳になって間なしのことだった。
人間というのは、こんなに簡単に死ぬものか。無常観は早熟だった。
悲しくはなかった。泣きもしなかった。ただし、胸にポッカリと穴が空き、その違和感が気になって困るほどだった。
僕が死んだら「あの世」で父に会える。そう信じることでその違和感は消え去った。
そんな僕が、父とはじめて向き合ったのは高校生のときだ。父が精魂込めた果樹園で、今は草だらけに荒廃したその場所で、一人泣いた。はじめて父を求め、父を恋しく思った。この果樹園で父を手伝い、一緒に汗を流したい。もう、願いはそれだけだった。
僕が死んだら「あの世」で父に会える。そう信じることで乗り越えられた。
努力家だった父に会った時、恥ずかしくないように生きよう。
人に笑われようが馬鹿にされようが、この信念だけは貫かせてもらう。
論理的な思考
ぼくは生まれつき、物事を論理的に考える方である。
よって、「あの世」を信じることがなかったら、確実に自殺している。
だってそうではないか。
人間は必ず死ぬ。これは、生まれたときから死刑が宣告されているようなものである。死刑囚はいつ刑が執行されるか分からぬままに服役しているが、それと全く同じである。
確実に言えるのは、いずれ刑が執行されることである。
わからないことは、それが明日なのか遠い未来なのかである。
法務大臣が、いつハンコを押すか。その日をひたすら待つ。ひたすら怯える。
まるで人生そのものではないか。
いずれ死ぬなら、その時を待つなど無駄なことである。
だから今死ぬ。今死のうが、一秒後死のうが、明日死のうが、十年後死のうが、同じことだ。
怯える時間が少ない分、早い方が楽である。
結婚もしないし子供も生まない。
これ以上、死刑囚を増やしてどうするのか。
死刑囚を愛し、死刑囚を育てることなど無意味だ。
そう考えるのが論理的である。
あの世がないならば、死んだら何もかもが消滅してしまうならば、愛する人のために努力する意味などどこにあるだろう!
死んでも変わらない
あの世を信じる僕は、それとは真逆の考え方である。
自殺など考えたこともない。
世界が今日で滅亡すると言う日に出くわしたとしても、ぼくはいつもどおり、仕事をしているか勉強しているか畑を耕しているか、どれかをやっているだろう。その生き方を継続することを止めない。そんなことはもう止めて日頃の欲望を叶えたいとか、夢にも思わない。というか、そういう欲望が特にない。
なぜそんな風に思えるのか。
死を、「隣の家に引っ越しする」くらいにしか考えていないからである。今日自分が「引っ越し」するからと言って、日頃の貯蓄を全部散財してしまったら、「引越し先」で困るではないか。死のうが生きようが、僕は生き方を変えない。今の家でも、引越し先の隣の家でも、僕が僕であることは変わりがないのである。
よって、あの世を信じる僕にとって、自殺は選択肢にない。
死にたいと思うことはある。しかし死んでも仕方ない。
退路はそもそも無い。だから逃げない。
もしくは、イチかバチかで死んだら逃げられるか試してみるか。
あの世がなければ僕は消滅。それで逃げられる。
ただしその確率は50%。よって、これはカケである。
もしあの世があってみろ、閻魔様は相当ご立腹になる。
そうなると、もっと大きな苦しみに身を置くことになるリスクが非常に高い。
ジタバタ逃げて余計に症状が悪化する患者さん。
そういう人を何人も見ている。それだけに、それと重なる。
こういう人は、死生観が現世に限定しているのではないか。すぐに逃げたがる。
だから、辛抱ができない。
赤ちゃんの “幸せ”
地獄がこわいから悪いことをしないのか?
いや、進歩したいから善いことをする。善いこととは?
善いと思ったことをドンドンやることだ。目的は?
死ぬまでの間にいい思いをしたいから? ちがう。それではそこで終点だ。
では、死んだ後にいい思いをしたいから?
それもちがう。
死ぬとか死なないとか関係なしに、成長したいのである。
赤ちゃんが始めて立ったときの笑顔、あれが幸せの見本である。
成長が得られたときほど幸せなことはないではないか!
何度失敗しても、あきらめない。
尻餅をついても、後頭部をぶつけても。
赤ちゃんが立ち上がるまでに、どれだけの失敗を重ねただろう。
それでもあきらめることなく、どれだけの挑戦を続けただろう。
大人になっても同じである。年を取っても同じである。
輝く未来がある。だから、
やってみる。
失敗する。
なぜ失敗したか考える。
気づく。
気づいたことが本当かどうか、またやってみる。
挑み続ける赤ちゃんのように。
人から見ていかに些細なことでもいい。
積み木がうまく積めるようになった。
散らかった部屋のゴミを一つ片付けた。
立派な成長である。
1mmでも1cmでもいい。
成長がある限り、ぼくは生き生きしていられる。
ハードルは最初から用意されている。
乗り越えるべきハードルがここにある。
それは、ここまで走ってきた証拠だ。
それは、ここまで成長したあかしだ。
赤ちゃんが立とうとして頭をぶつけるのは、もうすぐ立てるからだ。
乗り越えられるからこそ、ハードルはここにある。
何台もあるハードルを一度に飛び越えようとしてはならない。
そんな飛び方をするとコケる。永遠に飛べない。
完璧は求めない。しかし飛び越え続ける。
1段1段。
ハードルは、この世からあの世へと続く「永遠の道」のうえに、永遠に続く。
等間隔に用意されている。飛び越えられるように用意されている。
そう信じて生きる。
焦りはない。たゆみもない。
ここにも “お地蔵さん”
1mmでも前に前に。ハードルに立ち向かう。
そんな姿を四六時中ずっと見ていてくれる人がいる。
それは、親ではない。
閻魔様である。
閻魔大王は、地蔵菩薩の化身である。 (by Wikipedia)
我々のことを、我が子のように愛しかわいがり、救ってくださるお地蔵さんである。
本当に信じていい人、本当に身をゆだねていい人とはこんなもの。
きびしいばかりではない。やさしいばかりではない。
二面性がある。
きびしく、やさしい。
僕の家の近くにも、あちこちに “お地蔵さん” がある。
閻魔大王のおそろしい顔は、お地蔵さんの仮の姿。
道道に、辻辻にたたずむお地蔵さんは、地獄の苦しみを少しでも無くそうと、まるで親バカのようにこんな近くまで出向いて、風雨にさらされつつも「道」を教えてくださるお姿だったのだ!
そう信じて生きる。
損などあろうか。
“永遠の持続” は五行の根幹
永遠の持続…これは東洋思想の根幹である。
五行論の根幹は「生長収蔵」にある。
生長収蔵は、永遠に続く命を説明したものである。
木火土金水の中央は、土である。
人はみな、
・地球 (土) から生まれる… 生
・土を耕し土の上で成長する… 長
・土の恩恵を受けて大成する… 収
・死して大地 (土) に隠れる… 蔵
人の一生を生長収蔵としてみた時、「蔵」は明らかに「あの世」である。
枯れたかに見えた命は、人知れず種を「あの世」に落としていた。
春が来て土を割って出た芽が、まさかその種であったとは知る人もない。
知っているのは、その種を受け止めた「大地」のみである。
大地とは?
「地」はその種をあの世の底深く「蔵」し、芽吹きという命を生む。
大地とは「地蔵」である。
いいかえれば「地蔵」とは、人間が踏み込めない「大地の底」である。目には見えないが、あらゆる命を生み出す土壌である。五行で言えば、水 (万物の根源) であり、土 (万物の土壌) である。
「地蔵」という言葉は、もともとは、サンスクリット語で「クシティガルバ」。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」の意味で、中国語に翻訳されて「地蔵」となったと言われる。
地蔵菩薩は、釈尊が入滅して神も仏もいなくなった世界を救う神 (仏) であるとされる。やがて未来において弥勒菩薩という希望の神 (仏) が現れる。釈迦が指し示した弥勒 (万民和楽の世) にたどり着く「道」を、地蔵が道案内するのである。
この世においては、大地からニョキッと顔をだして辻に立ち、神社仏閣への道を。
あの世においては、閻魔大王として天国地獄の辻に立ち、その人が行くべき道を。
地蔵とは、この世とあの世を超越して、我々の持つ最も大切なもの…「命」…を生み出し、かつ成長させようとする存在である。時には閻魔大王のような厳しさも見せながら、でもやはり子供が心配でならない親のように辻にたたずみ、 “正しい努力とはこっちの方向だよ” と我々が進むべき道 (生長収蔵という周回コース) を教えてくれる案内役である。
生長収蔵とは「命を育てる道」である。
命を育てるには、
・愛が必要である。
・知恵が必要である。
愛と知恵を育てるのが、成長である。正しい努力である。幸せ (天国) へとつながる道である。
植物を育て、子供を育て、人を育てるなかでそれは得られる。
地蔵 (やさしさ) と閻魔 (きびしさ) のなかでそれは得られる。
漢字を当てられた “地蔵” という意味を、五行を元として解説を私見として試みた。
漢字も五行も中国思想の粋である。
病気治しよりも、お金儲けよりも
あの世に向かって努力する。
地蔵さまと閻魔さまを意識して努力する。
そうすればきっと成長が得られる。
その努力が報われなかったとしても、そういう努力には後悔がない。
努力して損したと思わないのである。
むしろ「あの時がんばっておいてよかった」と、後になって思うことが僕にはよくある。
お金は幸せを得るための条件ではあろう。しかし絶対条件ではない。
あの世へ旅立つ時、お金を持っていくわけには行かない。
お金はいくらあっても、死ぬ時にかならず奪われてしまう。
あるのはこの身一つである。
お金で幸せを買ったからと言って、その幸せは長続きしない。
お金で買えるものは、すべて表面的であり有限である。
お金は盗まれる。この手につかんだ成長は誰にも盗めない。
永遠の財産とは、誰にも手出しのできない後者である。
成長こそ、誰にも奪われることのない幸せではないだろうか。
人としての努力、これはお金儲けのためでもあるが、それ以上の大きな意味があるのだ。
その意味とは、人として成長するためである。
人から信頼され喜ばれるならば、謝礼としてのお金は必ず入ってくる。
自分さえいい思いができたらいい (金さえあればいい) と考えれば「金の亡者」だ。
ますます金から見放されることとなる。
患者さんの努力、これは病気を治すためでもあるが、それ以上の大きな意味があるのだ。
その意味とは、人として成長するためである。
正しい努力と成長さえあれば、生き生きとした心身は必ず得られる。
自分さえ助かったらいい (症状さえ取れたらいい) と考えれば「健康の亡者」だ。
ますます健康から見放されることとなる。
お金は物質の象徴だ。これを「道具扱い」とするならばともかく。
他の動物、植物、人間さえも、自分が健康になるための「道具扱い」としてはならない。
パートナーを「道具扱い」にして、家庭の幸せが得られるだろうか。
命を「道具扱い」にして、身体の健康が得られるだろうか。他の生命も、この生命も。
地球をモノ扱いにすると、地球ともうまくやっていけなくなる。温暖化や災害がそれだ。
地球とは地蔵菩薩だ… と人格化して考えたほうが、うまくやれる。
得なのである。
症状さえ取れたらいいと考える患者さん。
いくら悪化しても、それでも症状しか見ようとしない。
こういう人は、死生観が現世に限定しているのではないか。
表面的・物質的にのみ考えてはならない。
その向こうに潜むもの (原因) を察することが大切である。
どうしたら幸せになれるか。それにはコツがある。
どうしたら健康になれるか。それにはコツがある。
大きな見当違いをしている人が本当に多い。
幸せになってほしい
いろんな経験をし、いろんな苦労をして、それを乗り越える。
そういう人は、苦しむ人を救う力がある。
最初からうまくいった人には、その力がない。
ただの善人には悪人を救う力がない。
病んでみないと病人は救えない。
若いときの苦労は買ってでもせよ。年をとっても同じである。
だから、経験に無駄はない。
それを乗り越え成長するならば、どんな経験であったとしても絶大な値打ちがあるのだ。
どんな人にも、いかなる人にも、他の追従を許さない “使命” がある。
例えば爪には爪の使命がある。爪がなければ指先の皮膚がずれて物がつかめない。
いくら心臓が偉いと言っても、心臓には爪の役目はできない。
人体の組織それぞれで使命が異なるように、人それぞれで使命は異なる。
人それぞれで異なるのは、人それぞれで踏んだ経験が異なるからである。
だから、経験に無駄はない。
それを乗り越え成長するならば、どんな経験であったとしても絶大な値打ちがあるのだ。
僕たちはみんなお地蔵さんの “かわいい子” である。
子供に成長してほしいのは、どんな親でもそうだろう。
だから、苦労がある。苦労がないと成長しないから。
だから、いろんな経験をさせられるのである。
かわいい子には旅をさせよ。
世間の辛酸をなめさせつつも、心配のあまり辻に立って見守る。
お地蔵さんの厳しさと親バカぶりである。
いろんな経験をなめ、苦労を乗り越えてほしい。
成長して、そしてその使命に生きてほしい。
爪が全身に寄与し、全身にとって欠くべからざる存在であるように。
心臓が全身に寄与し、全身にとって欠くべからざる存在であるように。
そのためには、爪は爪にならなくてはならない。心臓は心臓にならなくてはならない。
成長して、それぞれが持つ「らしさ」を存分に発揮する。
それが使命である。その使命に生きてほしい。
それが真の幸せである。そう知った上での「お地蔵さんの願い」なのだ。
持続可能な “幸せ”
怠惰や娯楽はいずれ飽きる。
飽食も飽きる。惰眠も飽きる。
飽きるようなものが “幸せ” とは思わない。
飽きるようなもののために健康があるとは思わない。
成長は永遠であり、飽きることがない。
持続可能な幸せこそ、真の幸せである。
永遠の持続は、あの世が保証する。
よって、あの世を信じてさえいれば、少なくともこの一生は成長 (幸せ) を得続けられるのである。
この心、この知識、この技術、この「自分」というもの。
今ここにそれがあるように、隣の家でもあの世でも、同じように存在すると信じる。
誰にも奪われないもの。誰にも盗まれないもの。
それは、この「自分」というものである。
だから「自分」を増やしていくことができる。高めていくことができる。
だから苦労ですら楽しく感じるのである。
何の心配もない。ためらう必要もない。永遠の財産を築いていっていい。
宗教とは “人間らしさ”
あの世に行ったら急に天国になったとか、急に地獄になったとか、そういうものではない。
一晩寝れば次の日は天国だとかありえない。それと同じことである。
この心の状態がそのまま存続する。
いま心が愛や平和で満たされているなら、その状態があの世でも続く。天国である。
いま心が憎や焦燥で満たされているなら、その状態があの世でも続く。地獄である。
見合った世界が目の前に広がる。当たり前のことである。
だから、
多額の献金をしたからといって、壺を買ったからといって、天国にいけるはずがない。
ささやかであっても本心から真心をもってすれば、その時点で心はすでに天国にある。
カンダタ (芥川龍之介・蜘蛛の糸) のように、自分さえ助かればいいというのは欲である。
身欲や名誉欲を煽るような献金のさせ方は、伝統的な宗教団体にも多く見られる。
欲は地獄を作る。
恐怖をあおるのは言語道断、恐怖は地獄の本質である。
だからカルトは良くない。よく考えれば分かることである。
日本人は宗教に関わらなさすぎる。だからすぐに騙される。
人付き合いしたことのない人が、人にすぐ騙されるのと同じことである。
だから日本人ばかりが霊感商法の標的にされるのだろう。世間知らずなのである。
すぐに騙されるのは、信じ方がまちがっているのである。
日本人は信じること (信仰) をバカにする風潮を持つ。
信じない人が賢い人であると考えている。
だから信じ方がよく分からない。哲学の未熟な人が増えた。
宗教とは “人間らしさ” である。
人を殺してはいけない…というのは “人間らしさ” である。
この “人間らしさ” は、極めて宗教的である。
この “人間らしさ” は、決して科学的ではない。
自然科学の傘下である生物学は、弱肉強食を法則とし、共食いを是とする。
科学は殺人を否定できないのだ。
人を殺してはいけない理由を、科学以外の根拠で子どもたちに説明する必要がある。
今のままでは頭のいい子ほど納得できないだろう。
ただし宗教は “人間らしさ” であるだけに、良い宗教 (良い人) もあれば悪い宗教 (悪い人) もある。
悪い人とは関わらなければいい。
それだけのことである。
この “人間らしさ” を日本人は否定する。
閻魔様を真剣に信じる人が少なくなった。
だから外国人から “エコノミック アニマル” と言われてしまうのである。
無信仰でカネのことしか頭にないケダモノ。かなり不気味に映るらしい。
幽玄 (あの世) と現実 (この世) は陰陽である。
陰と陽は夫婦のような関係で、お互いがお互いを生かし合い助け合い制御し会う関係である。
あの世を信じることにより、この世をより良いものにできる。
これは陰陽の考え方である。
表の世界があれば、裏の世界がある。
機能 (気) があれば、物質 (血) がある。
「こころ」があれば、「からだ」がある。
そう考えるのが東洋の考え方である。
この一瞬を生きる、永遠に
明日も「今の自分」であることに変わりないのと同じく、
死後も「今の自分」であることに変わりない。
そう信じる。
そう信じることで、生と死の境界線がなくなれば、
生きることに執着しなくなる。執着がなければ楽しく努力できる。
死んだ後こそ大切だと考える。生きている間に努力しようとする。
つまり、「今」を大切にできる。
過去も未来も同じくらい大切で、その境界線が今である。
生も死も同じくらい大切で、生と死のハザマが今である。
だから命を懸けて、今というこの一瞬を生きるのだ。
これが「一生懸命」である。
病気とは、「自分自身の負の側面」を表現したものである。
その「負の側面」に向き合おうとしなかった期間が長ければ長いほど、治りにくい病となる。
焦ると失敗する。自分と向き合うことが苦手な人に多い。
焦ると良くないのは、病に限らない。世事万端に共通することである。
焦らずに悠々と生きる。
その本質は、生きる意味に目を向けることである。
その方法は、死とは何かに目を向けることである。
人はいつ死ぬかわからない。だからこそ、
今、そう信じて生きる。
明日も、そう信じて生きる。
あさっても、そう信じて生きる。
信じてよい。信じて得なことを、今、信じる。
死ぬ瞬間も、そう信じて「生きる」。
「今」は常に生死の境界線である。
「今」は常にゴールラインである。
そして、ここがゴールではない。常にその先を目指して走り抜く。
それが現実の「今」であろうと。
それがこの世の終点である「ゴールライン」であろうと。